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桜散るころに 〜 自宅での介護と看取りの体験(下)

 (下)では、ぴょんぴょん先生の自宅介護も終盤を迎え、看取りの体験を書いていただいています。"続きはここから"以降では、看取る方も看取られる方も『悲しみはなく、喜びしか感じられません』というような最期を迎えるためのヒントが散りばめられていると思います。
 平均寿命という錯覚により、死が遠い未来のことのように思えてきますが、何が起こるか分からないのが人生。いざ臨終を迎えるその時に悔いのない人生だと心の底から思えるためには、"正しい死生観"を築き上げ、正直に生きることが大切になってくるのだと感じます。
(編集長)
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桜散るころに(下)

pixabay[CC0]


母の最期とその時起こった不思議な出来事


亡くなる3日前くらいの夜中のこと、母の声が聞こえるので部屋に行ってみると、誰かとしゃべっているようでした。「誰としゃべっているの?」と聞くと、母は我に返り、覚えていないようでした。もしかして、頭がおかしくなっちゃった? いや受け答えは正常だし、向こうの世界からのお迎えと、打ち合わせしていたのかなと思いました。

そんないろいろな兆候があって、5月30日になりました。お昼に仕事から帰ると、手伝いの人が「今日はおにぎりが食べたいと言うので、作って食べさせました」と言いました。数日まったく食べていなかったので、これは良かった、食欲がもどってきたのかなと思いました。

母はいつものようにテレビを見ていて、私は珍しく血圧を計りました。めったに血圧計を出さないのですが、このときは計った方がいいような気がしたのです。上が40で下は計れません。これはやばいかも、と思いました。病院にいたら昇圧剤でむりやり上げられるのでしょうが、母はもう二度と病院に入るつもりはありませんでした。

「なんか眠いの、とっても眠いの」と言うので、手伝いの人と一緒に母をベッドに寝かせて、やれやれ一休みと思いました。夜のために私も寝ておこうと思い、母のベッドと障子一つ挟んだソファーに横になりました。

とろとろと数分寝たでしょうか、電話で起こされました。関東の妹から、母の様子はどう?という電話でした。「今、寝たところよ」 ちらっと母の様子を見ると、よく寝ているようでした。「行かなくていい?」「まだ、大丈夫だと思う」そんな会話をして電話を切りました。

もう一度確かめようと母のそばにいくと、母はもう息をしていませんでした。まるで眠っているように静かでした。体はまだあたたかくて、手もやわらかくて。

その時、いつもと何かが違うと気づきました。部屋の中が、何かものすごい喜びで満ちているという感じなのです。なんなのかわからぬまま、感動して涙がでるほどでした。20年近く、拷問のような痛みに耐えながら、手足のきかない不自由な体の中に閉じ込められてきた魂が、ようやく開放されて喜んでいるようでした。私は思わず叫びました。「良かったね!もう、痛みもない、自由になったんだよ。今までよくがんばったね。良かったね!」と。悲しみはなく、喜びしか感じられませんでした。


pixabay[CC0]


それからしばらくして、母の大好きだったアルゼンチン人の神父様と、別府駅でばったりお会いしました。「あなたにお会いしたいと思っていました。ちょっと前に、お母さんが私に現れて、微笑みながら、ていねいにお辞儀して消えたのです。お母さんはどうされていますか?」と聞かれたので、亡くなったことを伝えると、うなづいておられました。母がお礼のご挨拶に行ったのでしょう。


つい最近、古い友人も母親を亡くしました。その方は鍼灸師で、東洋医学について鍼灸の立場から、いろいろと教えてもらったことがあります。5年位前にお母さんが脳梗塞で倒れて以来、仕事をほとんどやめて、自宅でつきっきりでお母さんの治療をし、面倒を見ておられました。

大切なお母さんが亡くなられて、さぞがっくりされていることだろうと思いきや、前よりも生き生きとされているのです。
興奮気味に、目を輝かせながら、こんな話をしてくれました。

お母さんが亡くなった時、その部屋が喜びであふれていた、すごかったというのです。「その喜びが自分に力をくれた、もう何も怖いものはない」と、力強く語ってくれました。

その話にうなづきながら、私も自分の母の時の感動を、久しぶりに思い出すことができました。あれは、錯覚じゃなかったんだ、と確信しました。

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桜散るころに 〜 自宅での介護と看取りの体験(上)

 ねじれの医学でお馴染みのぴょんぴょん先生にお母様の自宅介護と看取り体験のエッセイを寄稿していただきました。
 2回に分けて掲載しますが(上)は、2007年の春先に突如始まった自宅介護の様子です。医師であるぴょんぴょん先生であれば、介護もスムーズだったのかと思いきや…。厳しい現実の中で得られた深い学びが書かれています。
 子育て同様に、しっかり向き合うことで得られる学びは尊いものだと思います。その学びが得られるかどうかの分水嶺は、"時間は、もうそれほど長くないのかもしれない"という自覚と共に、本質的なところで日々生き切れるかどうかでしょうか。
(編集長)
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桜散るころに(上)

pixabay[CC0]


生霊となって訴えに来たある祖父のお話


10年くらい前に聞いた話です。
うろ覚えですが、内容はほぼこんな感じでした。

 夜中に目覚めると、誰かが夢枕に立っています。誰なのかはわかりませんが、じーっとこちらを見ています。よく見ると、体にたくさんのヒモがからまって、苦しそうにしています。

 後日、祖父を見舞いに病院に行った時、それが祖父であったことに気づき、呆然としたそうです。たくさんのヒモとは、体につなげられているたくさんの延命チューブでした。

「そういうのを生霊と言うんです」と、教わった記憶があります。

長く生かすためにお金も人手もかけて、良かれと思ってなされていることが、本人には拷問でしかありませんでした。やさしい孫娘なら、この苦しみをわかってくれると思ったのでしょうか。生霊にでもならないと、自由に動けない。こんなふうに人生の最期を過ごしたいとは、誰も思わないでしょう。




突然始まった母の介護


桜が散るころになると、そろそろ母の命日、5月30日が近いなと思い出します。
以前書いたこともあるように、母は20年近く、慢性関節リウマチを患っていました。そんな母と私は二人暮らしをしていました。

2007年3月初め頃から、母は風邪をこじらせたことがきっかけで、自力で回復できない状態になりました。母の希望で入院はさせず、自宅で看ていました。午前中は手伝いの人に来てもらい、それ以外の時間は母の介護に追われて、今になってみると何が大変だったのかも、よく思い出せないくらい、いっぱいいっぱいでした。

4月の初め頃だったか、真夜中に突然、トイレから叫び声が聞こえました。母が便座から立ち上がろうとして立ち上がれず、床にしゃがみこんでしまっていたのです。それまでは自力で歩けたのが、突然足に力が入らなくなってしまいました。どんなに力を振り絞っても、私の腕力では人を立たせることはできません。しかもこんな真夜中、誰も助けてくれる人はいません。

幸いセコムに入っていましたので、セコムを呼び出しました。元気そうな若い男性が玄関に現れたときは、ホッとしました。若い男性にトイレで抱えられるのは、母も恥ずかしかったと思いますが、彼は母をらくらくと立ち上がらせ、ベッドまで連れて行ってくれました。

以降、母は立って歩けなくなりました。昼は椅子に座り、トイレの往復は車いすで、夜は完全におむつの生活に切り替わったのです。


写真AC[CC0]


気力、体力の限界を超える自宅での介護の日々


こうなってしまうと、何かあった時に、私一人では手に負えません。不安な日々でした。

5月の中頃、亡くなる2週間前くらいだったと思います。おむつからあふれるほどの、大量の下痢と悪戦苦闘したのは。それも夜中に限って。排毒だから良しとすべきなのかと思いましたが、その後の洗濯物には参りました。それが1週間くらい、連日続いたように記憶しています。

後から考えると、体を離れる前の準備で、ゴミを捨て去って、きれいにしていたのだと思います。後の話に出てくる友人の母も、そうだったと聞きました。

ある日イライラして、母に八つ当たりしました。「もう、甘えてるからできないのよ。こんなこともできなかったら、施設に入ってもらうしかないんだから」と言うと、母は小さな声で、「甘えてない・・施設には行きたくない」とつぶやきました。

母の気持ちは、私も重々承知の上のことでしたが、先が全く見えないために、こんなひどい言葉が出てしまいました。夜は母に呼ばれる。おむつの交換、外にもれているときは、シーツの交換など、体力の限界を超えていました。

それから数日後、夢を見ました。今もハッキリと思い出せるくらい鮮明な夢でした。私は由布山の見えるカフェで、一人お茶を飲んでいました。「ああ、もう母はいない。一人なんだなあ」と思いながら。目覚めてハッとしました。母との時間は、もうそれほど長くないのかもしれない。

その日の昼に、母にあやまりました。「こないだは、ごめんね。ひどいことを言った」と言うと母は、「私は許すの。何でも許すの」それだけが返ってきたことばでした。

(下)につづく… 

Writer

ぴょんぴょんDr.

白木 るい子(ぴょんぴょん先生)

1955年、大阪生まれ。うお座。
幼少期から学生時代を東京で過ごす。1979年東京女子医大卒業。
1985年、大分県別府市に移住。
1988年、別府市で、はくちょう会クリニックを開業。
以後26年半、主に漢方診療に携わった。
2014年11月末、クリニック閉院。
現在、豊後高田市で、田舎暮らしをエンジョイしている。
体癖7-3。エニアグラム4番(芸術家)

東洋医学セミナー受講者の声