ままぴよ日記 90 「生ききっている母」

窓の外は雪。久しぶりに家で原稿を書いています。毎日、母の所に行っているので、母の介護日記になってしまいました。

私達は子育てと同じように介護の仕方を習っていません。今は自宅でお産したり介護する人が少なくなりました。だから家で学習することもありません。
人生で必ず直面する大事な事なのに・・・。

でも、人はその場面に直面したら、相手が何を望んでいるのか?何をしてあげればいいのか?洞察していたら知恵やアイデアが出てくるものです。今回はそれで乗り切ろうと思っています。

そのためには、日頃の人間関係が大事です。介護したいと思う関係を築いてきたか?自信はなくとも子育てしたいと思う愛が湧いてくるか?
どちらも、愛の井戸が空っぽでは頑張ることができません。
でも、そこに一緒に頑張ってくれる家族や友人がいたらできるかもしれません。
子育ても介護も同じだと思いました。
(かんなまま)
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日に日に意識がもうろうとなる母


前回、母を送る決意を書きました。あれから毎日が母中心で回っています。

母は、日に日に意識がもうろうとなり、時々無呼吸になるようになりました。苦しそうではありませんが、私達が気が付かないまま亡くなってしまうのではないかと心配になってきました。私は、夜中に母を一人にしておけなくて泊まる事にしました。

実家に泊まるなんて久しぶりです。最後にお産した時以来です。そう35年前。母の横に寝るなんて紀元前以来?(笑)

昼の疲れで睡魔が襲ってきます。でもぐっすり寝てしまったら母の呼吸の変化に気が付かないかもしれません。私の父も眠ったまま亡くなりました。病院の血圧モニターが急に下がり始めたので気が付きましたが、それがなかったら横に居てもわからなかったかもしれません。

母のそばには、血圧計も、酸素ボンベも体温計すらありません。私の感しか頼れない。「母に何かがあったら気づかせてください」と祈って寝ました。暖房器で空気が乾燥しています。入れ歯を外しているために口が開いた状態で寝ている母。古い加湿器を用意しましたが母の唇と舌がどんどん乾燥していきます。


スポンジを水に浸して口を湿らせてみましたが、すぐに乾きます。ふと、はちみつを塗ることを思いつきました。ヒマラヤはちみつを唇と舌にたっぷり塗りました。歯が一本もないので虫歯になる心配もありません。舐めてもいいし、しっとりしてきました。いい感じです!

結局、30分おきに目が覚めてしまいました。朝方、兄夫婦が来て、3人でおむつを替え、体位を変えました。3人とも介護に慣れていないため、中腰の姿勢で腰が痛くなってきました。途中で、電動の介護ベッドを高くすれば腰が楽になることに気が付きました。全て試行錯誤です。

母は目を覚まして、喉が渇いたと言いました。経腸栄養ドリンクにとろみをつけて飲ませようとしましたが、もうストローを使って吸ったり、嚥下する力がありません。口に入れて少しずつ溶けていくようにキューブ状に凍らせてみる事にしました。

成功です。冷たくて気持ちがいいのか、3個食べてくれました。小さな声で「甘露、甘露~」と言って微笑みました。思わず笑ってしまいました。

それから、少しずつ氷を欲しがるようになりました。おいしそうな米麹が手に入ったので、甘酒を作ってビワの種の粉末と一緒にミキサーにかけ、それを凍らせてみました。さて、食べてくれるでしょうか?

一口入れてみたら「おいしい~!」との事。気に入ったようです。何だか元気になってきました。3番目の兄が来て「誰かわかる?」と耳元で聞いたら「ガッテン、承知の助!」と入れ歯のない口で笑いました。もう、こんな時にも冗談です。いつもの母が蘇ってきました。

私は2晩寝ていないので、義姉と交代して家に帰りました。寝不足で時差ぼけ状態です。銀のマーラーを首からかけてサウンドテラピーの音を聞きながら横になりました。とても楽になりました。母の所に持っていって聞かせようと思いました。ただし、母は耳が遠いのでどうでしょうか?試してみようと思います。

夜もぐっすり眠ることができて朝ごはんを食べていたら、義姉から連絡が来ました。母が元気になって、一人でトイレに行くと言い張ってベッドのふちに座っているというのです。もう自分では歩けないし、今までおむつで用を足していたのに、急にトイレを思い出したようです。



母のところに駆けつけると、昨日までの母とは別人で何度も起きようとします。「トイレに行かせて!」「我慢できない!」と聞きません。力が出ないはずなのに、起き上がろうとする気迫が凄いのです。私はこれが母の願いなら叶えてあげたいと思いました。「母の人生最後のトイレよ。頑張って連れて行こう!途中で転んでもOK!」と義姉に言って、二人で抱えて連れていきました。

私が母を後ろから抱いて、支えて歩きます。義姉は露払いのように(笑)ドアを開け、便器をあげて母を座らせました。母は座るなり、安堵したような表情になって、長い長いおしっこをしました。そして仕上げに渾身の力を込めて便をしました。

綺麗に拭いて母を抱え上げてびっくり!!何とバナナより太くて長いうんちです!!この弱った母がこんな立派なものをするなんて、おかしいやら、感動するやら!

義姉と顔を見合わせながら「私のより凄い!」「負けた!」と笑い転げました。もう母は力を出し切ったのか抜け殻のようです。しんなりなってベッドに運ばれて、「あ~、これで安心した」と言って、その後一日中眠りに入りました。


自分で体に残った物を出し切ったのかしらと思うほどでした。それから2日間、何も食べません。時々起こそうとすると「静かに眠らせて」と言います。夜中も静かに寝ていました。加湿器も新しいのを買って、遠赤外線の暖房機も持ってきました。おかげで私も眠ることができました。


家が母の世界だったのです


コロナ禍ではありますが、母の兄弟や親しかった親戚には知らせた方がいいと判断して連絡しました。実家が本家なのでお正月、お盆はもちろん、年中親戚が集まる家でした。夏休みになると従妹たちも泊まりに来ていました。その頃は仕出し弁当などなかったので大変だったろうと思います。

早速、別々の日程を組んで叔母と従妹達がやってきました。みんな母の姿を見て泣かんばかりです。呼びかけると、しばらくジーっと顔を見て「○○ちゃん、嬉しい~」「ばんざーい。飛び上がるほど嬉しい!」と言う母。急に明晰になって昔の手遊び歌を披露します。

従妹たちから「子どもの頃、祖母に怒られた時に優しくしてもらった」「こんなお母さんが欲しかった」「手伝わせて。何か恩返しをしたい」等、私の知らない母の話を聞きました。


不思議なことに、私も母に怒られた記憶がありません。忙しくて構ってもらえなかったという気持ちはずっとありましたが、母の忙しさを子ども心に理解していましたので大丈夫でした。

よく考えてみると、母達の時代は今どきのママ達のように一日中、子どもの世話をしていたわけではありません。家の中にたくさんの大人がいましたから、誰かが世話をしてくれていました。母の代わりに躾をする厳しい祖母もいました。

母は、むしろ家事と家業で忙しくて、子どもの世話をできなかったのかもしれません。それでも私たち子どもは、家の中で父と母の姿が見えていましたので大丈夫だったのです。

そして、母は根っからの明るい人です。笑い上戸で、何が可笑しいのか、ツボにハマったら座り込んで笑っていました。でも、今のように鼻歌を歌ったりするようになったのは父が亡くなってからです。徐々に自分らしさが開花してきたのでしょう。

従妹たちが来た日は、昔の事を思い出して気持ちが興奮したのか、ずっと目を開けていました。そして、次の日はずっと眠る…というように日によって全く違う容態でした。

ある日、偶然ですが、兄弟全員が揃った日がありました。母はそれがわかったのか「私は幸せです」「あとは皆にお任せします」「一つだけ願うならば、みんな仲良くね。それだけです」とはっきり言いました。

「ガッテン、承知の助!」いやいや「御意!」。私はこの母の言葉を深く心に刻みました。

天井を見て、「ほら、雀がちゅんちゅん鳴いている」「今、藤の花を見てきた」「皆様においでいただきまして、ありがとうございます」という母。鏡を見て「上品なお顔」と言ってニヤッと笑ったり・・・。色々時空を超えて散歩しはじめているようです。

そんな母は介護認定では要支援2。介護ベッドや褥瘡予防のマットレスを使うにも、清拭サービスを受けるにも、すべて自費です。家でできる事はしますが、長期戦になったらこちらが参ってしまいます。さっそく、介護認定を見直してもらう事にしました。

このように私の生活が一変しました。夜勤(笑)が増えたので、朝方、家に戻ると14歳の愛犬が甘えて私から離れません。抱っこしてあげていると今度は猫が鳴き始めます。猫に餌をあげたり構っていると、デッキで雀が餌を待っています。多い時は50羽ほどやってきます。キジバトはいつもつがいです。

餌をやり終わったら、家の中の植物がのどが渇いたと言っています。その後、洗濯、食事の用意。今までどんな生活をしていたのか思い出せないくらい優先順位が変わってしまいました。とにかく、非常事態の時は命が先です。

家庭生活とはそんなもので、出産、子どもの事情、家庭の事情で一気に優先順位が変わります。


いつも家族中心。目の前の事に向き合って一生を終えるのでしょうか。まさに母の人生です。母は友達と出かける事もありませんでした。家が母の世界だったのです。唯一、私達が暮らすカナダに1人で行って、私のお産の手伝いをしたことが大冒険でした。母の世界は家の中だけでしたが、豊かな人生を生ききったと思います。

私も、コロナ禍で飛行機や電車はおろか、バスに乗ることもなくなりました。今更ながら、ここが私の生きる世界。そして、必要なもの全てがここに在ると気が付きました。

しばらく続く介護です。逝き行く母の生命力の不思議さに驚き、萌出るようなエネルギーの孫を抱いていると、どちらも「生きる原点」を教えてくれます。そして愛おしさが募ります。


Writer

かんなまま様プロフィール

かんなまま

男女女男の4人の子育てを終わり、そのうち3人が海外で暮らしている。孫は9人。
今は夫と愛犬とで静かに暮らしているが週末に孫が遊びに来る+義理母の介護の日々。
仕事は目の前の暮らし全て。でも、いつの間にか専業主婦のキャリアを活かしてベビーマッサージを教えたり、子育て支援をしたり、学校や行政の子育てや教育施策に参画するようになった。

趣味は夫曰く「備蓄とマントラ」(笑)
体癖 2-5
月のヴァータ
年を重ねて人生一巡りを過ぎてしまった。
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