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大飯原発再稼働訴訟:名古屋高裁「原発の危険性は無視できる程度」として住民側敗訴

 やはりと言うか、予想通り名古屋高裁の控訴審では、大飯原発3、4号機の運転差し止めを認めないと判断しました。地裁でまともな判決が出されても、高裁、最高裁でひっくり返されてしまう、その通りになりました。
 最大の争点となった耐震設計の目安になる地震の揺れや基準津波について、昨年、元原子力規制委員長代理の島崎東大名誉教授が「(地震や津波の想定は)過小評価されていて欠陥がある」と指摘した証言がポイントでした。住民側の不安はここにあったとも言えますが、判決では関電側の主張を採用し、過小評価ではない、最新の科学的知見を反映しており安全と判断しました。そのくせ「基準地震動を超える揺れが来ないとの確実な想定は不可能」と付け加えており、無責任な判決になっています。そこが争点でしょうが。
 その上、驚くべきことに「原発廃止の判断は、司法の役割を超え、政治的判断に委ねられる」とまで宣っています。ここまでなりふり構わず、司法の無力を宣言する裁判長が居たのか。
 福島の事故後に設立された原子力規制委員会の「新規制基準」、これを裁判官がどう判断するかが判決の分かれ目だそうです。この基準を信頼できると見るか、これでは安全性を確保できないと見るか。そしてこの判断は、自身の出世の判断ともなります。
一審の福井地裁、樋口裁判長は、これでは到底安全性が確保されないとして運転差し止め仮処分を言い渡しました。後世に残る名判決と言われています。しかし、この後の、樋口裁判長への露骨な報復人事は裁判官達の萎縮を生みました。
 三権分立は建前、司法はあからさまに行政の一部で「政府と一体であらねばならない」あべぴょんに「全身全霊を捧げるべき」と天下に晒しています。
 未来へ向かって揺るぎない評価を得ているのは、言うまでもない樋口裁判長です。
(まのじ)

注)以下、文中の赤字・太字はシャンティ・フーラによるものです。

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大飯原子力発電所の訴訟、住民側が敗訴!名古屋高裁「原発の危険性は無視できる程度」
引用元)
*大飯原発
大飯原子力発電所3号機と4号機の再稼働に反対する住民訴訟について、2審の名古屋高等裁判所金沢支部が電力会社側の主張を認める判決を下しました

この訴訟では住民側が「地震対策などの面で問題がある」と指摘していたのに対して、電力会社や原子力規制委員会側は対策を強化していると反論。
今回の裁判でも地震対策や原発事故のリスクが重視され、名古屋高裁は「不合理な点は認められず、大飯原発の危険性は社会通念上、無視できる程度にまで管理・統制されている」というような見解を示しました

(以下略)
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配信元)



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原発を止めると左遷…エリート裁判官たちが抱える「大苦悩」
引用元)
(前略)
判決の分かれ目は、福島の事故後、あらたな政府機関として設立された原子力規制委員会の「新規制基準」への裁判官の評価の違いだ。この規制基準を、信頼できると見るか、この程度では安全性を確保できないと考えるか。この違いが、判決を分けてきた。

「新規制基準」への裁判官の評価の違いが、もっとも端的に表れたのが、高浜原発(福井県)の運転差し止め訴訟だ。

2015年4月、運転差し止めの仮処分を認めた福井地裁の樋口英明裁判長(64歳)は、「新規制基準は緩やかすぎ、これに適合しても本件原発の安全性は確保されない」と言い渡した
(中略)
その樋口裁判長の、後任として福井地裁にやってきた林潤裁判長(47歳)は、関西電力の異議申し立てを認め、「樋口判決」を取り消した。同判決文で、林裁判長は「原子力規制委員会の判断に不合理な点はない」と述べている。
要するに、「新規制基準」は信頼でき、その基準に沿って、安全性を審査した原子力規制委員会の判断に問題はないとするものだ

(中略)

三権分立は、立法・司法・行政ではなくて、立法・裁判・行政なんです。司法は行政の一部ということです。」

要するに、裁判部門は独立していても、裁判所を運営する司法行政部門は、「行政の一部」として、政府と一体であらねばならないと言っているのだ。
(以下略)

[まのじレポート] ワールドカップ・ラビオ君狂騒曲

竹下雅敏氏からの情報です。
竹下氏提供の情報を元に、まのじレポートでお送りします!
(まのじ)

注)以下、文中の赤字・太字はシャンティ・フーラによるものです。

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[まのじレポート]ワールドカップ・ラビオ君狂騒曲
 何かとニュースになるサッカーW杯ロシア大会でしたが、フィールド外でも暑い、もとい熱い視線を集めた人気者がいました

 そう、ラビオ君
2010年のW杯南アフリカ大会で勝利チームを次々と的中させたタコのパウル君を真似て、北海道の小平(オビラ)町で獲れたミズダコに「占いタコ」の任務を授け、町おこしを狙って売り出しました



 このラビオ君、パウル君に負けないほどの占いの才能があったらしく、コロンビア戦で「勝ち」、セネガル戦は「引き分け」、ポーランド戦は「負け」とすべて的中させてしまい、ラビオ君の名声は一気に高まりました。サッカーファンをどよめかせ、まのじのようなサッカー音痴でも話題を知ることとなりました。

そんなラビオ君、これらの偉業から、かのパウル君のように余生は悠々と水族館でお過ごし遊ばされるかと思いきや。

・・・ああ、なんということでしょう!

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[しんぶん赤旗] 朝鮮戦争終結で在沖米海兵隊の居座りの口実が消滅 〜 辺野古新基地の根拠SACO合意は「朝鮮半島有事」だった

 しんぶん赤旗のスクープです。辺野古への新基地建設の根拠となったSACO合意について、米側はその主要な任務を「朝鮮半島有事」と認識していたということです。
ということは、南北首脳会談や米朝首脳会談の成功を受け、朝鮮半島が平和になれば、もはや新基地を建設してまで米海兵隊を駐留させる理由が無くなります。おまけに、緊急時の海兵隊機の増援基盤として指定されていた、航空自衛隊新田原基地(宮崎県)、築城基地(福岡県)、岩国基地(山口県)も不要になります。
 アメリカの占領軍は、1950年に始まった朝鮮戦争を理由にそのまま日本駐留を確立しますが、元記事の複数の公開文書にあるように「日本防衛のための基地は一つもない。」「日本の陸海空域防衛は全面的に日本が責任を負う」という立場で、日米安保条約における「日本防衛」という駐留の理由はそもそも破綻しています。その上に、海兵隊必要論の一貫した根拠であった「朝鮮半島有事」への対応が不要になれば、米軍居座りの口実がなくなる、「少なくとも沖縄にいる論理は破綻する」と解説されています。
 まともな政府であれば、この機に乗じて米軍にお引き取りいただくことになりますが、元内閣官房副長官補の柳沢協二氏によれば「それだけでは辺野古新基地建設は止まらない。止めるには、別の政治的な力学が必要だ」とあり、つまりは、安倍政権のままではお話にならぬ、政権が刷新される必要があるのだと解釈いたしました。
(まのじ)

注)以下、文中の赤字・太字はシャンティ・フーラによるものです。

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配信元)

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朝鮮戦争終結で在沖米海兵隊の駐留根拠消滅「主要任務は朝鮮有事」辺野古新基地が不要に
引用元)
安倍政権が強行している沖縄県名護市辺野古の米海兵隊新基地建設の出発点となった1996年のSACO(沖縄に関する日米特別行動委員会)合意をめぐり、米側は在沖縄海兵隊の主要任務を「朝鮮半島有事」との認識を示していました。4月27日の南北首脳会談や6月12日の米朝首脳会談を踏まえ、53年以降は休戦状態にある朝鮮戦争が正式に終結すれば、新基地建設の根拠は崩壊します

(中略)

米軍居座りの口実が崩壊

 沖縄の海兵隊を含む在日米軍が日本に居座り続ける口実は国際情勢に応じて変化していますが、一貫しているのが「朝鮮半島有事」への対応です。しかも、日米安保条約上の口実である「日本防衛」には責任を負わないことが、多くの米側文書に記されています。1953年7月の休戦協定が平和協定に代わり、朝鮮戦争が終結すれば、米軍が居座る論理は崩壊します。

(中略)

 米朝首脳会談(6月12日)でのトランプ大統領・金正恩(キム・ジョンウン)国務委員長の歴史的な合意は、北東アジアの安全保障環境を一変させ、在沖縄海兵隊の撤退や在日米軍の大幅削減につながる条件をもたらす可能性があります

 ただ、柳沢氏はこう警告します。「それだけでは辺野古新基地建設は止まらない。止めるには、別の政治的な力学が必要だ」。新しい平和の条件を生かした主体的な取り組みが不可欠です。
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知ってはいけない──隠された日本支配の構造
転載元)

当たり前の「便利」を反省 〜 シンプルな自動車を大事に乗り続けたい

  先ごろ、30数万キロ走破した車をついに手放し、買い換えました。同じ車種だからと高をくくっていたところ、何から何まで電子制御、まるでパソコンに乗っているようで、頼みもしないことを勝手にやってくれて落ち着かないし、タッチパネルは気が散るし、さりとて不要な機能を止めることもできないし、私のような旧世代には甚だ迷惑な仕様です。
 そのような気持ちを代弁するかのようなツイートを見つけ、連投を見ていると、今のこの状況が「迷惑な仕様」では済まない問題を抱えていることを知りました。
 はじめにツイートをされた「北風ロビン」さんは、環境面から「世の中の機械音痴の人は(まのじのことだ)、車がどれだけの資源を使って作られているか知りませんし、関心もありません。機械に詳しい人は、資源を使うことを正しいと思い込んでいるので、資源浪費の方向にしか向かいません。」と、自動車の存在自体が環境を汚染していることに一人一人が気づくべきだと発言されていました。
それに対して、車の製造会社に勤めている「おこわ」さんが「車としては40年前にすでに完成して」いて「今は家電化して便利を追求するあまり、複雑になり一般人には直せないモノになった」と応えました。なんと40年前に完成!その後は車の付加価値を買い求めていたのですね。
北風ロビンさんも「昔と比べたら今は、全部がナイト2000みたいなもんです」と、同感です。ナイト2000をご存知なので同世代とみた(SFドラマの会話する賢い車)。
 お二人の会話から、40年前に完成した本来の車の機能であれば、ボディ以外の部品は、六畳間に収まる量で、しかも資源再生可能なもので済みますが、現在の車だと部品の数は50倍にもなり、電子制御のため有毒物質が沢山使用されていると知りました。新型エコカーなど国策で売り進め、買い替えを促すのは、環境面から言えば全くエコではなかったのです。
その上、電磁波問題の観点からも、自動車の電化は人体への負担が大きいことが想像されます。
 シンプルな本来の機能の車を、部品を取り替えながら長く、愛情込めて乗り続けることができたら、どんなに嬉しいことか、でも、そんなことが可能?
・・・「おこわ」さんが最後にツイートされた画像には驚きました!
(まのじ)
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配信元)






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「万引き家族」是枝監督インタビュー 〜 「内向き志向の日本で、言うべきことを言い続ける」この言葉に対して、マスメディアはどう応えるだろう

 以前に、読者の方々から「万引き家族」についての記事を投稿いただきました。
カンヌ映画祭で最高賞パルムドールを受賞した日本人是枝監督に対して、不思議なことに日本政府からは「おめでとう」の一言もないという記事、また是枝監督が文化庁から受けていた映画制作の助成金を巡っての記事でした。
 これらをどのように取り上げようかと考えていたところ、一連の流れへの回答に繋がる、是枝監督のインタビュー記事を見ました。是枝監督は、これまで作品以外の様々な質問にも真摯に気さくに答えようとされ、誤解を恐れず語りかけてこられます。それらの答えから、あらためて映画に込められた思いが見えてきます。
 政治的な思想信条で語る「大きな物語」ではない、小さな子に向けて語るように作る「小さな物語」が映画の多様性、文化の多様性を生み出すのではないか。そして、多様な「小さな物語」を発信することは、どんなに否定しても政治性と無関係ではいられない、そのような恐らく昔の映画監督ならば言わずと持っていた矜持が見えるのです。
 メディアはこうした熱い思いを右から左に流すだけでなく、深く豊かに耕しながら擁護し、文化を育てる義務があるのではないかなあと思います。
(まのじ)

注)以下、文中の赤字・太字はシャンティ・フーラによるものです。

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「万引き家族」を巡るニュースやコメント



 記事の一つは、日本人がカンヌ映画祭の最高賞を受賞したにもかかわらず、日本政府、いや安倍首相が「おめでとう」の言葉もなく無視している、というものでした。

 その後、批判が強まり、遅ればせながら林文科相が祝意を示したいと述べたことに対し、是枝監督が祝意への辞退を表明した記事がありました

 さらに、それがきっかけで「国から補助金を受けて制作したのに、辞退するとは失礼」という、主にネット上での非難が起こりました。このような意見に対して、映画と補助金、日本の文化育成の問題など、元々の作品への感想に加えて、様々な意見が飛び交いました。
 一つの作品が、これほど多くの問題提起をしてしまうのも珍しいことでした。

日本政府が無視したかったのは、日本政府の冷たさ


 作品自体は、素直に映画を観る喜びがありました
達者な俳優陣が、言葉以上の思いや背景を伝えてくれます。

 ここに描かれた、実際には有り得ない奇跡のような「家族たち」の清らかさは、是枝監督のメッセージそのものでした。日本が失ってしまったものをリアルに、言葉によらず感じさせ、同時に、なぜ、この大切なものを日本は失ってしまったのかを自らに問わざるを得ない、奥行きのある鋭い作品です

「なぜ失ってしまったのか」の答えは一つではなく、もちろん「安倍政権」は答えの一つに過ぎないのでしょう。
しかし、しかし、安倍政権は、この映画で描かれる日本を無視したかった。
作品の受賞を祝うなど、したくなかった
それはとりも直さず、国に責任があることを知っていたからでしょう
正直でよろしい。




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