アーカイブ: *生き方

ぴょんぴょんの「石光真清の時代」 ~明治維新、西南戦争、日清・日露戦争、ロシア革命の時代を生きる

 日本近代史のリアルを知りたければ、その時代に生きた人の言葉を読むのがベストでしょう。
 最近、石光真清(いしみつ まきよ) の手記を読みました。
 明治元年、熊本城下で生まれた石光真清は、西南戦争を目撃したことから軍人を志し、陸軍士官学校を卒業。日清戦争では、部下を率いて黄砂の嵐を進軍し、コレラやマラリアにかかりながらも生還。その後、ロシア語を学ぶ必要を感じ、ロシアに私費留学。軍の要請によって、軍籍を棄て、私人としてハルビンで洗濯屋、写真屋を開業しながら、満州の地理、ロシアの情報をスパイする極秘任務に就きました。やがて日露戦争が始まり、自身も召集されて参戦。復員後、満州の事業に成功するも、再び軍の要請で、ロシア革命後のシベリアでの諜報任務に就きましたが、シベリア出兵の意味を解しない日本軍に失望し、任務を辞退。事業も失敗し、失意の中で余生を送りました。
 真清の残した膨大な記録は、死後、息子の真人(まひと) によって編纂され、「城下の人」「曠野の花」「望郷の歌」「誰のために」の四部作となって出版されています。
(ぴょんぴょん)
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ぴょんぴょんの「石光真清の時代」 ~明治維新、西南戦争、日清・日露戦争、ロシア革命の時代を生きる

有名人も登場するノンフィクションの生涯


児童文学作家 坪田譲治:
「城下の人」「廣野の花」この二書は全く面白い本で、ここ何年にも、これほどの本を読んだことがないくらいです。「城下の人」は、肥後の熊本、その城近くに生まれた著者が、幼時の思い出を書いたものです。中に、西南戦争が出て来るのですが、明治の歴史を眼前に見る感じです。「廣野の花」は著者がスパイとなって、そのころ、ロシア進出の満州に入り、艱難辛苦をする話です。日露戦争の前のことですが、歴史を思い、人生を思い、深い感慨をもよおす読後感は、やはり、この著者の誠実一途なためと思われます。
(「誰のために」448p)


すごいね、四部作、全部読んだって?

おれにしちゃ、がんばった。

くろちゃん、歴史小説が好きだったんだ?

いや、これは、歴史小説じゃなくて手記、ノンフィクションだよ。固有名詞もすべて実在だし、聞いたことのある名前も登場する。たとえば、西南戦争の熊本城攻防戦で、10歳の真清が言葉をかわしたのが、薩摩軍ナンバー2の村田新八。同じ頃、真清の父に会いに来た政府軍司令官谷干城(たにたてき)と参謀児玉源太郎とも話をしている。他には、日露戦争で軍神となった橘周太は真清の親友で、橘が亡くなったとき、真清の代わりに弔辞を書いたのは同僚の森鴎外。

スゴい! 有名人ばかり!

石光真清の生涯は、そのまま大河ドラマになるほど中身が濃い。生まれた年も明治元年、明治維新の年。

ドラマチック!

10歳の時に西南戦争を間近で見て、軍人になることを決意したが、陸軍士官学校を卒業して2年後 (明治24年) に、日本訪問中のロシア皇太子ニコライ・ロマノフが、日本人警察官津田三蔵に切りつけられた大津事件が起きる。

大津事件跡碑
Wikimedia_Commons[Public Domain]

歴史で習ったなあ。

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ぴょんぴょんの「平野雨龍さん」 ~日本人に中国を憎ませて戦争に向かわせるための、使い勝手のいい道具

 参議院選挙の東京選挙区で、31歳という最年少で、無所属で立候補した平野雨龍(うりゅう)さん。落選はしたものの23万票も集めました。
 その雨龍さん、帰化人疑惑を晴らすため、戸籍まで公開したと言うのに、今なお、帰化人疑惑で炎上しているらしい。
 問題は、雨龍さんのギャル時代の写真。彼女の本名は「荻野鈴子」とのことですが、暇空茜(ひまそらあかね)氏のを見ると、雨龍さんと思われる人物の隣りにいる子こそが「荻野鈴子」とのことで、「背乗りだ〜」「だまされた〜」と騒がれているのです。
(ぴょんぴょん)
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ぴょんぴょんの「平野雨龍さん」 ~日本人に中国を憎ませて戦争に向かわせるための、使い勝手のいい道具

自民党推しの平野雨龍


彼女のことを最初に知ったのは、時事ブログで知った、ゆうじくんの動画だった。

あれは、平野雨龍の最初の選挙演説か。すごい人数が集まってて、「こいつ何者?」って思ったわ。

中国人問題にガチで切り込む女性、平野雨龍さんの第一声が想像以上だった。
「はじめまして、平野雨龍と申します。参議院選挙立候補いたしました。東京選挙区の最年少候補者31歳、平野雨龍でございます。令和世代のために、この命とこの人生をかけ、平成世代として、そして大和民族として、日本人として、日本を次の時代へ、そして令和世代にこの日本を独立国として渡したい、中国の植民地ではなく。そのために平野雨龍、17日間がんばってまいりますので、どうぞよろしくお願いいたします。」(6:35〜)

まだ若いのに、演説も堂に入ったもんじゃのお。

彼女が立ち上げた「雨龍会」の挨拶文には、こんなことが書いてある。

(前略)私たち雨龍会は、今こそ真の国力を再構築し、「中国に負けない強い日本」を創るべき時だと考えます。国防力の強化、食料・エネルギーの自立、経済と技術の再興、そして日本人としての誇りを取り戻す教育の再生──これらを柱に、国家の再生を目指します。
平和は願うものではなく、備えることで守るもの。祖国を次代へ誇り高く引き継ぐため、共に声を上げ、立ち上がりましょう。

「雨龍会」の政策は?

雨龍会が訴える6つの重点政策
✅ 中国人に対する入国規制を強化せよ!
✅ 中国人による土地買収を制限せよ!
✅ 中国人の日本国籍取得を厳しく見直せ!
✅ 経営管理ビザの審査を厳格に!
✅ 国会議員に定年制度を導入せよ!
スパイ防止法の制定を急げ!
雨龍会

う〜ん、中国人に関してはほぼ賛成だが、「スパイ防止法」は胡散臭い。挨拶文の「平和は願うものではなく、備えることで守るもの」だって、「核を持ちましょう」とも取れる。参政党の臭いがプンプンするな。無所属と言うが、ステルス参政党じゃねえの?

ところがところが、2年前の2023年、本人はこんなことを言っているんだ。「ご報告 自民党政経塾18期生に申込みましたが、不合格でした。(中略)...しかし自民党以外は考えられないので、19期生も申し込みます。」「自民党以外、私に合う場所も無いので、他を考えた事は一度も無いです。」

ツイートは配信元でご覧ください(クリックするとツイートに飛びます)

ステルス自民党だったのかよ!

だって、政治家を目指したきっかけは、「3年前の安倍晋三元首相の霊柩車を見て、誰もいないから、国政に頼れる人が。だから私が行かなきゃな、っていうのが最初。」(YouTube 6:07)

あべぴょんのファンか?

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「自然死」を体現されて逝かれた中村仁一医師 〜「最後まで持論を貫き、もちろん点滴は最後まで1回もせず、医学的なものは酸素吸入器ぐらいでした」

 医師の中村仁一先生という方の動画の一部がありました。なんとなく覚えがあったのは、過去の時事ブログで目にしていたからだと思いました。ところが肝心の過去動画は今、非公開になっています。
「今の日本人はまず自然死を知りませんし、医者のほとんども自然死って見たことないんですよ。」「自然死は非常に穏やかに安らかに亡くなっていかれる。ところがそこに医療が濃厚に関与すると非常に悲惨なものになるんですね。」
 中村医師のおっしゃる理想の自然死は「本体が飲まず食わずですから餓死なんですね。もう死に時が来てますから欲しくないんですね。(中略)しかも、飢餓状態っていうのは、頭の中からエンドルフィンというモルヒネ見たいな物質が出るらしいんですよ。気持ちよくなるらしい。まどろみの中でこの世からあの世へ移っていくのが実は"死ぬ"ってことなんで。」
 この中村医師は、2021年に亡くなられていました。娘さんのブログによると「ガンで死にたいと皆様に伝えていた通り 肺ガンで 自宅にて 父が 永眠いたしました。81歳でした。」とありました。「最後まで持論を貫き もちろん点滴は最後まで 1回もせず、医学的なものは、酸素吸入器ぐらいでした。」
中村先生は「もう生きたくないと考えるのは 自力で食べられなくなった時」と書いておられたそうですが、無くなる当日の朝まで「トンカツを数切れ」召し上がっていたそうです。
 ちょっと可笑しかったのは、中村先生は「ダンボール棺桶(エコ棺桶)」を希望されていて「ダンボールでないと化けて出てやるぞ!」と冗談まじりにおっしゃっていたそうです。しかし市の斎場で断られたそうでダンボール棺桶での火葬は叶わなかったそうです。「化けて出てくるかどうか」問われた夫人は「望むところだ」と言われたそうな。
 現状で自然死を選ぶには、そばで献身的に支えてくれる理解者が必要ですが、医療そのものが根本的に変わっていけば誰でも安心して自然死を体験できそうです。
(まのじ)

注)以下、文中の赤字・太字はシャンティ・フーラによるものです。

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配信元)
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父 中村仁一が永眠いたしました。
いつかこのブログを立ち上げた時 最後はこのようなご報告を書くのが私の役目だと思ってはいましたが 2021年6月5日(土)19:30に ガンで死にたいと皆様に伝えていた通り 肺ガンで 自宅にて 父が 永眠いたしました。81歳でした。
(中略)
(中略)最後まで持論を貫き もちろん点滴は最後まで 1回もせず、医学的なものは、酸素吸入器ぐらいでした。 5月の中旬ぐらいまでは、普段 過ごすリビングと自分の寝室を自らの足で歩き過ごしていたのですが それ以降息切れが激しくなり、今まで周囲が用意し使っていなかった介護ベッドをリビングに移し 日中はその横にあるソファーにて過ごし しんどくなったら ベッドに寝るという生活になってきました

 そこから亡くなるまでの 2週間程 最後まで 特にQ.O.L(生活の中身)にこだわった生き方でした
 生前 父は 遺言5で「もう生きたくないと考えるのは 自力で食べられなくなった時」と書いておりましたが 実は 亡くなる当日の朝まで 妹が作ってくれたトンカツを数切れ 食べていたそうです。
(中略)
最後まで 父曰く ガンでの痛みは無いと言っておりました
ただ最後の2週間は 骨と皮のような身体にもかかわらず ソファーに座りウトウトと過ごす状態ですので お尻の骨が長く座っていると痛くて起きてしまい 動かしてくれと言っていました。またそのあとベットに横たわる際は呼吸が苦しそうでした。こういった最終段階の状態になった場合 楽にする為 セデーション(鎮痛剤などを使い 意識レベルや痛みを低下させる処置)
を行うのも手だそうです。しかしながら父は やはり最後まで 我々に死というものはこういう物だという事を見せたいのか 使いませんでした

(以下略)

[大西つねき氏]「戦争の悲惨さを語り継ぐだけでは戦争は無くならない」戦争に向かう時、個々人は何を言い、何を言わなかったか、どう加担したのか 〜 まさしく新型コロナ禍で「命が大事」プロパガンダに口をつぐんだ

 沖縄から発信された大西つねき氏の語りに釘付けになりました。
今年は戦後80年の節目にあたり、沖縄では戦争を風化させないために、8月15日に向けて戦争体験者による戦争の悲惨さを伝える報道や番組や映画が例年以上に増えると見られます。
 そのような風潮に対して大西つねき氏は「ずっと違和感があった」「本当に大事なことが伝えられていない」「戦争の悲惨さを伝えたところで戦争は無くならない。そこではない。」「なぜ戦争が起きるのか、その政治的なメカニズムとか、利権、ビジネスの構造そのもの、そこにしっかりとメスを入れないと戦争は無くならない。」と述べました。
 「戦争体験を語り継ぐことを否定はしないが、戦争の悲惨さや恐怖は、プロパガンダの格好の餌食になりやすい。」「我々が本当に振り返らないといけないのは、戦争という空気が醸成された時に個々人がどう反応したか、何を言ったか、何を言わなかったか。要するに、その時代はみんなが加担していたはずだ、その時代をみんなが作っていたはずだ。」と指摘しました。
 「それはまさに新型コロナの時と同じではないか」「あの時『命が大切』『命を守らなければならない』という言説で多くの人が口をつぐまざるを得なかった。」「新型コロナも戦争も、なす術もなく翻弄される中で、自分たちがどうすべきか選択できるのに『命を守る』とか大義を振りかざされると、『おかしい』と思っても『おかしい』と言えなくなる。」
 「命が大事」と言われると、言い返せずに固まりますが、大西氏は「命が大事じゃないと思っている人はほとんどいないだろう」「命の時間を延ばすことだけが『命を守る』ことではなくて、生きている間全てが命で、その間にどんな行動をするか、思い通りに生きられるかどうかも命。命を伸ばすために死なないために、自由が束縛されて、思うように生きられないまま時間だけが流れるということは『命を守っている』のか。」 
 「戦争に向かう時は『愛するものを守る』ために内と外の境界を作って争い、『愛するものを失う恨みや怒り』が連鎖する、それが一番利用されやすい。本当の愛は境界を作らない。感情をフラットにするのが人類の課題だと思う。」ここにも丸腰宣言につながる死生観がありました。
(まのじ)

注)以下、文中の赤字・太字はシャンティ・フーラによるものです。

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平和への道/2025.7.30 パイレーツラジオ
配信元)


【要点を書き出し】
今日は、沖縄からの配信。

戦後80年の沖縄、8月15日を迎えるにあたって「戦争の体験者に語ってもらって戦争の悲惨さを伝えよう」という報道や作品がどんどん増えるだろう。
そこにずっと違和感があった。
本当に大事なことが伝えられていない
。それが何かと言うと、戦争の悲惨さを伝えたところで戦争は無くならない。
そこではない。なぜ戦争が起きるのか、その政治的なメカニズムとか、金、ビジネスの構造そのもの、そこにしっかりとメスを入れないと戦争は無くならない
。そこに対する報道や振り返りは本当に少ない。これが一番の問題ではないか。

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ままぴよ日記 132 「母を思う」

 今回は母の事を書きます。
 どんな母だったかは子どもが主観的に感じるもの。
 娘として、結婚して子どもを育てた母として、そしておばあちゃんとして、年を重ねるごとに母に対する思いが変わっていきました。
 晩年は老後の生き方を教えてくれる存在となり、今は寝たきりで何もできない102歳の母が赤ちゃんのように愛おしく思えてくるから不思議です。

 私の中の母は大いに美化されていると思います(笑)
(かんなまま)
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看取りの病院に転院


土砂降りの雨です。今日も高速道路を飛ばします。もう命の炎が消えようとしている母に会いに行くのが日課になりました。

2ヵ月前、102歳の母は肺炎や尿路感染症を併発して施設から救急車で病院に運ばれましたが奇跡的に一命を取り留めました。

もう治療法がないので看取りの病院に転院しました。私の家からは遠くなりましたが受けいれてくれるところがないので仕方ありません。

もう何も口から入らず、点滴だけで生きながらえています。点滴も含め延命はしないという約束でしたが一旦病院に入院した以上、叶いませんでした。


ただ、母に会いに行く道のりは楽しく、母の人生を思う時間になっています。


たくさんの人が暮らす家の中心的存在だった


思えば母は、一生を家の中だけで過ごした人でした。お母さんを早く亡くし、寂しい思いをしたけれど母の祖父が手遊びやわらべ歌を教えてくれたそうです。そのわらべ歌はずっと母の中にあり、晩年、1人暮らしになった時に母を支えてくれました。

やがて新しいお母さんが来て次々に姉妹が生まれました。そのお母さんも優しかったのでしょう、一度もお母さんの悪口を聞いたことがありません。むしろ姉妹ができて賑やかになったのが嬉しかったそうです。やがて町医者だったお父さんは軍医として南方の激戦地に行き、爆撃を受けた時のケガで亡くなりました。

戦後、当時は当たり前だったそうですが、会ったことも無い人のもとに嫁いだ母。そこには2人の幼子がいて、厳しいお姑さんが君臨していました。家は入院施設もある開業医。その結婚は夫婦水入らずどころか姑、2人の子ども、入院患者さんと住み込みの看護師さん、父の弟のお世話をする事を意味していました。

幸いなことに父が優しかったので母を大事にしたようです。銭湯に歩いていく時だけが2人きりの時間。晩年、南こうせつの神田川の歌が好きだと話してくれました。


朝から寝るまで働いていた母。子どもの世話に専念することはできませんでしたが、子どもを構ってくれる大人がたくさんいましたし、いつも母の姿が近くにあったので寂しいとは思いませんでした。

家長は祖母。厳しい人で、孫の躾もしていました。圧倒的な力の差があり、母が祖母に逆らう姿を見たことがありません。陰口を言うこともなく「厳しかったけど間違ったことは言わない人だった」と偉さを認めていました。

親戚の出入りも多く、母は1人になる場所も時間もありません。我慢することも多かったと思いますが、私が結婚するときに「義母さんとケンカしたり口答えしてはダメよ。攻撃した言葉はずっと残ります」「落ち着いて対処しなさい」と言われたことがあります。きっと、その心構えで生きてきたのでしょう。

やがて祖母が年を重ねて母を頼るようになりました。自宅で死ぬのがあたり前の時代です。母は祖母を看取り、母の腕に抱かれて逝きました。子ども達もそれを身近に見ていました。

子ども達が家を出て父と2人になった時、初めて夫婦水入らずの時間ができて嬉しそうでした。でも、父は家事はもちろん自分の事もできない人でしたので相変わらず父の世話で忙しくしていました。


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