インドに進出したイギリス東インド会社 ~キャラコ論争から産業革命、インド破壊劇
1600年、エリザベス1世から勅許公認を受けて合本会社として設立スタートしたイギリス東インド会社は、オランダとの競合の関係もあり、インドに進出していきます。
1601年1月出航した最初の航海では「1603年9月にイギリスに戻り、103万ポンドの胡椒を持ち帰った。ロンドンに入荷した胡椒はそこからヨーロッパ各地に売りさばかれた。」(「世界史の窓」)とあるように、イギリス東インド会社の当初の目的は香辛料類の獲得で、そこからの利益追求でした。
しかしイギリス東インド会社は、やがてインドに徐々に深く浸食していき、植民地支配し徹底的な収奪を行う過程で様々なものを手に入れていきます。宗教や哲学などの深遠な知識がその一つです。これが神智学へと繋がります。
物品面では先ずインド産綿布が挙げられます。
当時イギリスは毛織物工業が国内産業の中心でしたが、輸入されたインド産綿布の着心地の良さや、加工が容易などの機能面から次のような事態が生じます。
「インド産綿布はキャラコと言われ・・・イギリス社会に急速に普及した・・・。・・・インド産の安価なキャラコの輸入によって打撃を受けた毛織物業者がその輸入を禁止するように運動を始めた。」(「世界史の窓」)
このキャラコ輸入を巡る毛織物業者と東インド会社の激しい論争を「キャラコ論争」といいます。この論争は「1700年にはキャラコ輸入禁止法、さらに1720年にはキャラコ使用禁止法が制定された」(「世界史の窓」)という結果になります。
しかし、「綿織物のすぐれた着心地を知ってしまった民衆の中に出来上がった需要は、むしろ強くなり、それに応えるようにイギリス国内に綿工業が勃興するのを押しとどめることはできなかった。イギリス各地に、インドから綿花を輸入して、綿織物を製造する工場が作られ、膨らむ需要に追いつくために技術革新が進んだ。それが1730年代に始まるイギリスの産業革命であった。機械化された工場で製造された綿織物は、今度は逆にインドに輸出されるようになり、インド綿布の家内工業を破壊していくこととなる。」(「世界史の窓」)
イギリス東インド会社が持ち帰ったインド産綿布は、結果的にはイギリスでの産業革命に繋がったのです。そして更にその産業革命はイギリス東インド会社の手を通して、インドの綿布産業を破壊したのです。
このインドでの綿織物業の破壊劇は凄まじく、イギリス東インド会社はインドに英国産の綿織物を輸入流通させるため、邪魔になったインドの織物職人数万人の手を切り落としたとの複数の情報があります。
イギリス東インド会社の利益追求のためのどう猛さと残忍さを思えば、職人の手を切り落とした等の情報、これは間違いない事実のように思えるのです。ともあれインドで綿織物に従事していた人間は職を失い餓死の山を築かされたのは間違いなさそうです。
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インドの破壊劇などは凄まじいものでした。彼らは世界最大最凶のギャング団と表するのが正確でしょう。
イギリス東インド会社の本体は、違った名称で最近までそのまま存在し活動していました。ただし、このギャング団が世界各地での破壊劇と略奪を成立させるには、現地の政府関係者など有力者の協力が不可欠なのです。ギャング団は現地有力者を自陣に取り込み、それを特権階級に置き、現地から収奪させ貢がせるのでした。
現在私たちは、数百年来世界各地で繰り広げられてきた破壊劇略奪劇をこの日本で改めて目の当たりにしています。
安倍政権です。過労死促進法、TPP、モンサント(種子)促進保護法、水道事業明け渡し法等等、全て既に過去に起きたことの焼き直しです。さて・・・。