————————————————————————
ユダヤ問題のポイント(日本 昭和編) ― 第52話 ― 自民党の結党
「第五福竜丸」被爆の実情
*1945(昭和20)年: | 第2次世界大戦終了。日本はGHQの統治下に。 |
*1947(昭和22)年: | 米ソ冷戦が始まる。 |
*1948(昭和23)年: | 韓国と北朝鮮が建国。イスラエル建国宣言、中東戦争に。 |
*1949(昭和24)年: | 共産中国が建国。中国国民党は台湾へ。 |
*1950(昭和25)年: | 朝鮮戦争が始まる。1953年まで激しい戦闘。 |
*1951(昭和26)年: | サンフランシスコ講和条約・日米安保条約。日本は形式上独立。 |
*1953(昭和28)年: | スターリン暗殺。 |
*1954(昭和29)年: | ビキニでの米水爆実験で「第五福竜丸」被爆。統一教会創設。 |
*1955(昭和30)年: | 自民党結党(CIAの手引による)。 |
1954年、統一教会が創設された同年の3月から、ビキニ環礁にて米国による連続の水爆実験が行われました。
アメリカによるビキニ環礁での水爆実験の様子
米軍はこの水爆実験の爆弾の威力を低く見積もり、危険地域を狭く設定したため、安全とされた区域で操業していた多くの船舶が被爆することになりました。その中に「第五福竜丸」があり、船員たちが「死の灰」を浴び、久保山愛吉無線長は、被爆した3月1日から約半年後の9月23日に死亡するという事件となりました。
ウィキペディアの「第五福竜丸」記事には、「第五福竜丸が浴びた放射性物質とその被害は、1954年の映画『ゴジラ』が制作される動機にもなった。」との記述と共に、
第五福竜丸は救難信号 (SOS) を発することなく、ほかの数百隻の漁船同様に自力で焼津漁港に帰港した。これは船員が、実験海域での被爆の事実を隠蔽しようとする米軍に撃沈されることを恐れていたためであるともいわれている。
ともあります。米ソ冷戦・東西対立の深刻化、米ソはそれぞれ宇宙開発と核兵器開発競争を激化させている途上での事件でした。
この世界潮流の中で、コントロールが全く不能で翻弄されるしかなかった日本の姿が「ゴジラ」「米軍に撃沈されることを恐れていた」との表記に見て取れます。 1951年のサンフランシスコ講和条約にて日本は形式上独立となりますが、同日に結ばれた日米安保条約で、日本の米軍による軍事占領は継続されていたのです。
「第五福竜丸」事件にて、日本では原水爆禁止の運動が本格化する反面、米国から原子力の平和利用が謳われており、日本では「第五福竜丸」事件と同時期に、原子力発電所が次々に建設される動きが本格化していました。ウィキペディアの「日本の原子力発電所」に次にある通りです。
日本における原子力発電は、1954年(昭和29年)3月に当時改進党に所属していた中曽根康弘、稲葉修、齋藤憲三、川崎秀二により原子力研究開発予算が国会に提出されたことがその起点とされている。
日本の原子力の父とされるのが、中曽根康弘と読売新聞の正力松太郎です。共にCIA工作員であったのには間違いなく、正力松太郎にはポダム(podam)なるコードネームもあります。言うまでもなく、日本の原発にはCIAの思惑があったのです。
それと黒龍会の3代目総裁であった中曽根康弘同様に、正力松太郎も裏天皇の部下であったでしょう。つまり、日本の原発乱立はCIAの思惑もありますが、「核兵器を保持したい」という裏天皇グループの動きもあったと見て間違いないのです。地震国日本での原発乱立、これがやがて2011年のフクシマ事故に繋がります。
☝ お・さ・ら・い
【ガンダーセン教授が指摘する3号機の核爆発について】
何が3号機の爆発を引き起こしたか?
明らかに3号機は爆発であり、その二つの理由があります。
一つは、噴煙が上方に立ち昇っている大きさ。
二つ目は、赤い閃光が建屋の側面で光ったこと。
明らかに3号機は爆発であり、その二つの理由があります。
一つは、噴煙が上方に立ち昇っている大きさ。
二つ目は、赤い閃光が建屋の側面で光ったこと。
(中略)
①水素・酸素の化学反応が始まり(水蒸気爆発が起こり)、
②それによって燃料棒が激しく動いて変形するような衝撃波が生じた。
③使用済み燃料プールでの燃料棒が変形し(集約したことで)、即発臨界による核反応を引き起こした。
④その反応が、プールから燃料棒・燃料棒集合体などを吹き飛ばし、噴煙を浮き上げる爆発のエネルギーと3号機での劇的な場面を作り出した。
日本の「保守政党」の意味
1955年11月15日、日本民主党と自由党が合同し、自由民主党が結成されます。これを「保守合同」ともいいます。この「保守合同」は今では考えられないことになっていますが、当時の日本は社会党が強大な勢力となっており、それに対抗するためのものだったとよく言われています。
ここには当然ながら米国(CIA)の思惑があり、それに裏天皇グループが協力していることが見えます。『戦後史の正体』p180には以下の記述があります。
米国のジャーナリスト、ティム・ワイナーによれば、米国のダレス国務長官は自民党結党三ヶ月前に岸信介・日本民主党幹事長に会い「もし日本の保守政党が一致して共産主義者とアメリカの戦いを助けるなら[経済的]支援を期待してよい」と明言したそうです。(『CIA秘録』文藝春秋)
その後も1960年代まで、CIAを通じて自民党に政治資金が提供されつづけたことが、米国側の公文書で明らかになっています。
その後も1960年代まで、CIAを通じて自民党に政治資金が提供されつづけたことが、米国側の公文書で明らかになっています。
自民党結党には、CIAそして裏天皇の堀川辰吉郎の直接の部下であった岸信介の働きが大きかったことが見て取れるのです。
岸を中心に日本の政界に流れこんだCIAマネーは、
— yumi g-j ゆみ (@ygjumi) August 12, 2019
国務省の情報部門のトップを務めたロジャー・ヒルズマン氏によれば
毎年200万㌦から1000万㌦〔現在の貨幣価値で100億円から400億円位〕だったといいます。
(『「日米関係」とは何だったのか』マイケル・シャラー草思社)https://t.co/EO5fKGZqDw pic.twitter.com/M5hh4Fsw3w
さて、この「合同」した「保守」とはどういう意味なのでしょうか?
現在でも、自らを「保守本流」だと名乗っている自民党系の政治家が多くいます。彼らを「保守」以外に「右翼」だとか「国粋主義」とか呼ぶ場合も見受けられます。逆の勢力を示すのに、「革新」「左翼」「リベラル」という語が使われたりもします。
しかし、これらの語は中身が曖昧で線引きも困難です。特に「右翼」などは、ウィキペディアの「右翼」記事を読めば、その意味はとても規定できないことがわかります。
また、実際に議員が「保守」を名乗っていても、通常の感覚では「保守」などとはとても見て取れない場合が多いのです。「ただの米国隷従ではないか、米国隷従で自分の権力を維持するために国民の利益を、日本の伝統文化も平気で破壊しているではないか、これが保守か?」と思えるケースが非常に多いのです。
戦後日本の場合は、ウィキペディアの「保守」記事に、
戦後、「保守」とは語義通りではなく反動や復古主義の意味をはらむようになる。1955年、自由民主党は「立党宣言」の中で秩序の中に前進を目指し、保守政党を謳った。
とあるぐらい「保守」を名乗っても、その中身は掴みどころがないものとなっているのです。
ただし、ウィキペディア 「保守政党」記事に、
19世紀末ごろ、先進国に社会主義政党が登場するようになると「保守政党」は資本主義の価値を代表し、擁護する政党を指すようになった。
とあります。これを参考にすれば、日本の「保守政党」をあえて規定すれば、「資本主義の価値を代表し、擁護する政党」ということになると思います。こう解釈してやっと「資本主義の価値を代表」の国家が米国なので、自民党が米国に隷従するのは普通ということになります。資本家や無国籍の大企業を自民党が擁護するのも、この意味で合点いくとなります。
自民党の複雑な部分
自民党の結党の前に、日本民主党の鳩山一郎と自由党の吉田茂の対立があったのです。自民党結党によって、吉田茂から鳩山一郎に日本国首相は移行します。
一般的に「保守本流」は吉田茂の流れを汲むもの、鳩山一郎派などは「保守傍流」と称されていたのです。「保守合同」とは言ってもその中身、合同した人物群は種々バラバラの寄せ集め所帯だったのです。それで「保守合同」以降に自民党内で派閥争いを延々と繰り返していくことになります。
アベシが「憲法改正が自民党結党時以来から党是だった」と強調していましたが、これなども真っ赤な嘘です。自民党内でも日本国憲法に対する対場はそれぞれ異なってもいましたし、時代によっても党首の憲法に対する発言も異なっているのです。
バラバラながらも概ねとしては、自民党は「米国隷従」の政党になっていくのであり、そのスタート時からその要素は色濃くありました。ただし、だからこそというべきか、複雑な部分があるのです。
「米国隷従」の代表が吉田茂でした。しかし彼は「保守合同」で降ろされています。『戦後史の正体』を読めば、米国ベッタリの吉田茂も当時の米国の意向とは異なり、「日本の再軍備に熱心でない」ため米国から排除されたことが分かります。鳩山一郎は積極軍備論で、この点は米国に期待されたようです。米国の中でもその勢力図は変化するのです。
その米国に隷従するならば、日本は常にその動きに振り回され翻弄されることになります。現在日本、そのままの姿です。
自民党は「米国隷従」の政党になっていくのですが、最初から揃ってそうだったわけでもないのです。鳩山一郎は積極軍備論でしたが「対米自主路線」を看板にしていて、米国に睨まれながら日ソ国交回復に尽力し、それを果たしました。鳩山一郎政権で外務大臣だった重光葵は訪米し、日米安保条約の主役であったフォスター・ダレス国務長官を相手に「米軍撤退」を提言しているのです。
鳩山一郎政権退陣後に首相に選出された石橋湛山は、堂々と対米自主独立宣言を表明。「在日米軍問題」と日中関係に正面から取り組もうとしました(残念ながら急病によって僅か2ヶ月で石橋政権は退陣)。
そして意外にも『戦後史の正体』では、「自主路線」を表明した人物として岸信介の名が挙げられています。岸信介は「清和会」の源流であり、「自民党本流」とも称される人物なのですが…。
例えば、自民党は「保守政党」とされますが、思想・信条として何を「保守」している「政党」なのか?
普通は日本の伝統文化がその対象だと思うでしょう。しかし、自民党は「だまし討ち」でTPPを導入するなど、平気で日本の伝統文化など破壊してきました。普通の感覚で言えば、「保守」の思想信条で動いてなどいないのは明白です。政治が最優先で思想信条などは全くの後付の見せかけということで、彼らにとって政治は支配の道具です。
ただし思想信条は別として、「政党」には「似た者同士」が集っているのは確かでしょう。「権力の側に、支配者側にありたい、そのために現在の立ち位置で利用できるものは何でも利用する」、自民党を始めとする多くの政治家に共通するのはこの嗜好性でしょう。つまり思想信条ではなく、多くの政治家は「野心」で動いているということです。
また思想で言えば、「資本主義」と「共産主義」は全く異質で、逆のものとされます。…しかし見せかけと言葉の違いだけで、中身は同じものともなります。極少数者による民衆奴隷支配です。「資本主義」では資本を独占する者が、「共産主義」ではその社会を管理する者が、このそれぞれが、民衆を奴隷支配できる絶対支配者になれるのです。自民党はこの「資本主義」側の養護者となっていったのです。
ただし、自民党結党時には骨のある毛色の変わった人物たちが党内に存在してもいました。