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アメリカの学校の素晴らしい配慮
アメリカの孫達が全く英語を話せないまま、いきなり現地の小学校に行き始めたのが2年前。今では何不自由なく英語を話し、授業にも参加しています。子どもの適応力は凄いと思いますが、その受け皿である学校の配慮も素晴らしいものでした。
まず、通学する前に親子で面接があり、どの学年に入るか検討されました。英語が全く話せなかったので一学年ずつ下げてお姉ちゃんは5年生。弟は1年生に編入しました。17人クラスです。先生の配慮で日本人のクラスメイトをフォロー役に付けて、授業の通訳や、他の友達とも仲良くなれるように橋渡しをしてくれました。その子たちも同じ経験をしたことがあるので優しくしてくれました。
学校にはクラス担任を持たない特別支援の資格を持った先生がいます。多様な理由で授業についていけない子どもがいれば、そのクラスに入ってフォローしたり、自分の教室で特別支援の少人数授業をすることもあります。自由に介入できるので、いつも子ども達の様子を見ながらプロとして最善の取り組みを模索しているようです。
孫達は英語がわからないので2人の語学担当の先生が特別授業をしてくれました。毎日1時間、通常授業を抜け出して色々な国の子ども達と一緒に学習します。定期的に簡単なテストがあって、合格ラインに達したら卒業です。孫達はそこで色々な国の友達ができてよかったようです。
通常の授業も、日本の学校のように45分間座って授業を受けるスタイルではありません。先生が本を読むときは好きなソファに座る。みんなで話す時は輪になって座る。自習の時は思い思いの場所で勉強するなど、移動型のスタイルです。
これは、気が分散して集中力が続かない子どもの特性をよく理解している授業スタイルです。これなら多動傾向の子どもも目立たず、皆と同じように授業を受ける事ができます。
日本では、落ち着かない子どもの方を問題視してその子どもだけを指導しますが、アメリカはそんな子どもがクラスに適応できるように環境の方を変えていくやり方です。そもそも子どもにとって45分間じっと座っている方が無理な話です。
宿題もなし。学力を競わせるテストもないので、子ども達はリラックスしています。テキストも文具も学校にあるし、忘れ物で注意されることもありません。先生はいつも子ども達が授業に興味を持つように面白い仕掛けをしてくれます。不登校もありません。孫達はこの雰囲気が気に入ったようで、言葉も話せないのに学校が楽しくて日曜日も行きたがりました。
今では下の弟も学校に併設されているキンダーに通っています。日本では年長さんですが、学校生活に慣れるために義務教育になっています。英語が話せないけれど、楽しく通っています。
下の弟は日本の学校に通っていたら問題にされるくらい、ゆっくりさんです。積極的に発言するのも苦手です。でも、それを誰も問題視していないので孤立することなく、ゆったりお友達と遊んでいるようです。
間違っても怒られない、評価されないから自分のペースで自然に学び取っているのだろうと思います。いつの間にか英語がわかるようになり、好きな動物の名前は英語で書けるようになっていました。本来、学ぶとはこういうことだと思います。
インクルーシブ教育とは
さて、日本ではどうでしょうか?もしも、日本語が全く分からない子が転校してきたら、これほどまでに配慮してくれるでしょうか?
最近、インクルーシブ教育と言う言葉が普通に語られるようになってきました。これは、世界の潮流で「障がいのある子、民族、性別、言葉の違いに関係なく、多様性を受け入れて通常の学級で共に学ぶ」と言う教育です。
でも、日本は移民が2%の国なので、インクルーシブ教育と言いながら、障がいがある子の支援に焦点が当てられています。障がいを個人の問題としてとらえて、その子が学校や社会に適応できるように指導するという考え方です。そのため、分離して特別な授業をしています。
でも、世界の流れは、これを社会的問題、環境の問題としてとらえて、環境や授業法を変えて、その子が通常の学級に参加できるように合理的配慮をしていく方向に舵を切り始めました。
誰も排除しない環境を作るためにはどうしたらいいか?を考え続ける事は、人が社会で共に生きていく上でも大切なことです。
#合理的配慮 を考える #発達障害 の子どもたちの障壁を視覚化したら pic.twitter.com/IdoOVgYAuR
— ジョブシップさかい(公益財団法人堺市就労支援協会) (@jobship_sakai) September 10, 2019
でも、日本の教育はその方向に舵を切れない事情があります。学校の大改革が必要なのです。
日本は一斉授業をしやすい学年割で、健常者を基準にしたカリキュラムが作られています。その日に学ばせる「めあて」が先にあって、先生は平等に効率よくマニュアルに沿って教えなければいけません。
理解度がバラバラでついていけない子どもがいても、先生の裁量で授業を変えることはできません。適応できない子は居心地が悪く、動き回ったり廊下に出たりします。クラスに排他的な雰囲気があれば、他の生徒はそういう子どもを迷惑だと思ってしまうかもしれません。
実は、全体の児童数はこの10年で約100万人も減っているのに、自閉症や情緒障がい、学習障がい、注意欠陥多動性障がい、言語障がい児は増え続けています。
親も「特別支援教室の方が手厚く関わってもらえるから」「通常教室で迷惑かける存在にはなりたくない」と言う気持ちで特別支援学級を望む傾向にあり、特別支援教室や通級指導教室が増え続けている要因になっています。その一方で、学校では守られて特別な授業を受けても、子どもが社会に出た時にどんな将来があるのだろうか?適応して生きて行けるだろうかと悩みます。
先生も学校のカリキュラムに従いながらも、目の前の子どもにとって、これでいいのだろうかと悩んでいます。先生の本来の仕事は、子どもの幸せな未来のために教育する事。そのことに主体的に関われないまま、何のためにしているのかわからないような仕事が山積して疲れ果てています。
何より本人が一番困っています。健常者を基準にした計算ドリルや漢字の書き取りを、何日も何週間も覚えるまで教えている学校もあります。そんなことをして、本人が社会で生きていく上で何の意味があるのでしょうか?
この子ども達は、社会の多様性を教えてくれる存在です。自分の好きな事やできる事に特化して活躍できるかもしれません。多かれ少なかれ、みんな凸凹な存在です。いつ自分がそうなるかわかりません。そんなことに囚われるより、このメンバーで何ができるか?どうしたらいいか?を知恵と勇気と優しさを持ち寄って考えていきたいと思います。
これこそが生きていく上で最も大事なことです。人は多様性の中で暮らし、一生を通じて主体的に学び続けて行く存在なのに、学校や経済界は分断した競争の世界観を押し付けています。このままでは人間が壊れます。まずは「何のために学校はあるのか?」を問い直す時期に来ているのではないでしょうか?
生きるために必要な授業があるフィンランド
息子が暮らすフィンランドでは生きる権利と共に、well beingという概念を大切にしているそうです。人は肉体的、精神的に良好で、自尊心、自己肯定感が高く、性的充足感もあり、いじめや虐待を受けることなく、貧困や障がい者であっても支援や保護を受けられ、自由でいられることを前提に、学校を始め、色々な社会のシステムを変えて行こうとしています。
だから、学校でさえ、幸せに生きていくための生涯学習の1つの場であり、勉強が優先順位の1番ではありません。
そのため、フィンランドの学校では、「人権」「自分の感情表現」「私は私でいいというセルフケア」「愛するとは?」「宗教とは?」「キャリア教育」「実際の政治・政党の仕組み」「銀行・税金の仕組み」「メディアリテラシー」など、生きるために必要な授業があります。
これらは、日本のように正解が先にあり、知識や技能を詰め込む授業ではありません。正解は1つではなく、皆で調べてディスカッションします。そのプロセスを大事にしている授業です。その時に、いろいろな人の都合や考えがある事も学びます。
障がい児に関しても、ひと昔前までは、どこの国でも重い障害のある子は就学の免除や猶予があり、受け入れ先さえない状態でした。1970年代です。フィンランドも初めは分離型支援で、特別支援教室や特別支援学校が多かったのですが、今は92%が通常教室で学び、必要に応じてパートタイム特別支援、補習授業、短期集中型支援をしています。
少人数クラスで、先生は1人か2人。どの学校にもクラスを持たない特別支援の資格を持った先生がいて、授業を補佐したり、チームで教えたりします。授業の仕方も先生に任されていて、その日の気分で場所を選ぶ、授業の中にかならず運動を入れる、好きな場所で勉強していいなど、集中力が続かない子どもにも居心地がいいように配慮されています。
他にも、学校にはスクールサイコロジスト、スクールナース、スクールソーシャルワーカー、進路のガイダンスカウンセラー、スクールアシスタントというスペシャリストがいて気になることがあったら予防介入ができるので、担任の先生は子どもの問題を一人で抱え込むことはありません。保護者への対応もスペシャリストがしています。
ちなみに、学校の先生は大学院を卒業していますし、スペシャリストは勉強をして特別な資格を持っているので、給料が高いとの事。
職員室は先生の休憩所。キッチン、カフェがあり、好きなソファでくつろげます。金曜日は持ち寄りでランチをしているとか。私もオーストラリアで大学の先生をしている娘の職場に行きましたが、キッチンが付いた家庭のリビングルームのような雰囲気の職員室でびっくりしました。
日本はやっと、公立小学校の学級編成を35人に引き下げる「公立義務教育諸学校の学級編制及び教職員定数の標準に関する法律の一部を改正する法律案」が2021年2月2日、閣議決定されたところです。2021年度から5年かけて1クラスあたり35人に引き下げる方針だそうです。
増え続ける特別支援学級の先生は障がい児支援を学んだ先生が担当することになっていますが、まだ少数です。他に、スクールソーシャルワーカー、スクールカウンセラーなどが学校を回って、先生や保護者、本人の相談に乗っていますが、こちらも1人で複数の学校を掛け持ちしているのが現状です。とにかくスペシャリストが足りません。
おりしも、5月27日に小中学校の全国学力テストがありました。この結果で、市町村や学校のランキングが発表されます。各学校は教育委員会から自校の課題を分析し、授業の改善を促されます。そして次年度の学力テストの目標点を出し、それに向けての学力向上プランを作らなければいけません。つまり、成績の結果責任を取らされるのです。学校や先生はこの呪縛から逃れられないのです。
先生の平均労働時間も世界一長い1週間56時間です。フィンランドの先生は33時間。孫が通うアメリカの学校の先生も2時にはバイバーイと帰っていました。
このように、日本でインクルーシブ教育を推進すると言っても、それ以前の学校教育システムの問題が山積しています。
そもそも、社会は特定の誰かのためにあるのではありません。色々な人で構成されています。世界が多様性に溢れているからこそ、豊かに生きていくことができます。このまま学校が競争や選別の場になり、多様性を無くしたら、子どもが描く未来はどんな世界でしょうか?
結局、愛を基盤に私達の世界を作っていくつもりがあるのか?を問われている気がします。
学校で野生動物の保護について学んだ時に、もともと動物の生態に興味がある孫は詳しく調べて、自分で絵を描いて本を作りました。その時、孫が描いた動物の絵が素晴らしくて、友達が欲しいと言い出したのです。
それで、架空の会社を立ち上げて、注文を受けて絵を描き、お金も作って売り始めたのです。
お金を循環させる仕組みを学んだのも授業の一環で、得意分野が活かされて本気モードです。
今、予約が入りすぎて大忙し。絵の得意な友達も手伝ってくれるようになったそうです。「難しい注文もあるから、調べながら描いているよ」と、嬉しそうに話してくれました。
楽しく学んでいるなあ~、これだよなあ~、と思います。