蕗(フキ)は雌雄異株で雌花はぐんと45センチくらい伸びて綿毛になって種ができるけど、地下茎で増えるみたいだ。だから路地植えにしないとふきのとうができにくいらしい。
蕗は日本原産で、ウド、セリ、ミツバとともに数少ない日本原産の野菜とされている。
蕗はお野菜なのでしたね。すっかり野草の仲間と・・・。
昔の日本人はどんな食事をしていたのでしょう。
田舎のお年寄りが昔言ってたそうだけど、「やぶれおばぁの家へ行くより、秋山へ行け」というくらい、山が豊かだったんだよ。
や、やぶれおばぁ!!って表現がすごいですが、秋の山へ行けば、どんなものがあったのでしょうか?
きのこは色々な種類がいっぱいあるし、例えば香茸、松茸を筆頭にしめじ、くろっこう、平茸、ざざんぼう、ふなば、はつたけ・・・
そういえば、クワを伐った太い木に、去年の秋にも生えていたウスヒラタケが今年の春にまた沢山生えているんだ。冬が暖かかったからかな?
その木に一緒に生えてる瓦茸ともう1種類のビラビラした小さなきのこも食べられるそうだよ。神様が教えてくださったよ。
このきのこを入れたお汁が美味しかったです。それから、秋山にはどんなものが・・・?
山葡萄やアケビ、マツグイビ、カネヒキ(サルナシ?)、栗、ヤマナシ、オツキ(ヤマボウシ)の実・・・、初夏には色々なイチゴ、黄色なアサイドリイチゴ、真っ赤なクサイチゴや木苺、苗代苺、カワラズウメ、桑畑の桑の実は毎日カゴにいっぱい。毎年カゴを新調してもらってた。
昔は山でとったウルビ(ギボウシ)や蕗やメラ(イラクサ?)、タキミズナの漬物を各家が沢山作って、田植えの時にお茶請けに出していたんだ。昔の田植えはお祭りみたいだったらしい。部落ごとに(約20数軒?)が集まって順番に田植えをしていった。それは戦前までの話で、戦争で次々と働き手をとられていったからね。
20数軒の組合部落に3人いた”さげさん”は腰に太鼓を下げて、歌と太鼓で田植えのテンポをとる役目。急ぐ時には早く叩いて歌うんだ。横一列に30人くらいが並んで、太鼓に合わせて植えるんだけど、早乙女は、もんぺにつつっぽう(袖の振りが短い)の着物に綺麗な襷(たすき)をかけて小綺麗にしてね。
朝5時半頃から苗取りをして、それが終わると火を焚いて休憩して、男性にはお酒などもふるまわれていた。6月でも田舎の早朝は寒いからね。
田植えで苗を投げる役は、はじめて参加したような若い男子。
田植え歌は、色々な歌があって、掛け合いで歌うものが多く、例えば、「敦盛様は何歳かの」「敦盛様は16歳よ」といった感じで、よく通るさげさんの声に早乙女が合唱して応える。
十三九つ(22歳)
そりゃぁまんだ わーかいよ
真っ赤な箸に真っ赤な茶椀で
ととじる(芋汁)かけて
ざんぶざんぶ食べたいよ」
はっきり覚えてないけど、この歌も田植え歌だったのかな?
通常の田植えとは別に、最後の共同田の田植えは花田植えで、飾りをつけた牛が5〜6頭出る。
花田植えは所によって違うみたい。
昼食はその日の田植えをしてもらう家がみんなに振る舞う。といってもみそしると庭で火を焚いて大釜で炊いたご飯に漬物くらい。準備はお母さん連中がして、近所の子供たちも、大釜のおこげをもらえた。
こんな秩序だった日本の美しい文化も戦争で撹乱されてしまったのですね。
他にも村中で行われていたのが、大麻の栽培と繊維をとる作業。ほとんどの家で大麻が作られていて、実がいっぱい生る背の低い大麻と繊維をとる背の高い大麻があった。
年に1回長い大麻の茎を持ち寄って、大きな穴を作って詰め込み、ドンと大きな音をさせて一気に蒸す感じだけど、詳しいことは知らない。その後、川で皮を剥いてほぐしながら石の上で叩いて、綺麗に洗って白い糸にする。自分ではしたことないからねぇ、よくわからないんだけど・・・。
昔の労働歌の民謡はこんな風景の中で歌われていたんだろうね。
話したくないけど、戦争の悲惨な話。
聞いた話だけど、呉の町が空襲で、あるお母さんが赤ちゃんを連れて逃げる途中、水槽に後で取りに来ようと荷物を投げ込んだ。逃げた先で背中におぶっているのは荷物だったのがわかった。そのお母さんは戦争が終わっても二度と子供を産む気になれなかったそうだ。
また、大きな柱の下敷きになった娘を助けようとしたけど、どうしても出来ない、そのうち火の手が迫ってきて、娘が「お母ちゃん逃げんさい」って言った。「のんのんちゃんになりんさいね」といってお母さんは逃げたんだそうだ。
同じように柱の下敷きになった息子を置いて逃げたお父さんの話を聞いたことがある。
ところが避難先で、目の前に息子が現れた。そして「親じゃない!」といってどこかに行き、二度と会うことはなかったという。そのお父さんは、毎朝平和公園の掃除をされていた。
『原爆の火』が今も絶えずに燃やされているのを、宮島に行くと見ることができるけど、この火がどのような経緯で残ったかという話を1度だけ聞いた。
所々うろ覚えだけど・・・、
山口県の方にも広島に大きな爆弾が落とされたという話が伝わってきて、広島の本通りにあった積善館に出勤していた家族を探しに行った。建物があった辺りに着くまでに、たくさんの人がひどい火傷の状態でまだ生きていて苦しんでいたという。水を求めるその人たちに持っていた水筒の水を一口ずつ飲ませ、水筒が空になると、自分が着ていた服の汗を絞って飲ませ、自分の唾液まで飲ませた。中には焼けて口が塞がり、首を跳ねる仕草で殺してくれと懇願する人がいて首に手をかけたりもしたそうだ。
そうして、建物があった辺りに行くと、がれきの間から、青い炎が見えた。何故だかこの炎を持って帰らなくてはと思い、出かけるときにおばあさんが持たした懐炉にこの火を移した。帰ってからもこの火種を絶やす事なく燃やし続け、そのうち宮島などへも火を伝えて、今も『原爆の火』が残っているのだそうだ。火を持って帰った方の子供さんになる方にこの話を聞いたと思う。確か今もこの火を絶やさずにいて、その火で陶器を焼いておられたと記臆している。
防空壕に女工達が避難していた山に爆弾が落とされ、防空壕が塞がれてしまい、中の大勢が窒息死した。手で土を掘って生爪がみんな剥がれていたそうだ。
姉が弟を駅に迎えに行って会えずに帰って見ると、玄関先に倒れて死んでいた。見ると迎えに行く途中ですれ違っていて、ひどい火傷で見分けがつかなく、弟はやっとの思いで家までたどり着いて息絶えていた。
まだまだ色々な話があるけれど、実際の戦争はこんなにも悲惨なのだという事を知って、戦争で景気が良くなるとか、戦争ごっこを楽しむとか、決して考えてはいけないんだ。
戦争という暴力は永久放棄して、話し合いで問題解決ができる世界になるよう、一人一人の意識から暴力的な面が浄化されるといいね。
それから、うじがわくほどの火傷に味噌を塗って治したという話や、味噌屋のおかみさんが味噌蔵が焼け残り、そこで味噌だけを食べながら家族を待ったという話から、味噌が被曝にも有効なのではないかと思うんだ。でも、最近のお店で売られている味噌は発酵が進まないよう滅菌処理してあって効果があまり期待できないから、やはり自分で作るか、道の駅などの地元の手作り味噌を買うといいね。
水を求める人々に何もしてあげられなかったという、当時保母をされていた方が、朝、顔を洗う時に一口の水を飲んでおくことで、生死を分ける事があると話されていた。
そういえばここ1年くらい、コップ1杯の塩水を少しずつ手にとって鼻洗いと、コップ1杯の塩水を拝んで飲むことを毎朝続けているのよん。