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ぴょんぴょんの「秋の夜長と宮沢賢治」
命日9月21日に行われてきた「賢治祭」
賢治の家は質屋で、当時は裕福な方だったからな。
ま、別荘というか、離れという感じかな?
その家は、賢治の妹のトシさんが、結核で療養していた場所でもあり、賢治が住みこんで、「羅須地人協会」という農民芸術の会を組織したり、畑を耕しながら文筆活動をした場所でもある。
ま、別荘というか、離れという感じかな?
その家は、賢治の妹のトシさんが、結核で療養していた場所でもあり、賢治が住みこんで、「羅須地人協会」という農民芸術の会を組織したり、畑を耕しながら文筆活動をした場所でもある。
その通り!
Wikiによると、「校内に『賢治先生の家』と呼ばれる建物が保存されている。これは、もとは宮沢家の別宅だったもので賢治が独居自炊していたこともある(羅須地人協会)。賢治の生前は現在の花巻市桜町にあったが賢治の没後に売却されて現在地に民家として移築され、その後1969年に本校が移転した際に偶然にもそこに建っていたという曰くがある。 」
Wikiによると、「校内に『賢治先生の家』と呼ばれる建物が保存されている。これは、もとは宮沢家の別宅だったもので賢治が独居自炊していたこともある(羅須地人協会)。賢治の生前は現在の花巻市桜町にあったが賢治の没後に売却されて現在地に民家として移築され、その後1969年に本校が移転した際に偶然にもそこに建っていたという曰くがある。 」
さあ、それはわからない。
その空き地には、かの高村光太郎が揮毫(きごう)した「雨ニモマケズ」の詩碑が立っていて、
その詩碑の前で賢治祭が行われる。
夜のとばりが下りる頃、裸電球の明かりの下で、地元の小中学生が賢治の詩を朗読し、賢治の童話劇を演じたり、賢治が好きだった鹿(しし)踊りや剣舞(けんばい)が披露されたりするんだ。
その空き地には、かの高村光太郎が揮毫(きごう)した「雨ニモマケズ」の詩碑が立っていて、
その詩碑の前で賢治祭が行われる。
夜のとばりが下りる頃、裸電球の明かりの下で、地元の小中学生が賢治の詩を朗読し、賢治の童話劇を演じたり、賢治が好きだった鹿(しし)踊りや剣舞(けんばい)が披露されたりするんだ。
賢治の素顔
だから、彼自身にとっても性は、大きなテーマだったわけだ。
晩年、と言っても彼はわずか37歳でこの世を去ったわけだが、結核が発病する前、お見合いをしに東京の大島まで行ったことがある。結婚するつもりだったらしい。
晩年、と言っても彼はわずか37歳でこの世を去ったわけだが、結核が発病する前、お見合いをしに東京の大島まで行ったことがある。結婚するつもりだったらしい。
病床に伏せっていた賢治を、照井氏と同級生が見舞いに行ったときの話も聞いた。
「先生は結核が伝染らないようにと、1メートルくらい離れるようにと言われた。
帰り際に、先生は起き上がって本棚から本を取り、それぞれに渡された。
数カ月、日光に当てて消毒してから読むようにと言われた。」
「先生は結核が伝染らないようにと、1メートルくらい離れるようにと言われた。
帰り際に、先生は起き上がって本棚から本を取り、それぞれに渡された。
数カ月、日光に当てて消毒してから読むようにと言われた。」
2018/09/15の時事ブログの、トワニカガヤクヒメミコ様のメッセージ、読んだか?
「その時、とてつもないほどの強い光が体に入り込み、体全体が果てしなく膨張し、体のすみずみまで細胞のすべてが光なのだと感じていました。
・・・・・“私は宇宙になったのだ”と実感出来た時、喜びに満たされ、とても幸せでした。」
「その時、とてつもないほどの強い光が体に入り込み、体全体が果てしなく膨張し、体のすみずみまで細胞のすべてが光なのだと感じていました。
・・・・・“私は宇宙になったのだ”と実感出来た時、喜びに満たされ、とても幸せでした。」
農学校の教師の給料は、十二分だったそうだが、農民たちは苦しい生活を強いられているのに、自分だけが楽してお金をもらうのは申し訳ないと。
そこで、自分が学んだ土壌改良の知識を生かして、肥料のアドバイスなどもしていたが、それでも彼らと同じ位置に立てないと感じ、とうとう自ら農民になる決意をしたんだ。
そこで、自分が学んだ土壌改良の知識を生かして、肥料のアドバイスなどもしていたが、それでも彼らと同じ位置に立てないと感じ、とうとう自ら農民になる決意をしたんだ。
実家からの差し入れには一切手を付けない。
周囲の農民が、米とナスと味噌しか食べていないと聞くと、自分も同じにする。
でも周囲は、賢治の家が裕福なことを知ってるから、どんなにみんなと同じにしたくても、彼らの仲間になれるはずがない。
周囲の農民が、米とナスと味噌しか食べていないと聞くと、自分も同じにする。
でも周囲は、賢治の家が裕福なことを知ってるから、どんなにみんなと同じにしたくても、彼らの仲間になれるはずがない。
翻訳では絶対に伝わらない、日本語の美しさ。
おれも賢治の作品を読みながら、母国語が日本語で良かったと思った。
たとえば「茨海(ばらうみ)小学校」で、きつねの先生が生徒たちに「正直」について話すシーンがある。
おれも賢治の作品を読みながら、母国語が日本語で良かったと思った。
たとえば「茨海(ばらうみ)小学校」で、きつねの先生が生徒たちに「正直」について話すシーンがある。
「黒板には『最高の偽(うそ)は正直なり』と書いてあり、先生は説明をつづけました。
『そこで、元来偽というものは、いけないものです。いくら上手に偽をついてもだめなのです。賢い人がききますと、ちゃんと見わけがつくのです。・・・・・ですからうそというものは、ほんの一時はうまいように思われることがあっても、必ずまもなくだめになるものです。・・・・・
こんな工合にして一生けん命考えて行きますと、とうとうしまいはほんとうのことになってしまうのです。そんならそのほんとうのことを云ったら、実際どうなるかと云うと、実はかえってうまく偽をついたよりは、いいことになる、たとえすぐにいけないことになったようでも、結局は、結局は、いいことになる。だからこの格言はまた《正直は最良の方便なり》とも云われます。』」
『そこで、元来偽というものは、いけないものです。いくら上手に偽をついてもだめなのです。賢い人がききますと、ちゃんと見わけがつくのです。・・・・・ですからうそというものは、ほんの一時はうまいように思われることがあっても、必ずまもなくだめになるものです。・・・・・
こんな工合にして一生けん命考えて行きますと、とうとうしまいはほんとうのことになってしまうのです。そんならそのほんとうのことを云ったら、実際どうなるかと云うと、実はかえってうまく偽をついたよりは、いいことになる、たとえすぐにいけないことになったようでも、結局は、結局は、いいことになる。だからこの格言はまた《正直は最良の方便なり》とも云われます。』」
イーハトーヴの神秘
イーハトーヴでは、いつもレンタカーで動いていたが、
一日小岩井農場で過ごしたある日、宿に帰る頃にはとっぷり日が暮れて、当たりは薄暗くなっていた。
高速を下りてしばらく走ると、突然、車がドタンバタン揺れ始めて、妙な音がしだしたんだ。
なんとかそのまま走り続けたが、民家のほとんどないところで車は止まってしまった。
あたりはもう真っ暗。
恐る恐る、下りて見ると、後ろのタイヤがぺちゃんこになってるじゃねえか。
一日小岩井農場で過ごしたある日、宿に帰る頃にはとっぷり日が暮れて、当たりは薄暗くなっていた。
高速を下りてしばらく走ると、突然、車がドタンバタン揺れ始めて、妙な音がしだしたんだ。
なんとかそのまま走り続けたが、民家のほとんどないところで車は止まってしまった。
あたりはもう真っ暗。
恐る恐る、下りて見ると、後ろのタイヤがぺちゃんこになってるじゃねえか。
すぐに駆け込んで、タイヤを交換してもらったが、なんかふしぎな感覚だったぜ。
付近に家はまったくないのに、なぜかタイヤ屋だけがぽつんとあったんだよ。
きつねに化かされたんじゃなくて、救われたってのかな?
付近に家はまったくないのに、なぜかタイヤ屋だけがぽつんとあったんだよ。
きつねに化かされたんじゃなくて、救われたってのかな?
景色が美しい、お米が美味しい、お酒が美味しい!
のんびり温泉に入って、宮沢賢治ゆかりの場所を巡るのが楽しみでした。
九州に越して、さらに震災があって、岩手から遠のいてしまいましたが、今でも懐かしい場所です。