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ユダヤ問題のポイント(日本 昭和編) ― 第1話 ― 闇から始まった昭和期
歪な形で始まった昭和期 〜暴力テロを闇に葬る意味と影響
1926年12月25日、大正期は終焉し昭和期が始まりましたが、それは大正天皇の崩御によるものではありませんでした。このあたりについては「歴史の襞の中から」シリーズで見てきたところですが、改めまして。
ガーター騎士団の正装をした大正天皇
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時期としては1922年以降でしょう、大正天皇が行方不明となります。徳川慶喜たちの拉致・軟禁によるものでしたが、宮中では大正天皇が行方不明となり、その対応に苦慮していたと思えます。
ところがその大正天皇の消息が明らかになります。大正天皇の拉致・軟禁を実行した側である徳川慶喜の下にいた瀧山一族が不満を抱き、昭和天皇宛に脅迫?の手紙を届けたのです。
これで宮中は状況を把握し、大正天皇が帰城することはなく大丈夫との判断を下し、大正期を終焉させ、昭和期を始動させたと考えられます。決して正式な形での大正期の終焉と昭和期の始まりではなく、非常にいびつな形での昭和期のスタートだったのです。これが昭和に常に黒い影を落とさせていたように感じます。
大正天皇が崩御したのではなく、何らかのアクシデントによって行方不明になっていたことぐらいは、宮中のものの全員は無論のこと、政府高官や宮内庁職員などは皆知っていたでしょう。
大正期はわずか15年足らずでしたが、大正天皇排除の動きは早くから始まっていました。1921年の裕仁親王の欧州外遊、そして摂政着任など、その大正天皇排除の動きの末の現れです。
1921年、イギリスの首相ロイド・ジョージらと会う皇太子裕仁親王
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もうこのあたりで既に大正天皇の社会的生命はほぼ失われていたのです。宮中の人間、政府高官、宮内庁の職員、これらの者の中には大正天皇排除に積極的なもの、消極的なもの、排除に反対だがやむを得なくついていったもの、様々だったでしょう。
しかし、事実を知るものは全員が大正天皇排除の共犯者にさせられたことになります。共犯者である以上は、いよいよ沈黙が強いられます。この大きな問題は、都合次第では正式に即位した天皇でさえも首をすげ替えられる力を有するものが存在していたということです。
そして現に、天皇の身近に天皇に暴力を加えられる装置が備えられていたことです。天皇に危害を加えられるのは、天皇の身近なものなのです。
実際には、大正天皇の排除や暗殺命令には昭和天皇その人が関与していたと見るのが自然です。そしてその関与はある部分は成功です。しかしその大正天皇に向けた刃は諸刃の刃です。いつ逆にその刃が昭和天皇に向けられるかも分からないのです。そして実際に昭和天皇の香淳皇后、そして皇太子候補数人にその刃が向いたようです。
裕仁親王と妃良子女王及び照宮成子内親王(1925年)
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更にこれが問題なのは、暴力テロの首謀者や実行部隊が何らの咎めを受けず、闇の事件として葬られていることです。こうなってしまった以上、天皇は可能性としては暴力テロの標的になってしまいます。
昭和天皇は外見とは裏腹に野心的な人物のようです。しかし反面こうなると、天皇もどこまで自分の意志で動けるのか?誰かの代弁者のお飾りにならないか?ということが当然ながら問われてきます。
蒋介石の国民軍に敗北した張作霖 〜傀儡を拒否した人物の行方
一方、「自らは王なり、自らが自らの意志を押し通す」といった宣言を高らかに示した人物がいます。張作霖です。
張作霖
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張作霖は馬賊で、日露戦争でロシア側のスパイとして活動していました。日本軍は張作霖を捕縛し処刑しようとしましたが「見どころあり」として日本側のスパイとなり、日本軍の後押しもあって、張作霖は次第に軍閥としてのし上がっていったのです。
そして大正期の終焉、昭和期の始まりと重なる1926年12月には、彼は北京で大元帥に就任、自らが中華民国の主権者であることを宣言したのでした。
その後、中華民国の主権者を自認する張作霖は、当然のように主権者として振る舞い、日本軍部の意向とは反する行動を取るのです。改めて『日米開戦の正体』での孫崎享氏の見解を示します。
張作霖と関東軍の関係を見ますと「植民地」、あるいは「準植民地」を経営しようとする「宗主国」と植民地によくあるパターンが見られます。「宗主国側」は自分に都合のいい人物を見つけ、これを育成します。しかし、「宗主国」の支援を受けた人物は次第次第に勢力を拡大していきます。そうなると宗主国の指示を聞かなくなります。最後は「宗主国」側はこの人物を排斥します。それが張作霖と日本軍部の関係です。
まさに言い当て妙です。
こうして日本軍部からの独立の動きを取った張作霖は、よくあるパターンに従うようにその生涯を閉じていくことになります。
権力を掌握した頃の蔣介石(1926年)
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1928年4月、孫文の後継者として頭角を現した蒋介石が国民革命軍を改めて改編し北伐を開始。この蔣介石と張作霖は対峙。張作霖は防戦するも日本軍などの支持を受けられずに敗北します。敗北したこの張作霖についてウィキペディアの張作霖記事には次のようにあります。
当時の日本の首相・田中義一はなおも張の利用価値を認め、東三省で再起させることを考えていたが、既に満州国の建国計画を進めていた関東軍は張の東三省復帰を望まなかった。
もう既に関東軍にとって、自らの意志を持ってしまった張作霖は邪魔者扱いだった模様です。利用価値のある間は重用しますが、利用できなくなったら «最後は「宗主国」側はこの人物を排斥します。» のパターンです。そうやって張作霖には決定的瞬間が訪れてしまいます。
爆殺された張作霖の乗っていた貴賓車の残骸
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張作霖爆殺事件の黒幕 〜田中内閣を総辞職に追い込んだ昭和天皇
張作霖の死はウィキペディア記事で以下のようにあります。
1928年6月4日、早朝に北京を引き揚げ、自らの根拠地である奉天へ向かった。同日5時半に奉天近くの皇姑屯駅を通過、瀋陽駅途中の鉄橋下で乗車中の列車が爆発し、重体となる。張は自動車で私邸に担ぎ込まれたが、まもなく死亡した。
この張作霖爆殺事件で使用された爆弾はロシア製であることが判明しており、張作霖爆殺事件の犯人については諸説があります。しかし現在では、張作霖爆殺事件の策略及び実行は関東軍の参謀・河本大作大佐によるものとほぼ確定されているようです。
関東軍参謀 河本大作大佐
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ただし、張作霖暗殺の具体的な策略と実行は関東軍の参謀・河本大作大佐によるものとしても、それは無論当時の田中内閣からの許可、そして陸軍上層部の許可を得たものではないので、河本大作大佐にそれを命じたもの、黒幕がいるはずです。それは誰か?
ディビット・バーガミニ著の『天皇の陰謀』がネット上で公開されています。それを読むと、大正天皇の側近ブレーンの皇族の閑院親王の命で1916年に張作霖を殺害しようとして爆弾を投げつけた、しかし、張作霖はその場を逃げて殺害を切り抜けるという事件が既に発生していたと記されています。
皇族たちにとって、元々が馬賊で無学な張作霖は嫌悪の対象だったようです。彼らは張作霖が満洲の覇王として台頭するのを、蕾の内に摘み取ろうとしていたようです。
そして、一旦は逃してしまったその機会が再び訪れたのです。今回の満洲鉄道列車爆発による張作霖の殺害、その背後にあったのが昭和天皇、皇族ブレーン、昭和天皇の特務集団であったと『天皇の陰謀』ではしています。そして昭和天皇が他国の政治指導者の暗殺に関わり、その一線を越えたことで「彼は日本を西洋世界に、殺人国家としての名を着せてしまうこととなった。」ともしています。
昭和天皇、そしてその特務集団もやはり中国長城以北の地、つまり満蒙の地、これを併合した大日本帝国として君臨することを見越しており、それには張作霖は既に邪魔者だったのです。
「昭和天皇が単に日本的存在であるだけではなくて、イルミナティ、サタニスト世界権力によって育成された極めて有能な重要な貴重な傀儡である。イルミナティ、サタニスト世界権力の道具として裕仁は機能したし、この本が出た当時も、今に至るまでそうだということの明確な証拠であると私は思います」
— Sean McQ (@marbleshit) November 20, 2018
編集者註:アメリカの権力までもが著者のバーガミニを葬り去ろうとしたことに対する太田龍氏の主張です。
これは張作霖をまだまだ重視し、利用すべきとする時の日本首相田中義一と対立する路線でもありました。
張作霖爆殺事件は国際問題であり、田中内閣は真相究明と断罪を昭和天皇に奏上します。しかし、真相究明は当然ながらうまくはいかない、という以上に真相が明らかになればなるほど、それを公にはできないと田中内閣は苦慮します。
結局のところ張作霖爆殺事件を有耶無耶にせざるを得ない、このことについて田中義一は昭和天皇から難詰され、辞職を迫られ、1929年7月、ついには田中内閣は内閣総辞職に追い込まれ、その2ヶ月後には田中義一は失意のうちに死去することになります。
田中義一
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しかし本来の昭和天皇の実像は、テレビ映像でイメージ付けされた像とは異なっていたことが分かってきています。非常に鋭い知性の持ち主で、几帳面かつ神経質、そして野心家、これが本来の昭和天皇の実像に近いでしょう。
昭和天皇の上位には堀川辰吉郎があったのは間違いないところで、彼は世界天皇となるべく動いていたことが見て取れます。
しかし、昭和天皇もやはり大きな野心を有していた模様です。朝鮮半島に引き続いて満洲・蒙古を併合し、世界に君臨する大日本帝国の統治者としての天皇を昭和天皇は見越していたようです。内閣や軍部からあげられてくる計画や素案に、単にメクラバンを押して「おまかせ」にしていたわけでは決してないのです。
背後には堀川辰吉郎がいてその代役としてですが、日本と英国、米国は裏で手を結ぶことになる第2次世界大戦の内容に合意する「1921年国家間条約」を調印したのは当時の裕仁親王です。極秘事項を所持している昭和天皇が、内閣や軍部に種々の指示を出すなど強い影響を与えていたのです。