注)以下、文中の赤字・太字はシャンティ・フーラによるものです。
10年が経った今でも県内の各自治体が避難者とする総数は少なくとも6万7000人にのぼる。これだけもの人々が10年が経ってもなお、原発事故によって帰りたくてもふるさとに帰れないのだ。「復興五輪」など復興が叫ばれるなかで、原発の廃炉はいまだにめどが立たず、中間貯蔵施設として原発立地町の双葉、大熊両町に置かれている廃棄物の最終処分場はどうするのか、たまり続ける汚染水はどうするのか、などについて解決の糸口すら見つかっていない。(中略)
(中略)
双葉駅周辺は避難指示が解除されており、駅も駅前の道路も東京オリンピックの聖火リレーのために新しいものが建設され雰囲気は明るい。しかし双葉町はまだ一人も住民は帰ってきていない。(中略)町役場もいまだ遠く離れたいわき市に置かれており、駅前だけがぽっかりと浮かび上がっている。
(中略)
また住民は誰も戻ってきておらず家々は草が生い茂った廃屋ばかりなのに、比較的新しいお墓が多かったのが印象的だった。「お墓だけでも双葉に残しておかなければ双葉に戻ることがなくなってしまう」と、双葉にはもう戻らず避難した先で暮らしていくことを決めた人たちも、墓だけは双葉町内に建てることが多いのだという。墓参りに来る住民に向けて「ゴミは持ち帰りましょう」と書かれた看板のすぐ後ろでは、除染ゴミを詰めたフレコンバッグが山のように積み上げられていく。それこそゴミなのだ。「あまりにも皮肉でしょう」と大沼氏は話していた。
沿岸部に着くと、そこには先ほどまでの廃墟とフレコンバッグの山とはうって変わり、53億円をかけて建設されたガラス張りの立派な「東日本大震災・原子力災害伝承館」と「双葉町産業交流センター」が建っていた。その横では現在ビジネスホテルが建設中だ。産業交流センターの中には土産物屋やレストランのほかに、東電の福島復興本社と復興事業に携わるゼネコンの事業所がずらりと入っていた。
産業交流センターの屋上に上ると双葉町一帯が見渡せる。沿岸部には現在「復興祈念公園」が建設されており、綺麗に芝生が植えられ整備されている。しかしその一方で産業交流センターを挟んで反対側には瓦礫や汚染土が詰められたフレコンバッグが山のように積み上げられており、ダンプカーが土埃を上げて走っている。それ以外は何もない。
この差は一体何なのだろうかと唖然としてしまった。また「復興シンボル軸」という名の常磐自動車道常磐双葉ICから双葉駅周辺市街地を通り、伝承館が建つ沿岸部までを結ぶ延長7・1㌔㍍の巨大なバイパス道路も建設中だ。いまだ住民は誰も戻れないのに、一体誰が通るための道路なのか。誰のための復興事業なのか。いまだふるさとに戻れない住民をよそにしたゼネコンの遊び場としか思えない実態に愕然とした。
(中略)
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長周新聞でも10年目の福島を取材され、淡々とした記事の中から10年間の苦しみを浮き彫りにされていました。印象的なところを取り上げさせていただきましたが、元記事では、冷たく整備された「福島」の、生き物や自然の息吹を感じない異様な様子が写し出されています。
国のもたらした復興は、無人の街を造る「ゼネコンの遊び場」。帰りたくても帰れない人々がせめて「お墓だけでも故郷に」と新しい墓地が多い双葉町。「ゴミを持ち帰りましょう」の立て札の後ろの黒々としたフレコンバックの山。そして胸が締め付けられたのは大熊町の80代男性の語りでした。どうしても帰りたいと切望され、誰も帰還しない無人の街であっても、放射能の不安があっても「自宅周辺が避難指示解除になったら、小さな家を建てて残った畑で梨や野菜を少しずつ育てたい」と7ヶ所も避難所を転々とされてきたそうです。自宅の梨畑は親御さんの想いが詰まった土地で、他の土地では代わりにならないものだったのです。今後、彼の願いは叶わないかもしれない。せめて可能な限り安らかな暮らしを整えてあげるべきなのに。しかし国や東電が目論むのは、声なき声を無視し、住民同士をお金で分断させることでした。長周新聞の記事は、10年経った今も被災者が犠牲者のままだと訴えています。