ままぴよ日記 111 「内なる革命」

3年連続、激動の8月。
2年前は夫の両膝手術。大雨の中、子猫のマンゴー現る!
1年前は娘家族の帰国とパートナーの発病。
今年は・・・。
(かんなまま)
————————————————————————

孫たちとの渓流遊び


8月1日に孫軍団がやってきました。お父さんの病気もあって、どこにも遊びに行けない孫たちは夏休みにばあばの家に行くのを楽しみにしていました。ところが外は猛暑。室内の遊技場は人だかり。

孫たちの期待に応えるには渓流遊びしかないと、連日川へ遊びに行きました。


もちろん息子の子ども達も、お嫁ちゃんも、夫も総出で川探検です。食べて、川で遊んで、遊んで、遊んで、寝て、洗濯物をいっぱい出してお盆前に帰っていきました。

帰りの新幹線のホームで、みんなのテンションが下がります。ああ~宿題が、受験が・・・と、現実に戻らなければいけません。

でも、その瞬間だけでも楽しめてよかった!中学3年生から2歳まで、みんな好奇心と冒険心を持ってよかった!誰一人ゲームをすることなく過ごせてよかった!今の時代、子どもらしく遊ぶには努力が必要なのです。

「又いらっしゃい!」と見送った言葉に嘘はないけど、体力も限界でした。


「えっ!待って。さよならを言ってない」


静かなお盆を過ごしてホッとしたのもつかの間、義母のグループホームから電話が入りました。朝の6時半です。

電話の声が震えています。朝、義母を起こしに行ったらお布団の中で亡くなっていたとのこと。

私の最初の思いは「えっ!待って。さよならを言ってない」でした。覚悟はしていましたが、あまりにも突然で夢を見ているようです。

前の日も完食。快便。いつものように「おやすみ」を言ってベッドに入り、そのままだったようです。まさに95歳の大往生です。

コロナ禍でずっと面会制限があり、直前まで面会謝絶でした。義母の荷物を届ける時に後姿をそおーっと見たのが最後でした。

警察が入り、死亡確認ができて、義母に会えたのはお昼近くでした。家族葬と決めていたので子ども達や身近な親戚にだけ知らせました。遺体を運ぶため霊柩車とお寺の手配をしました。

すぐに必要になる遺影、最後に着せてあげる母の好きな洋服、死亡手続きに必要な保険証、マイナンバー通知、固定資産税などの書類、通帳、印鑑・・・母が認知症になったおかげですべて私が管理していましたのでスムーズにいきました。それでも、次々にしなければいけない手続きがあって気が上がってしまいます。

離れて暮らしている人、家のどこに何があるのか知らない遺族は大変だと思いました。

葬儀社との話し合いも、こちらがどのような式を挙げたいのか決めていないと迷います。ランクがいろいろあって次々に加算されていきます。

お寺との打ち合わせもあります。先祖代々のお墓があるお寺です。我が家は夫で54代目(らしい)。先祖の碑があり家系図には男の名前がありますが、女性は女としか書いてありません(笑)

先代のご住職が亡くなられて、戒名などにお金をかけなくてもいいというお考えの方に代わられていたので助かりました。こちらの意思を尊重してくださいました。

生前の義母が好きな華やかな花と、お気に入りのプアゾン(毒!)という名の香水をふって、カラオケでよく歌っていた「糸」の曲を流して送ることにしました。



私を「自分を問う人」「逃げない人」にしてくれたのは義母


はじめはショックで夢を見ているようでしたが、すぐに「ありがとう」の気持ちに代わりました。義母と過ごした45年間。様々な勉強をさせてもらいました。

多分、5種、9種体癖だった母。思い込んだらすぐに行動。口と顔に出す人だったので何度、唐突に怒られたことか。それがどう考えても世間体重視、自己中心的。

結婚した翌月から「赤ちゃんはまだ?」と、毎月確認の電話が入るようになり、「うちは代々男の子しか生まれない」「長男の嫁として・・・」「あなたの体はどうなってもいい」「あなたが悪いに決まっている」・・・吹き出すほどの人権侵害です(笑)。

その言葉が次々胸に刺さりました。そのまま関係を切るなり、離れていくこともできたのですが、私の母から「口答えはしちゃだめよ。感情的な言葉はいつまでも心に刺さる」と言われたので飲み込みました。

私の母も姑に仕えて苦労した人でした。でも最後は誰よりも祖母から信頼されていたのを見ていたので、どんな関係でも心を尽くせば最後はうまくいくという人間関係の肯定感がありました。

でも、そんなに簡単なことではありませんでした。圧倒的に弱い立場の嫁。それも初めからできて当たり前の長男の嫁。男を生むこと。子どもを医者にすることを求められました。

今なら笑い飛ばせることも私の肩に重くのしかかり、最初の2年間は不妊恐怖症、電話恐怖症になりました。長男が生まれてからは何かと呼びつけられて私は家事。母は孫を抱いて泣いたら自分のおっぱいを含ませていました。


何も反抗できない私。夫は義母から溺愛されていたので自分が意見したらもっとひどいことになると、助けてくれませんでした。私の苦しみが想像できなかったのでしょう。(今は理解してくれています)

ただ、同居していなかったのが救いでした。そして、義母は明るく社交的な人でしたので、楽しい時間もありました。孫も可愛がってくれました。

義父もわが家で一緒に診察していましたし、義母とも毎日顔を会わせる生活だったので、この嫁姑の問題から逃げたら私の居場所はありませんでした。

義母から怒られたときこそ、胸が悲しみで震える時ほど、心を静めて話をするようにしました。とても勇気が要る事でしたが、電話機の前で何度も練習して「お話ししたいです」と言いました。夫なしで1対1です。そういう意味では義母とは一度も喧嘩したことはありません。

子ども達はおばあちゃんが大好きでした。この関係に私は介入してはいけないと思っていたので、おばあちゃんの悪口は言いませんでした。もっとも、子どもたちが連れてくるお友達の出自調査が始まるので、子どもたちも「また始まった!」と笑って聞き流すようになっていきました。

私を「自分を問う人」「逃げない人」にしてくれたのは義母です。


義母もまた弱い嫁だった


そして、ぴ・よ・こ・と2の「嫁姑」の一節がそれまでの私の苦労を一気にねぎらってくれました。本を持ったまま大泣きしました。自分も救われましたし、義母のことも許せました。

そこには「嫁姑の問題が起こるのは、お姑さんが不幸だからです」「お姑さんの無知、愚かさからきています」「嫁と姑が同じくらい愚かなら、年を取っている方が非が大きいのです」「長く生きている分だけ賢明であるべきです」と、書いてありました。

「そうか、私が悪いわけではなく、義母は自分が幸せではなかったから私に仕返しをしたのか」と気が付き、義母もまた弱い嫁だったことに思い至りました。「どこの馬の骨かわからない」と言われた。「長男を義母さんに取られた」と繰り返し言っていたのも思い出しました。

弱いものが弱いものをいじめる、愚かな連鎖。そんな嫁姑の関係はまっぴらごめんです。もしも息子が結婚したら、弱い立場の嫁を守ってあげよう、私は幸せになろうと心に誓いました。

やがて義父が亡くなり、義母は認知症になりました。年を取って私より弱い立場になりました。

ただ、認知症が始まってからグループホームに入所するまでの7年間は大変でした。

短期記憶がないので何度説明しても繰り返す。温度感覚がないので真夏に暖房を入れる。食べたことを忘れて無制限に食べては下痢をする。同じものをいくつも買う。食べられないほどの出前を取る。幻覚、お金や物を取られた妄想。通帳から現金を引き出して何に使ったのか不明。昼夜逆転。トイレを間違える・・・。生活のすべてに目が離せなくなりました。まるで義母が壊れていくようでした。

でも、もっと認知が進み、グループホームに入所してからの義母は生活を管理されて安心したのか、穏やかになっていきました。世間体、名誉欲、権力欲、物への執着もなくなっていきました。囚われていたものも忘れていったのでしょうか?

認知は進んだものの最後まで夫や私の名前を憶えていて、手を握って「ありがとう、ありがとう」と言ってくれる理想の義母になってくれました。

不思議です。こんないい認知があるのでしょうか?本人も明るくニコニコしていたので幸せだったと思います。

義母が亡くなった今、悲しさよりも安堵したというのが正直な気持ちです。ただ、買い物に行ったら義母の好きそうな服、果物、お菓子を探す自分がいて、寂しくなります。涙がはらりと落ちます。

45年かけて義母といい関係を築けた様な気がします。ひとりの嫁の静かな内なる革命です。まさに8月のカレンダーの「極限の状態を平静な心で対処できれば真の革命がおこります。革命の衝撃波は世界に伝播します」という言葉は神様から私への応援歌に聞こえました。

「あなたと出会えてよかった。ありがとう」と心から思っています。



Writer

かんなまま様プロフィール

かんなまま

男女女男の4人の子育てを終わり、そのうち3人が海外で暮らしている。孫は9人。
今は夫と愛犬とで静かに暮らしているが週末に孫が遊びに来る+義理母の介護の日々。
仕事は目の前の暮らし全て。でも、いつの間にか専業主婦のキャリアを活かしてベビーマッサージを教えたり、子育て支援をしたり、学校や行政の子育てや教育施策に参画するようになった。

趣味は夫曰く「備蓄とマントラ」(笑)
体癖 2-5
月のヴァータ
年を重ねて人生一巡りを過ぎてしまった。
かんなままの子育て万華鏡はこちら


Comments are closed.