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ユダヤ問題のポイント(日本 昭和編) ― 第41話 ― 東京裁判を巡って1
戦後の日本を検討するための重要視点
ウィキペディアの「極東国際軍事裁判」通称「東京裁判」の記事ではこの裁判を次のように規定しています。
この裁判は、連合国によって東京市ヶ谷に設置された極東国際軍事法廷により、東条英機元内閣総理大臣を始めとする、日本の指導者28名を「平和愛好諸国民の利益並びに日本国民自身の利益を毀損」した「侵略戦争」を起こす「共同謀議」を「1928年(昭和3年)1月1日から1945年(昭和20年)9月2日」にかけて行ったとして、平和に対する罪(A級犯罪)、通常の戦争犯罪(B級犯罪)及び人道に対する罪(C級犯罪)の容疑で裁いたものである。
極東国際軍事裁判(東京裁判)被告席
Wikimedia Commons [Public Domain]
通常私たちの会話で話され、認識されている「戦犯」とは、「敗戦の責任者」です。「チームが失敗し負けた。この責任者は誰だ? 戦犯は?」といった具合です。これだと戦勝側には「戦犯」は存在せず、敗戦側にのみ「戦犯」が存在することになります。この構図は「極東国際軍事裁判 (東京裁判)」にもはっきりと出ていて、戦勝側には「戦犯」は存在せず、敗戦側の日本のみ「戦犯」が東京裁判で裁かれます。
しかし、前回から記している「真の戦争犯罪人」とは、戦争に乗じて戦争を利して甚だしい不法行為を行った者を指します。そして、その「真の戦争犯罪人」は戦勝側にも敗戦側にも存在していました。こういった意味で、東京裁判の最大の問題は、真の戦争犯罪人たちが検挙対象以前の段階にあって名前も姿も全く出されなかったこと、ここに集約されるということを前回に指摘しました。
戦争犯罪人であるかどうかの議論の対象にさえもならなかった真の戦争犯罪人たち、アメリカの戦争犯罪の場合は、戦勝国ということで最初から議論の対象から除外され、まさに「勝てば官軍、負ければ賊軍」でした。しかし、賊軍のはずの日本側でも、戦犯の議論にさえ上がらなかった真の戦犯たちがいます。
① それが誰なのか?
② どうしてそうなったのか?
この2点を明らかにすることが、東京裁判を、つまりは戦後の日本を検討する上での最も重要な視点になるでしょう。
①については、日本編からすでに延々と追ってはきましたが、②については、証拠となる資料が表には出てはいないでしょうから推測に頼らずを得ず、なかなか困難ではあります。
先ずは①を確認していくためにも東京裁判で戦犯を決定させた訴因を見ていきましょう。ウィキペディア記事では、最終的にまとめられた10項目の訴因を以下のように記しています。
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訴因1 - 1928年から1945年に於ける侵略戦争に対する共通の計画謀議
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訴因27 - 満州事変以後の対中華民国への不当な戦争
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訴因29 - 米国に対する侵略戦争
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訴因31 - 英国に対する侵略戦争
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訴因32 - オランダに対する侵略戦争
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訴因33 - 北部仏印進駐以後における仏国侵略戦争
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訴因35 - ソ連に対する張鼓峰事件の遂行
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訴因36 – ソ連及びモンゴルに対するノモンハン事件の遂行
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訴因54 – 1941年12月7日〜1945年9月2日の間における違反行為の遂行命令・援護・許可による戦争法規違反
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訴因55 - 1941年12月7日〜1945年9月2日の間における捕虜及び一般人に対する条約遵守の責任無視による戦争法規違反
それに値しないのに絞首刑になったメンバー
訴因を見ると、満州事変から太平洋戦争敗戦までの行為を違法として連ねているのが分かりますが、随分と違和感を覚える訴因も並んでいます。
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米国に対する侵略?
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英国に対する侵略?
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オランダに対する侵略?
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仏国侵略戦争?
多分は、米国や英国、フランスなどが自領としていた植民地を、日本軍が占領したことを侵略戦争だと戦犯の訴因にしているのでしょう。しかしこれが戦犯なら、そもそもその英国などが侵略戦争で植民地にしていたことが裁かれなければいけません。連合国側にどこまでも都合の良い一方的な裁判の部分です。
さて、上にある訴因、その1と27、これを満州事変のずっと前から主導していたのは、明らかに堀川辰吉郎の裏天皇グループでした。従って本来であれば、東京裁判では裏天皇グループのトップたちが被告人の席にあって審議を受けなければならないはずです。日本側でも明らかな戦争犯罪が行われていたのです。
その一つが南京での大虐殺と略奪です。これは「黄金の百合」作戦の一端でもありました。そして、この南京事件で実際に東京裁判で告発されていた面々がいます。ウィキペディア「南京事件」の「東京裁判」の欄に次のようにあります。
荒木貞夫、橋本欣五郎、畑俊六、平沼騏一郎、広田弘毅、板垣征四郎、賀屋興宣、木戸幸一、松井石根、武藤章、鈴木貞一、梅津美治郎は1937年12月12日以降、訴因2の条約に違反して南京を攻撃し、かつ国際法に反して住民を鏖殺することを日本軍に不法に命じ、かつ許すことによって不法に員数不詳なる数万の中華民国の一般人および武装兵を殺害し殺戮した、と告訴された。
一方、東京裁判で絞首刑となったのが、広田弘毅、板垣征四郎、松井石根、 武藤章 、東條英機、土肥原賢二、木村兵太郎の7名です。
絞首刑の広田弘毅、板垣征四郎、松井石根、武藤章の4名は、上記のように南京事件で告発されていました。特に松井石根と広田弘毅は、南京事件の件が大きく作用して絞首刑となった模様です。
しかし、広田弘毅が南京事件に責任があるとはとても思えません。また、南京事件で司令官だった松井石根も南京事件の犯人でなかったことは第19話で見たとおりです。南京事件の主犯は、堀川辰吉郎に仕えていた当時の上海派遣軍司令官の朝香宮鳩彦王で、実行部隊長は中島今朝吾でした。松井石根は朝香宮鳩彦王の身代わりとしての絞首刑だと指摘した通りです。
絞首刑の7名中、広田、板垣、東條、土肥原の4名が裏天皇の部下だったと思えます。東條英機は確かに戦犯ではあったでしょうが、絞首刑が適切だったかは大いに疑問です。彼も身代わりだったでしょう。他の6名は当然ながら絞首刑など不適だったでしょう。絞首刑になった人物は、比較的まともな人たちが多かったと感じるのです。
審議を受けねばならないメンバー
東京裁判は 「日本の指導者28名を裁く」と規定されていますが、彼らが本当の日本指導者で、日本を大戦争に導いたのか?といえば、そもそもそこからが違うでしょう。
根本部分で外せない視点は、日本は幕末から英領になっていたのであって、宗主国などに対して日本が、ましてや東京裁判で有罪になった人物たちが、指導者として勝手に侵略戦争など仕掛けようもないのです。
幾度も見てきたように、第2次世界大戦は「1921年国家間条約」によってそのあらましは決まっていました。ウォルター・ロスチャイルド、エドゥアール・ド・ロチルド、ジョン・ロックフェラー、そして堀川辰吉郎との間の合意であり、堀川辰吉郎によって(堀川辰吉郎を使って)金塊を略奪することが戦争の目的だったのでした。
そして、堀川辰吉郎を頭とする裏天皇グループの「黄金の百合」作戦は成功し、戦後はその莫大な黄金を巡る闘争と政治的妥協と協力が展開していて、その文脈の中に東京裁判もあると見る必要があるでしょう。
重罪に値しない人物たちが「身代わり」となり、逆に裁かれるべき人物たちが議論の的にさえなっていません。被告の席に座して審議を受けねばならないのは、先にあげた南京事件の朝香宮鳩彦王、そして「黄金の百合」の司令官であった秩父宮雍仁王、「黄金の百合」の副官であり731部隊に深く関与の竹田宮恒徳王、そして何よりも堀川辰吉郎でしょう。
しかし、彼らは全く無傷で終戦を迎えて、戦後社会を闊歩していくことになります。なぜそれが成立していったのか?
ウィキペディア「南京事件」の「東京裁判」の欄に以下のように端的に一つの答えが出ています。
上海派遣軍司令官の朝香宮鳩彦王については、皇族であったことから占領軍の戦後処理の方針により訴追されなかった。
東京裁判を開廷させたのは、当時の公的日本最高権力者で占領軍トップのマッカーサー元帥でした。ただし、その占領軍のバックにはアメリカの支配者たちがいます。その彼らの意向として、皇族は戦後処理の方針として裁判の対象から外されたようなのです。堀川辰吉郎も無論皇族の一人として処理されたのでしょうが、なぜそのような方針を出したのか?
表向きの理由としては、「皇族を戦犯として訴追し有罪の裁定となれば、日本の民衆の怒りをかって日本の戦後処理が混乱する。」こういったところでしょう。
しかし、本当の理由は他にあって、それが戦後日本を見る上での大きな問題点でしょう。
「吾等は、日本人を民族として奴隷化せんとし又は国民として滅亡せしめんとするの意図を有するものに非ざるも吾等の俘虜を虐待せる者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重なる処罰加へらるべし」
「生け捕りにした捕虜に虐待を加えた」、これで真っ先に頭に浮かぶのは殺人人体実験の731部隊でしょう。しかし、731部隊の関係者は一切戦争犯罪人として誰も裁かれていません。
また、大量の捕虜の虐待・虐殺をしたのが「南京事件」です。「南京事件」で東京裁判において告発された面々はいます。しかしその面々は、南京事件の本当の犯人たちではありませんでした。
米国は当然ながら、日本側の真の戦争犯罪人たちも東京裁判を逃れているのです。今回は、裁判を逃れた真の戦争犯罪人たちとは誰なのか?を主に確認していきます。