仏教の基本的な教義「十二縁起」と対応する界層 〜「十二縁起」の教義は「仏教の禅定階梯」と表裏一体の教え

竹下雅敏氏からの情報です。
 アーユルヴェーダの解説シリーズの23回目です。前回は「仏教の禅定階梯」を説明しました。アーユルヴェーダの解説から外れて、少々寄り道をしているのですが、近いうちに本筋に戻ります。
 仏教の基本的な教義に「十二縁起」があります。十二縁起の支分は、「無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死」の12個ですが、“「私という生存の苦しみ」の原因を追求してこれを解明し、それを除かんとして説かれたもの”だという事です。
 「無明」は無知のことで、“智慧の光に照らされていない状態”を指す言葉ですが、仏教では「一切のものは無常・非我・苦であるという真理」に対する無知のことを指します。「行」は業(カルマ)からの潜在的形成力です。「識」は識別作用。「名色」は名称と形態のことで、“名とは、受(感受作用)・想(表象)・行(意識の対象に対する意志)など、心の働き。色とは、地水火風の四大”と説明されるのですが、実際には「識」と「六処」を繋ぐ我執(アハンカーラ)の働きのことです。「六処」は眼・耳・鼻・舌・身・意(マナス)のこと。「触」は六つの感覚器官(メンタル体)に、それぞれの感受対象が触れること、「受」は感受作用、「愛」は渇愛、「取」は執着、「有」は生存、「生」は生まれること、「老死」は老いと死であると説明されます。
 ベックの「仏教」では、「取」は霊体での性行為、「有」は受胎、「生」は誕生のことと解釈しています。
 「十二縁起」には様々な解釈が可能であり、どの解釈が正しいかは誰にも分からないのですが、以下の図は「十二縁起」に対する一つの明快な解釈だといえるでしょう。「十二縁起」の教義は「仏教の禅定階梯」と表裏一体の教えなのです。
(竹下雅敏)
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