日本の学校、アメリカの学校
アメリカに住んでいる14歳の孫が「自分の性格はあまり好きじゃないけど、自分の事は大好きだよ!」と言いました。8種体癖なので何かにつけてややこしい自分を知っているけれど、そんな自分を含めて好きと言えるのは最高です。
4年前、日本の学校に通っていた時は、自分を抑えて先生の期待に応え、クラスでも目立たないように頑張っていました。先生にとっては何の問題もない子でしたが、本人は
とても疲れて帰ってきていました。家で弟に意地悪をしたり、ちょっとしたことで爆発して泣き叫んでいた時期がありました。
4歳年下の弟も自分の好きなペースで好きな事に没頭したいのに、それが全くできない学校で神経をすり減らしていました。
先生から注意されるのが怖くて、家に帰ってきてからも息を抜くことができずに宿題に取り組んでいました。
字がマスからはみ出したらやり直し。定規で線を引いていないとやり直し。ドリルのページを書いていないだけでやり直し。次々に宿題が上乗せられて膨大な量になります。その全てが嫌で泣きながら宿題をするので時間はかかるし、
宿題がトラウマになっていきました。
忘れ物をしても宿題が増えるので、何度もランドセルをチェックします。二人とも学校に行く前に緊張してトイレに駆け込むようになりました。
それがアメリカの学校に行ってから、すっかり解消されたのです。振り回されていた宿題がない。評価されるテストがない。姿勢を注意されることもないし、ソファに座ったり、絨毯に寝転んで授業を受けても誰も何も言わない。自分の思いついたことを言っても認めてくれるし、人と違ったことを言ったり、したりすると逆に「凄いね!」と褒めてくれるのです。
重たいランドセルもなし、教材や文具は全て学校にあるので忘れ物がありません。塾もないので2時に学校が終わったら自由!!
孫達は日本の学校を経てアメリカの自由な学校を体験したので、まさに水を得た魚のように学ぶ楽しさを感じ取ることができたのです。
学校が楽しくて仕方がない。休みなんかないといいのに…と信じられない事を言い出す始末です。
世界を見渡したら、そんな学校の方が多いのに日本の子ども達は知りません。
授業も、学年で履修しなければいけないカリキュラムはありますが、それをいつどういう風に教えるかは先生に任されています。学年専任の先生なので熟練工のようなものです。どんな授業をしたら子ども達が楽しく学ぶか?先生も授業づくりに工夫を凝らします。
ほとんどの授業はチームで課題に取り組むプロジェクト学習です。子どもに選択肢が与えられて、みんなで考え、調べて、実践したことを発表します。
日本の先生は教える教科書、教材も指定されて、綿密なカリキュラムに縛られています。教え方も、初めに「めあて」があり、その期待された答えに導きます。例えていうなら子どもに塗り絵をさせるのが日本の教育です。線をはみ出さないように、指定された色を丁寧に塗る。それはきれいですが、これでは自分がどうしたいのか?がわからない子になってしまいます。
大衆的人間の典型である専門家が、自分の能力を過信し≪慢心した坊ちゃん≫という醜悪な形態に陥ると聞いて、“あべぴょんのこと?”と思ってしましました。
自己を確立していない精神的に未熟な人間が、権力を手にした時に何が起こるのか? 今、世界のいたるところに見られる醜悪さは、≪慢心した坊ちゃん≫という形態に陥った権力者たちによって引き起こされていると言えるのではないでしょうか。
世界経済フォーラム(WEF)の連中などを見ていると、まさに彼らこそが≪慢心した坊ちゃん≫という形態の大衆的人間の典型である専門家集団だと分かります。明らかに本物で偉大な専門家であるロバート・マローン博士は、≪慢心した坊ちゃん≫の典型であるクラウス・シュワブの「The Great Reset」を読んで、“私が驚いたのは、その論理がいかに未熟で科学がいかに間違っているかということです。…「あぁ、こいつらバカなんだな」と思わざるを得ない。”と言っているのですが、完全に同意します。
この一連のツイート動画に関しては、言いたいことは山のようにあるのですが、一つだけ指摘するとすれば、こうした二元論的な思考形態に陥ってはいけないということです。例えば、立憲主義と民主主義の対立にしても、論理の世界には「心」や「意識」は出てこないからです。要するに、論理が未熟なのです。