注)以下、文中の赤字・太字はシャンティ・フーラによるものです。
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英国の第二次世界大戦史を塗り替える、いまわの際の告白[後半]
転載元)
投稿者:フルフォード
スターリン曰く、チャーチルの一味がFDR【※以下登場するアメリカ大統領】も殺したのだとか!?
「誰がフランクリン・D・ルーズベルトを殺したのか?」
全国紙の日曜別冊『パレード』誌、1986年2月9日号【から】。
何故【ルーズベルトが殺された】かって? ウィキペディアのB.I.S.(ロスチャイルド銀行帝国の最古参)の歴史の項に行ってみれば分かります。誰でもみんな見れるよう、“奴ら”がそこに情報を置いてくれていますから👀
翻訳:Yutika
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Leland Roth氏の投稿① 〜 別の軍人の告白
スターリン曰く、チャーチルの一味がFDR【※以下登場するアメリカ大統領】も殺したのだとか!?
「誰がフランクリン・D・ルーズベルトを殺したのか?」
全国紙の日曜別冊『パレード』誌、1986年2月9日号【から】。
【※ここからは上記の雑誌に掲載されたアメリカ人、レロイ・フレッチャー・プラウティ空軍大佐(1917‐2001)による寄稿文です。CIAとペンタゴンの連絡将校を務めた人物です。】
On this date December 25 in 1931: In chairs (L-R) are Elliott Roosevelt, Sara Delano Roosevelt & Governor Franklin Roosevelt. Standing are Franklin Jr, John Roosevelt & Curtis Dall. Seated on floor are Anna Dall, Curtis Roosevelt Dall, Eleanor Roosevelt & Eleanor Dall. Photo: AP. pic.twitter.com/VvUK2DifA7
— Jeffrey Guterman (@JeffreyGuterman) December 25, 2018
ツイートはシャンティ・フーラが挿入
【※椅子に座っている右側の初老の男性がルーズベルト大統領(写真撮影時はニューヨーク州知事)。大統領の母親を挟んで、左側に座っている若者が大統領の息子の一人、エリオット。】
第二次世界大戦中に開かれたルーズベルト大統領、チャーチル首相、蒋介石大元帥のカイロ会談は、1943年10月26日に終わりました【※11月22日から26日までの誤記かと】。
その晩、私は参加者の一団をカイロからテヘランへと飛行機で連れて行くよう命じられました。私はその時まで、テヘランでも超大国4巨頭の会談があるとは知りませんでした。
あくる朝、離陸準備のために私が飛行機に向かうと、リムジン2台が街からやってきました。宋子文の【つまり蒋介石の】中国使節団でした。その日、彼らを乗せて私はテヘランへと飛んだのです。
途中、給油のためにイラクのハバニヤに着陸すると、空軍のB-25も飛んできました。操縦していたのは私の古い友人で、大統領の息子であるエリオット・ルーズベルト中佐も一緒でした。私は中国人たちに友人とルーズベルトを紹介し、二人にも中国人たちを紹介しました。
皆さんは誰か一人でも、お気づきになりましたでしょうか。エリオット・ルーズベルトがテヘランの会談に行ったという点は、何年か後になって歴史上最も驚くべき裏話の一つをもたらしたのですよ。このことについて何故もっと記されていないのか、不思議でなりません。
1943年のテヘランでエリオットが父親と共にスターリンと会ったからこそ、1946年後半には雑誌『ルック』の発行者ガードナー・コウルズが彼【エリオット】にモスクワへ行ってスターリンにインタビューしてくれないかと頼んできたのです。
ルーズベルトはこの依頼を受け、実際にスターリンを現地でインタビューしました。長いインタビューの最後に、【スターリン】大元帥の方を向き、もう1つだけ質問しました。
スターリンはエリオットを睨みつけて、「君は何故だか知らないと?」と言いました。
エリオットは「知りません!」と答えました。
スターリンはすぐさま「君の父親を殺したのが誰か、知らないのですか」と返したのです。【※ルーズベルトはこの前年1945年4月12日に死亡。】
ショックを受けたルーズベルトは、「いいえ」と答えました。
スターリンは椅子から立ち上がると、こう続けたのです。
【当時の駐米大使だったアンドレイ・】グロムイコが遺体を見せてもらえれば、死因だとされた脳出血のせいで激しい変色やゆがみを起こしているのが確認できるだろう、とスターリンは考えたのです。
それについては何も知らなかった、とエリオットが答えると、スターリンは
これを聞いたエリオットは、「……でもどうしてなのです?」との最後の質問をせずにはいられませんでした。
スターリンは執務室の中を何歩か歩くと、
「奴ら、とは誰なのです」と、エリオットが訊ねます。
「チャーチルの一味だ!」と、スターリンががなり立てました。
私はテヘランにいた際に耳にしたのですが、ルーズベルトとチャーチルの二人は会談中、スターリンと蒋介石の前で東南アジアの脱植民地化について激しく議論したそうです。政府の当時の出版物の中でもそれを読んでいます。そして1946年のこのエリオットのモスクワ訪問。【エリオット】本人が【内容を】記述して署名しました。【それがこうして】全国紙の日曜別冊『パレード』誌1986年2月9日号に掲載された【という訣です】。
その晩、私は参加者の一団をカイロからテヘランへと飛行機で連れて行くよう命じられました。私はその時まで、テヘランでも超大国4巨頭の会談があるとは知りませんでした。
あくる朝、離陸準備のために私が飛行機に向かうと、リムジン2台が街からやってきました。宋子文の【つまり蒋介石の】中国使節団でした。その日、彼らを乗せて私はテヘランへと飛んだのです。
途中、給油のためにイラクのハバニヤに着陸すると、空軍のB-25も飛んできました。操縦していたのは私の古い友人で、大統領の息子であるエリオット・ルーズベルト中佐も一緒でした。私は中国人たちに友人とルーズベルトを紹介し、二人にも中国人たちを紹介しました。
皆さんは誰か一人でも、お気づきになりましたでしょうか。エリオット・ルーズベルトがテヘランの会談に行ったという点は、何年か後になって歴史上最も驚くべき裏話の一つをもたらしたのですよ。このことについて何故もっと記されていないのか、不思議でなりません。
1943年のテヘランでエリオットが父親と共にスターリンと会ったからこそ、1946年後半には雑誌『ルック』の発行者ガードナー・コウルズが彼【エリオット】にモスクワへ行ってスターリンにインタビューしてくれないかと頼んできたのです。
ルーズベルトはこの依頼を受け、実際にスターリンを現地でインタビューしました。長いインタビューの最後に、【スターリン】大元帥の方を向き、もう1つだけ質問しました。
「何故私の母はモスクワ訪問を許してもらえないのです? 母はこの旅行のために、非常に形式張った申請書を3度も作成したのですよ」
スターリンはエリオットを睨みつけて、「君は何故だか知らないと?」と言いました。
エリオットは「知りません!」と答えました。
スターリンはすぐさま「君の父親を殺したのが誰か、知らないのですか」と返したのです。【※ルーズベルトはこの前年1945年4月12日に死亡。】
ショックを受けたルーズベルトは、「いいえ」と答えました。
スターリンは椅子から立ち上がると、こう続けたのです。
「では何故私が彼女をここに招待しなかったか教えましょう。あなたのお父上が亡くなるや否や、私はワシントンのうちの大使に、すぐさまジョージア州へ赴いて遺体を見てくるように要請しました」
【当時の駐米大使だったアンドレイ・】グロムイコが遺体を見せてもらえれば、死因だとされた脳出血のせいで激しい変色やゆがみを起こしているのが確認できるだろう、とスターリンは考えたのです。
それについては何も知らなかった、とエリオットが答えると、スターリンは
「あなたの母親が棺桶の蓋を開けることを許さなかったので、うちの大使は遺体を見ることは叶いませんでした」
と言ったのです。そして、こう付け足しました。
「私は大使を3度も送って、彼が大統領の遺体を確認することは非常に重要なことなのだという印象を与えようと試みました。でも彼女は決して受け入れなかったのです。それ以来、私は彼女を許せません」
これを聞いたエリオットは、「……でもどうしてなのです?」との最後の質問をせずにはいられませんでした。
スターリンは執務室の中を何歩か歩くと、
「奴らは勿論あなたのお父上を毒殺したのですよ、何度も私を毒殺しようとしたように」
と激高して怒鳴りました。「奴ら、とは誰なのです」と、エリオットが訊ねます。
「チャーチルの一味だ!」と、スターリンががなり立てました。
「奴らはあなたの父上を毒殺し、私を繰り返し毒殺しようとする……チャーチル一味め!」
私はテヘランにいた際に耳にしたのですが、ルーズベルトとチャーチルの二人は会談中、スターリンと蒋介石の前で東南アジアの脱植民地化について激しく議論したそうです。政府の当時の出版物の中でもそれを読んでいます。そして1946年のこのエリオットのモスクワ訪問。【エリオット】本人が【内容を】記述して署名しました。【それがこうして】全国紙の日曜別冊『パレード』誌1986年2月9日号に掲載された【という訣です】。
【以上、引用したプラウティ大佐の記事のリンク先はこちら:】
画像はシャンティ・フーラが挿入
Wikimedia Commons [Public Domain]
【※1945年のポツダム会談の様子。左からスターリン、トルーマン大統領ときて、少し後ろに下がった人物がグロムイコ大使。28年間、ソ連の外務大臣を務めました。】
Leland Roth氏の投稿② 〜 各国中央銀行にとっての中央銀行BIS
(追伸:私たちの多くは――未来の億万長者の一部を含めて――『パレード』誌の発行者の兄弟や彼の素晴らしき家族と非常に近い友人として成長しました。兄弟の方も、ミネソタ州イーダイナ市で当時同誌の仕事をしていたのです💰)
【※投稿者ロス氏の別のコメントによると、彼がここで言及していたのはウォーレン・J・レイノルズという人物のことだそうです。1963年には『パレード』誌の副社長、67年には発行者にまで上り詰めました。】
何故【ルーズベルトが殺された】かって? ウィキペディアのB.I.S.(ロスチャイルド銀行帝国の最古参)の歴史の項に行ってみれば分かります。誰でもみんな見れるよう、“奴ら”がそこに情報を置いてくれていますから👀
【※以下、ウィキペディア英語版からの引用です。】
1944年のブレトンウッズ会議は、「一刻も早い国際決済銀行【BIS】の清算」を勧めた。この結果、BISを巡って米国の代表団と英国の代表団の意見は割れる。其の他のヨーロッパの代表団も、アメリカ勢も(ハリー・デクスター・ホワイト【財務次官補】やヘンリー・モーゲンソー財務長官も含め)BISの清算案を支持していた。しかしイギリス代表団のトップだったジョン・メイナード・ケインズが反対したのだ。
ケインズはモーゲンソーが解散を阻止か延期してくれないものかと期待して掛け合ったが、翌日には承認された。とはいえ、BISの清算は実際に起こることはなかった。1945年4月に、新たに大統領となったハリー・S・トルーマンにより、この計画からアメリカは手を引くことにしたのだ。イギリス政府が解散を一時停止とし、1948年にはBISの清算決議が正式に覆された。
画像はシャンティ・フーラが挿入
Wikimedia Commons [Public Domain]
【※あの「ケインズ経済学」の経済学者ケインズです。ブレトンウッズ会議は3つの委員会に分かれており、銀行業に関してはケインズが委員長でした。】
ケインズはモーゲンソーが解散を阻止か延期してくれないものかと期待して掛け合ったが、翌日には承認された。とはいえ、BISの清算は実際に起こることはなかった。1945年4月に、新たに大統領となったハリー・S・トルーマンにより、この計画からアメリカは手を引くことにしたのだ。イギリス政府が解散を一時停止とし、1948年にはBISの清算決議が正式に覆された。
翻訳:Yutika
註:【 】内は訳者の追記部分です。訳文は日本語での読み易さを優先し、原文とは異なる形で文や段落を分割することもあります。また見出しや画像も挿入しています。
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フルフォード氏ご本人から快く許可を戴き、英語版レポートを毎週シャンティ・フーラで翻訳させて頂いております。フルフォード氏がこれからも貴重な活動を続けられますよう日本語版メルマガの有料購読、並びに英語版サイトへの有料登録(※日本語での説明はこちらの本文冒頭部分にございます)をご検討頂けないでしょうか。ご無理のない範囲で少しでも応援して頂けますと幸いです。皆様、どうぞ宜しくお願い申し上げます。
ロシア革命では、ロシア中で富を強奪し、キリスト教を弾圧。自国通貨発行を望んだドイツに対しては第二次世界大戦で国土を徹底的に破壊し、自国通貨の賛同者はリンドバーグで徹底的に見せしめにし、ドイツとの戦争を望まなかったジョージ5世国王やチェンバレン首相はさくっと暗殺。
前回戦争特需で荒稼ぎしたユダヤ勢の例として登場した有名デパート、マークス&スペンサーですが、ポーランド系ユダヤ人露天商マイケル・マークスが共同創始者。マークスの息子は男爵になっています(※ちなみにイギリス人のスペンサー氏は平民のまま)。服飾チェーン店のバートンを立ち上げたのは、リトアニアのユダヤ人。身一つで渡英して、「モンテギュー・バートン卿」になりました。
なので富に加え、栄誉までまんまと手に入れたのは總元締め、ロスチャイルド男爵だけではありません。
今日の後半は、Leland Roth氏が投稿したアメリカ人プラウティ空軍大佐による寄稿文と、ウィキペディアの抜粋です。前半とは異なり既出の情報とはいえ、やはり指摘されないと気が付けない貴重なものだと思いました。
第二次世界大戦終結が目前だった1945年に、ルーズベルト大統領が死んでくれたことで、副大統領だったトルーマンは数箇月足らずで大統領職に繰り上げとなっています。
その裏にも前半のチャーチル暗殺団がいた可能性が。なにせイギリスが反対し、アメリカが賛成していたBIS(国際決済銀行)の解散案が、トルーマン政権誕生のお蔭で御破算になったのです。
それにしてもBISがここまで大事だったとは。今回広瀬隆氏の著書『億万長者はハリウッドを殺す』を紹介していたサイトを読んで、BISつまり“バーゼル・クラブ”の胡散臭さをようやく理解できました。
ニール・キーナン氏の「金塊の歴史年表」翻訳版3の末尾で、自国通貨発行とCIA破壊を目指したケネディ大統領が1963年に暗殺されて、ディープ・ステートの命令に従うリンドン・ジョンソン副大統領が大統領に繰り上げになったと説明してあったのも思い出しました。
アメリカ大統領ですら、用済みとなったら力技で挿げ替えればいいと思っている連中なのです、全く。