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生霊となって訴えに来たある祖父のお話
10年くらい前に聞いた話です。
うろ覚えですが、内容はほぼこんな感じでした。
夜中に目覚めると、
誰かが夢枕に立っています。誰なのかはわかりませんが、じーっとこちらを見ています。よく見ると、
体にたくさんのヒモがからまって、苦しそうにしています。
後日、祖父を見舞いに
病院に行った時、それが祖父であったことに気づき、呆然としたそうです。
たくさんのヒモとは、体につなげられているたくさんの
延命チューブでした。
「そういうのを生霊と言うんです」と、教わった記憶があります。
長く生かすためにお金も人手もかけて、良かれと思ってなされていることが、本人には拷問でしかありませんでした。
やさしい孫娘なら、この苦しみをわかってくれると思ったのでしょうか。生霊にでもならないと、自由に動けない。こんなふうに人生の最期を過ごしたいとは、誰も思わないでしょう。
突然始まった母の介護
桜が散るころになると、そろそろ母の命日、5月30日が近いなと思い出します。
以前書いたこともあるように、
母は20年近く、慢性関節リウマチを患っていました。そんな
母と私は二人暮らしをしていました。
2007年3月初め頃から、母は風邪をこじらせたことがきっかけで、
自力で回復できない状態になりました。母の希望で入院はさせず、
自宅で看ていました。午前中は手伝いの人に来てもらい、それ以外の時間は
母の介護に追われて、今になってみると何が大変だったのかも、よく思い出せないくらい、
いっぱいいっぱいでした。
4月の初め頃だったか、
真夜中に突然、トイレから叫び声が聞こえました。母が
便座から立ち上がろうとして
立ち上がれず、床にしゃがみこんでしまっていたのです。それまでは自力で歩けたのが、
突然足に力が入らなくなってしまいました。どんなに力を振り絞っても、私の腕力では人を立たせることはできません。しかもこんな真夜中、誰も助けてくれる人はいません。
幸いセコムに入っていましたので、セコムを呼び出しました。元気そうな若い男性が玄関に現れたときは、ホッとしました。若い男性にトイレで抱えられるのは、母も恥ずかしかったと思いますが、彼は母をらくらくと立ち上がらせ、ベッドまで連れて行ってくれました。
以降、母は立って歩けなくなりました。
昼は椅子に座り、トイレの往復は
車いすで、夜は完全におむつの生活に切り替わったのです。

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気力、体力の限界を超える自宅での介護の日々
こうなってしまうと、何かあった時に、私一人では手に負えません。不安な日々でした。
5月の中頃、亡くなる2週間前くらいだったと思います。
おむつからあふれるほどの、大量の下痢と悪戦苦闘したのは。
それも夜中に限って。排毒だから良しとすべきなのかと思いましたが、その後の洗濯物には参りました。
それが1週間くらい、連日続いたように記憶しています。
後から考えると、体を離れる前の準備で、ゴミを捨て去って、きれいにしていたのだと思います。後の話に出てくる友人の母も、そうだったと聞きました。
ある日イライラして、母に八つ当たりしました。
「もう、甘えてるからできないのよ。こんなこともできなかったら、施設に入ってもらうしかないんだから」と言うと、母は小さな声で、
「甘えてない・・施設には行きたくない」とつぶやきました。
母の気持ちは、私も重々承知の上のことでしたが、
先が全く見えないために、こんな
ひどい言葉が出てしまいました。夜は母に呼ばれる。おむつの交換、外にもれているときは、シーツの交換など、
体力の限界を超えていました。
それから
数日後、夢を見ました。今もハッキリと思い出せるくらい鮮明な夢でした。私は由布山の見えるカフェで、
一人お茶を飲んでいました。「ああ、もう母はいない。一人なんだなあ」と思いながら。目覚めてハッとしました。
母との時間は、もうそれほど長くないのかもしれない。
その日の昼に、母にあやまりました。「こないだは、ごめんね。ひどいことを言った」と言うと
母は、「私は許すの。何でも許すの」それだけが返ってきたことばでした。
(下)につづく…
Writer
ぴょんぴょん
1955年、大阪生まれ。うお座。
幼少期から学生時代を東京で過ごす。1979年東京女子医大卒業。
1985年、大分県別府市に移住。
1988年、別府市で、はくちょう会クリニックを開業。
以後26年半、主に漢方診療に携わった。
(クリニックは2014年11月末に閉院)
体癖7-3。エニアグラム4番(芸術家)