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小学1年生の授業参観
小1プロブレムという言葉があります。これは子ども達が小学校に入学してから授業中にじっと座っていられない、先生の話を聞けない、集団行動ができないという事が多くなってきたことから小学校1年生に起こる問題だと言われています。
現実、小学1年生の授業参観をすると立って回ったり、隣の子とおしゃべりをしたりして先生の話を聞かない子ども達が増えました。クラスに何人かそういう子がいると周りもざわざわしてきて落ち着きません。先生は1人1人に注意して席に着かせたり、言い聞かせたりしますが落ち着く気配はありません。
これでは一斉に勉強できるはずもなく、授業が進まなくなります。特に新任の先生が担任になると大変です。子どもの事を何も知らないで先生になっているので、まじめな先生ほど途方にくれます。
何と、教師になって一年目で3割の先生が辞めていくそうです。もともと教師志望が減って教育大学の合格率は1.1倍とか。団塊の世代の先生方が定年を迎えて大量に退職をしている今、新任の先生探しが大変です。だから講師として採用されて、教えながら教員採用試験の合格を目指す人も多いのです。でも、毎日仕事に追われて勉強する暇がないと言われています。
小1プロブレムと幼保小連携
さて、小1プロブレムはなぜ起きるのでしょうか?
これは一般的に家庭の躾の問題、子ども自身の発達の問題や自分をコントロールする力がついていないからだと言われてきました。私が教育委員会にいる時からだんだん顕著になり、1年生が落ち着いて授業を受けられない事態になっています。
その対策として、幼保小連携がとられるようになってきました。学校生活を送るのに配慮が必要だと思われる子ども達の情報を園から学校に伝えるようになったのです。そして就学指導委員会が開かれて親の要望を聞き、普通クラスに入るか特別支援クラスに入るかを決めます。入学前にその情報がわかれば特別支援学級を作ったり、普通クラスで加配の先生を付ける事ができるからです。
そして学校側も1年生にいきなり45分間の5時間授業は酷なので、徐々に授業時間を増やしていくスタートプログラムを作って対応しています。
又、園は子ども達が小学校生活にスムーズに移行できるようにアプローチプログラムを取り入れるようになってきました。
例えば園では時間割がなく、集団で遊んだり、自由に表現活動をしているのですが年長さんになったら40分間椅子に座って一斉に先生のお話を聞いたり、手をあげて発表したり、遊びながら字や数の練習をし始めました。早く学校生活に慣れるためです。
実は孫が通っていた幼稚園も途中から方針を転換して学校の予備校のようになってしまいました。その新しいプログラムを紹介するために授業参観がありました。私もお嫁ちゃんに誘われて参観した時の事です。
まず、部屋に入ると学校のように机と椅子が配置されています。子ども達は一斉に前を向き、幼稚園の先生がホワイトボードに今からする事を書いて説明していました。テキストに沿って問題を読んで絵を描いたり、当てはまる字を書いたり、シールを貼ったりするものでした。
早くできた子は退屈。じっくりシールを選ぶ子はゆっくり、全く興味のない子はぶらぶら。どの子もかわいい!子どもらしい反応です。すると先生が退屈して遊びだした子に注意して椅子に座らせました。おしゃべりしている子にも「お口はチャック。おててはお膝」と号令をかけます。
シールを迷っている子にはこれにしたら?と促します。何もしない子には付きっきりでドリルに向かわせようとします。その間、先生が関わっていない子は何もできずにじっと待つことを強いられていました。40分間でどの子も落ちこぼれないようにしなければいけないので親も手伝って何とかクリアしました。
孫は?というと早く遊びたいからさっとシールを貼って隣の子にちょっかいを出し始めました。「○○君、お席に座って手はお膝」と注意されました。でもしばらくするとガタガタ椅子を鳴らしながら退屈そうです。
そして長い長い40分が終わった途端、孫は他の男の子に飛びついてじゃれつき遊びを始めました。さっきの教室とは打って変わって動物園のようです。私はもやもやした気持ちが確信に変わりました。無邪気で体を動かすことが大好きな孫が最近幼稚園に行きたがらない理由がわかったのです。
この若い先生は園長先生からの指導で何の疑いもなく子ども達を40分間座らせているのでしょう。やる気のない子を無理やり指導するのに一生懸命です。子ども達の素直な反応を見ても何も感じていないようでした。周りの親もドリル学習をしている我が子の姿をビデオに収めて嬉しそうです。
実は、この幼稚園はこのプログラムを始めてますます人気が出てきました。この園に通わせたら学校に行く準備をしてくれるので安心なのです。
小学校に行き始めたら、園のように先生はお世話をしてくれませんし、。自分で自分の事をしなければいけません。我が子が45分間じっと椅子に座っていられるか?お箸をちゃんと使えるか?好き嫌いなく給食を食べられるか?入学前に読み書き算数ができないとついていけないのではないか?最近は英会話も加わって心配が増えました。水泳もできないと子どもが自信を無くします。
だから、親は英会話、水泳、学習塾に行かせて子どもが小学校の競争に乗り遅れないようにしたいのです(子どもの教育にお金がかかるから子どもの数も減ります)。幼稚園も親の気持ちを汲み取ってこんな授業を始めました(幼稚園の生き残りがかかっています)。学校側も落ち着いて授業を受けられるように園の取り組みに期待しています。
さあ、小1プロブレム対策として園の学校化が始まりますよ!
でも、これって誰のため?園は子どもの専門家なのに子どもの気持ちを代弁してくれないの?親は子どもを守るのではなく、学校に子どもを合わせさせるの?
私は授業参観で1人1人の子ども達が愛おしくて、悲しくなりました。お嫁ちゃんと2人でため息をつきながら、孫のためにどうしたらいいのか?真剣に転園の話をしました。
子どもを「信頼して、任せて、待って、支える」事が教育の基本
まさにそんな「小1プロブレム」について熊本大学教育学部准教授の苫野一徳(とまの・いっとく)さんが『「学校」をつくり直す』(河出書房新社)という本で次のような事を言われています。
https://news.yahoo.co.jp/articles/d3dcaa69c04a585466073955c80239eee2b7215e より
小1プロブレムが家庭の躾の問題だとするのは間違っている。それは子ども達を管理する大人側の勝手な言い分である。何でもかんでも大人の言う通りに従わせることが教育の本質ではなく、子どもを「信頼して、任せて、待って、支える」事が教育の基本である。
マリア・モンテッソーリも「大人が決めた規律で子どもを縛り付けたり管理統制するのは、子どもを逆に命令されたことしかできない「無力」な存在にしてしまっている」と言っている。子どもは自由な遊びの中で何かに熱中したり、仲間と折り合いを付けながら楽しさを追求することなどを学んでいくので「遊び浸るから学び浸る」ことができる環境を作るのが大切。でも学校では「今は遊ぶ時間ではありません、勉強の時間です」と言われる。結果、子ども達は遊びは楽しいもの、勉強は嫌なものと思い込まされて分断が起きてしまう。
本来、遊びと学びは分断されるものではなく「小1プロブレム」が起きるとしたら、それは「学校のシステムのプロブレム」である。
そもそも学校は「みんなで同じことを、同じペースで、同じようなやり方で勉強する。」「決められたことを決められたとおりに、黙って、座って、話を聞いて」というやり方を150年変えていない。そのシステムは人間の自然の学びの観点から見てもおかしい。
今は小学校のシステムに園や親の方が合わせているが本来は学校の方が園の教育・保育方針をじっくり聞いて理解を深めてほしい。もしも自分は落ちぼれだと感じてしまった子が自分への信頼を回復するのは並大抵のことではない。これはシステムが生み出した罪である。
小1プロブレムが家庭の躾の問題だとするのは間違っている。それは子ども達を管理する大人側の勝手な言い分である。何でもかんでも大人の言う通りに従わせることが教育の本質ではなく、子どもを「信頼して、任せて、待って、支える」事が教育の基本である。
マリア・モンテッソーリも「大人が決めた規律で子どもを縛り付けたり管理統制するのは、子どもを逆に命令されたことしかできない「無力」な存在にしてしまっている」と言っている。子どもは自由な遊びの中で何かに熱中したり、仲間と折り合いを付けながら楽しさを追求することなどを学んでいくので「遊び浸るから学び浸る」ことができる環境を作るのが大切。でも学校では「今は遊ぶ時間ではありません、勉強の時間です」と言われる。結果、子ども達は遊びは楽しいもの、勉強は嫌なものと思い込まされて分断が起きてしまう。
本来、遊びと学びは分断されるものではなく「小1プロブレム」が起きるとしたら、それは「学校のシステムのプロブレム」である。
そもそも学校は「みんなで同じことを、同じペースで、同じようなやり方で勉強する。」「決められたことを決められたとおりに、黙って、座って、話を聞いて」というやり方を150年変えていない。そのシステムは人間の自然の学びの観点から見てもおかしい。
今は小学校のシステムに園や親の方が合わせているが本来は学校の方が園の教育・保育方針をじっくり聞いて理解を深めてほしい。もしも自分は落ちぼれだと感じてしまった子が自分への信頼を回復するのは並大抵のことではない。これはシステムが生み出した罪である。
苫野先生の言葉はどれも心に響いてきます。
今、子どもの育つ環境はますます大人の価値観で作られていき、子どもの主体性が無視されています。それは赤ちゃんの時から始まっているのです。
例えば、最近のママ達は赤ちゃんの事を知らないので、寝返りやお座りを練習しなければいけないと勘違いしています。5か月になったというだけで座骨や背骨がぐらぐらしている赤ちゃんを無理やり座らせて練習させています。赤ちゃんにとってはやりたい事でもないし、苦しいばかりです。
赤ちゃんは首が座ってから自分で体をねじって寝返りができるようになります。うつぶせになって頭をあげたら見える世界が変わります。前にあるものが欲しくなって上体をあげて足を蹴ったらずり這いができるようになります。やがて手や足をあげて高這いを始めたタイミングでお尻を持ち上げて遊んでいたらストンと座れるようになるのです。
その時はすでに座りながら両手を放して遊んだり、体をねじって周りを見回すこともできるようになっています。やがて他にも興味が出て立ち上がります。いつもやる気が先で体が連動しています。それが主体的な動きです。
又、保育園にあずけるための条件としてミルクに切り替えて哺乳瓶で飲めるようにして下さいと園から言われます。ママは母乳が出るのに止めてミルクを飲ませる練習を始めます。赤ちゃんは口触りも味もわかるので泣いて抵抗します。「そのうちあきらめますよ」と保育士さんは平気で言います。それを変だと思わない社会。それに流されてしまう親。先ほどの孫の幼稚園での取り組みもまさにその例です。これは子どもを取り巻く大人の問題です。
まさに「小1プロブレム」は子どもの主体性を無視した結果の「大人社会のプロブレム」です。
私はママ達のそばに居て、子どもの声なき声を代弁しながら「あなたの子どもは素晴らしい」「子どもは何もできない存在ではなく、ひとりの尊重すべき存在である」ということを伝えていきたいと思います。それが私の祈りと共にある生き方だと思っています。
コロナの緊張の中、今度は一夜にして地形が変わるほどの豪雨です。我が町もレベル5にあたる大雨特別警報が出されました。奇しくも満月。近くの海が5メートルの高潮を迎える時間と重なっていました。
ヤバいです。ケータイはアラームが鳴り響き、激しい雨音が私の不安を煽ります。ヴァータの私はじっとしていられなくて行ったり来たり。
結局私がしたことは風呂に水をためて、二階に貴重品を運んで、猛スピードでご飯づくりです。そして避難リュックにマスクと消毒液、「癒しの光」「免疫・恒常性」「祝福の光」の写真とサーキュエッセンス和も新しく加えて、やっと一息。
そうそう、友人が「トイレが逆流した」と教えてくれたので、その対策も準備しました。
ただ、今回は避難するつもりはありませんでした。家ごと流される可能性は低いので避難所に行く方が危険だと思いました。避難準備をしただけで気持ちが落ち着きました。備蓄の食料品はあります。
あとは落ち着いて過ごすだけなので「ままぴよ日記53」を書き始めようと思ったのですが、やっぱり私の頭は大雨から離れられません。こりゃムリだと観念して今の自分の気持ちを書くことから始めます。
それにしても毎年毎年、災害で全てが無になる事を覚悟させられます。いったい、いつになったら落ち着くのでしょう。そうでなくても色々な問題が同時進行で発生しているので、最近は祈ることが増えました。
でも、祈ってばかりの自分にも疑問が出てきました。祈ることに疲れたり、あきらめが出てきたりしている自分が見えてきたのです。もしかしたら祈りと期待を混同している?そんな自分を反省しました。
そして、自分が純粋に願っていることがあったら、その意識で生きていけばいいと思いました。叶うかどうかはどうでもいいのです。だってもうそんな生き方をしているのですから。そう思ったら気持ちが楽になりました。
おりしも今日は7月7日。年に一度だけタナバタヒメコタエ様へ願いを託せる日です。今、お願い事を書いた短冊が雨風に踊っています。気持ちを届けただけで安心です。ありがとうございます。
さて、今回のテーマは「小1プロブレム」。でも、子どもの視点で考えたら「学校プロブレム」です。