ユダヤ問題のポイント(日本 昭和編) ― 第55話 ― 占領下の“独立日本”3

 新安保条約は、岸政権によって1960(昭和35)年1月19日に日米間で調印・締結。同年5月19日、衆議院本会議に新安保条約の批准案が上程。ここに激しい「60年安保闘争」が勃発しますが、新安保は6月19日に自然成立し、発効しました。こうやって岸政権下で新安保は成立しました。しかし本当のところは、この新安保は岸信介の目的・構想からはほど遠いものでした。
岸信介の歴史
 岸信介は、旧安保の米国による日本の軍事占領を再度確定させた行政協定を改定して、日本の自主独立を目指していたのでした。だから岸政権は「60年安保闘争」、樺美智子さんの死などを通じてCIAに潰されたのです。
 戦後は、岸信介はその工作員としてCIAと密着して行動をとっているので、戦後から切り取って歴史を眺めたならば、岸信介の日本を自主独立させる動きは意外に映るでしょう。しかし幕末からの日本の裏歴史、八咫烏の動きを辿っていると、岸信介の日本の自主独立に向けた動きは全く自然なものです。岸信介は裏天皇の堀川辰吉郎の直接の部下であり、幕末以降の八咫烏・裏天皇グループの動きは一貫しているからです。
 幕末に日本は英領(正確にはイギリス東インド会社の支配下)となりました。英領日本、それは英側による軍事侵略の面と、八咫烏が招きいれた側面がありました。こうやって明治維新が起きたのです。その中で八咫烏・裏天皇グループは日本の独立、そして日本を中心としたNWOを目指し、大陸に軍事進出していったのです。その結果、敗戦日本が生じたのですが、戦後も彼らはその動きを止めてはいなかったのです。
 日本の核武装、これも戦時中も戦後も変わらない彼らの一貫した動きの一つでありました。裏天皇グループは南朝勢力となりますが、彼らの動きを危惧する日本の勢力も当然ありました。
(seiryuu)
————————————————————————
ユダヤ問題のポイント(日本 昭和編) ― 第55話 ― 占領下の“独立日本”3

日本の自主独立に動いた岸政権


第一次岸内閣(1957年)
Wikimedia Commons [Public Domain]

1957(昭和32)年2月に日本国首相に就任した岸信介は、早速に安保条約の見直しと改定に動きます。その岸信介の安保条約の考え方(もっと正確に言うと、日本と英米の関係になるでしょうが)の基本が『戦後史の正体』p188に、吉野俊彦著『岸信介政権と高度成長』から引く形で次のように記載されています。

安保をもっと自主性にあるものに改定する、そのためには再軍備も必要で、憲法も改正にまでもっていかなくてはならないという考えかたをもっていた。あわせて沖縄の返還を実現したい、

岸信介は日本の英米からの自主独立を見越し、そのために日本の再軍備と憲法改正を考えていたということです。

この考えに基づく安保条約と行政協定の改定を、岸信介は首相就任2ヶ月後の参議院内閣委員会で表明。岸信介はその後の1957年6月には安保改定の交渉のため訪米しますが、その前にマッカーサー駐日大使と会談し、自分の考えを伝えていたとのことです。その内容が『戦後史の正体』p188からの続きで、以下のように紹介されています。

駐留米軍の最大限の撤退、米軍による緊急使用のために用意されている施設付きの多くの米軍基地、日本に返還することなども提案した。さらに岸は10年後には沖縄・小笠原諸島における権利と権益を日本に譲渡するという遠大な提案を行った(『岸信介証言録』)

「駐留米軍の最大限の撤退」そして日米関係を対等な地位に、との考えを持ち訪米した岸信介は、時のアイゼンハワー大統領とゴルフで二人だけの時間を持った上で、旧安保の主導者であったダレス国務長官と対峙。

…結果は、岸信介は在日米軍に切り込む意向だったが切り込めず、終了となったとのことです。


ダレスは安保条約の見直しには反対しませんでしたが、日米行政協定「駐留米軍の最大限の撤退」については協議機関を提案、それが日米安保委員会(のちの「安全保障に関する日米委員会」)の設置となったとのことです。

しかし、この委員会はまともに機能しなかったことを指摘した上で『戦後史の正体』で次のように記し、孫崎氏は残念がっています。

歴史で「もし」は禁句だそうですが、このケースだけは許していただきたいと思います。もし岸政権が1960年7月、安保騒動で崩壊しなかったら、岸首相は「駐留米軍の最大限の撤退」を「日米安保委員会」で検討させていたでしょうか。
「おそらく検討させただろう」という結論が出ると、岸政権のこれまでの評価はすっかり変わります。(p196)

ただ、不幸なのは、それ(筆者注:安保闘争からの岸政権崩壊)によって岸が行なおうとした対米自立の動きもいっしょに消し飛んでしまったことです。そのため新安保条約も正当な評価を得られませんでした。(p213)


潰された岸政権の構想


日米安保の眼目は、米国による日本の軍事占領を継続させる日米行政協定でした。この日米行政協定は新安保で日米地位協定と名前は変わりましたが、内容の中身はほぼ変わらないまま現在に至っているのです。この1960年に締結された日米地位協定をどう運用するかを協議する実務者会議が日米合同委員会です。

日米合同委員会」のウィキペディア記事の概要では、

日米地位協定上、正式な協議機関として日米合同委員会が設立されている。主に在日米軍関係のことを協議する機関で、政治家は参加せず省庁から選ばれた日本の官僚と在日米軍のトップがメンバーとして月2回、協議を行う。

とあります。

新安保は旧安保より幾分マシな部分も定められましたが、日本の英米からの自主独立を見越した安保・行政協定の改定という岸信介の動きは完全に潰されたのです。


そもそも岸信介が訪米前に会談したマッカーサー駐日大使も、行政協定の見直しを拒絶していた模様です。『戦後史の正体』p197に次のようにあります。

安保改定にあたって、米側は安保条約の改定には応ずる姿勢をみせています。しかし行政協定の見直し要求については、マッカーサー大使は激しく反対していました。「安保条約は変えてもいい。しかし行政協定はそのままにしろ」というのが米側の方針だったのです。

このマッカーサー駐日大使と新安保調印の直前に岸政権の藤山外務大臣との間でサインされた密約が、日米行政協定と日米地位協定とが本質的には全く変化していないことを証明しています。矢部宏治氏著『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』p70に、以下のように密約が記載されています。

「日本国における合衆国軍隊の使用のため日本国政府によって許与された施設および区域(米軍基地)内での合衆国の権利は、1960年1月9日にワシントンで調印された協定(日米地位協定)第3条1項の改定された文言のもとで、1952年2月28日に東京で調印された協定(日米行政協定)のもとで変わることなく続く」
(1960年1月6日)

つまり米軍基地を使用するうえでの米軍の権利については「これまでの取り決め(日米行政協定)と、これからの取り決め(日本地位協定)には、まったく変わりがありません」ということを、日本政府が約束しているのです。

岸信介はCIA工作員になっていましたが、裏天皇の直接の部下として日本の自主独立を本気で構想していたはずです。そして、その構想が本気だからこそそれは潰されたわけです。その潰した主体者はCIAであり、そのCIAの意向に沿って財界とメディアが動き、激しい60年安保闘争となったのは前回に見たとおりです。また自民党内にも、CIAの意向で「岸つぶし」に動いた面々がいたことを『戦後史の正体』では記しています。

また、日本国内にCIAではない日本の自主独立に反対する勢力もありました。


米軍の駐留を望んだ昭和天皇のなぜ?


昭和天皇(1946年)
Wikimedia Commons [Public Domain]

戦後日本で、日本の自主独立に反対の動きをしていたのが実は昭和天皇です。『戦後史の正体』p87には、沖縄に対する昭和天皇の米国への希望が以下のように示されてあります。

マッカーサー元帥のための覚書(1947年9月20日)(マッカーサー司令部政治顧問シーボルト)
天皇の顧問、寺崎英成氏が、沖縄の将来に関する天皇の考えを私に伝える目的で、時日をあらかじめ約束したうえで訪ねてきた。寺崎氏は、米国が沖縄その他の琉球諸島の軍事占領を継続するよう天皇が希望していると、言明した。(略)
さらに天皇は、沖縄(および必要とされる他の諸島)に対する米国の軍事占領は、日本に主権を残したままでの長期租借−25年ないし50年、あるいはそれ以上−の擬制(フィクション)にもとづいてなされるべきだと考えている

この1947年9月の昭和天皇の「沖縄メッセージ」は、『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』p252にも記載されており、孫崎氏と矢部氏ともに「昭和天皇がGHQに沖縄を半永久的に軍事占領してくれ」と依頼したことと、沖縄の現状が現在もこの昭和天皇の希望通りになっている事実に驚きを示しています。

昭和天皇が米軍の日本軍事占領を望んだ発言は他にもあります。一蹴はされましたが、1955年鳩山政権下の重光葵外務大臣が訪米し、ダレス長官に米軍撤退を提言しました。これに関し『戦後史の正体』p167に以下のようにあります。

重光はこの会談にのぞむ前に、昭和天皇に内奏(国政報告)しています。『続 重光葵日記』にそのときの天皇の言葉を紹介しています。
「8月20日 渡米の使命について細かく内奏し、陛下より駐屯軍の撤回は不可であること、また知人への心のこもった伝言を命ぜられた」「在日米軍の撤退はダメだぞ」と押しているのです。

日本が未だに米国に軍事占領中であることを明確に認識している日本民衆は、相当な少数派でしょう。しかしそれでも事実を認識したならば、米国による日本の軍事占領を望む日本民衆はほぼ皆無に近いでしょう。特に戦後すぐの日本では、日本独立は国民の悲願と言っていい状態だったはずです。

そのような日本民衆の当然の希求を裏切ってもなお、なぜに昭和天皇は米軍の駐留を望んだのか?

裏天皇グループが完全に日本の実権を掌握してしまうことを恐れたからでしょう。これは昭和天皇の個人的な部分もあるでしょうが、北朝勢力である昭和天皇が、日本の将来を考えての上でもあったでしょう。前回あったように、岸信介は日本の核武装が憲法に違反しないと発言しているのです。



Writer

seiryuu様プロフィール

seiryuu

・兵庫県出身在住
・いちおう浄土真宗の住職
・体癖はたぶん7-2。(自分の体癖判定が最も難しかった。)
・基本、暇人。(したくないことはしない。)
・特徴、酒飲み。アルコールには強い。
・歯が32本全て生えそろっている(親不知全て)原始人並み。

これまでのseiryuu氏の寄稿記事はこちら


Comments are closed.