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独逸の伯林で見た、聞いた、感じた社会問題、教育問題 ~第11楽章 最初に出会ったドイツ人のご家庭から学んだこと!

 これからは、独逸の伯林で見た、聞いた、感じた社会問題、教育問題をお送りいたします。今までの難民問題、移民問題の枠を広げて、社会問題や教育問題まで様々な観点から書いていきたいと思っております。

 第11楽章は、最初に出会ったドイツ人のご家庭から学んだこと!です。第10楽章から読んでいただけるとわかりやすいです。
(ユリシス)
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ドイツでの最初のホームステイ


我が家は、最初のころ、ドイツの西側にて、ホームステイをしていました。
こちらのご家庭は、社会問題や環境問題にとても関心があり、ドイツの脱原発のデモなどにも積極的に参加しているご家庭でした。

311以降の日本人を受け入れるということで、本当によく来た、日本では大丈夫だったか?と、とても心配されました。まるで、戦地から逃げて来たような感じで、受け入れてくれたのです。全てを忘れて、ゆっくりと滞在できるようにと、そして、ここは安全なので、心置きなくしてほしいという願いが込められていて、隅々まで配慮された素敵なお部屋に案内されました。私は、恐縮してしまい、そんな大げさな・・と引いてしまったくらいです。
空港にお迎えに来てくれた時などは、走り寄って来てくれました。


こちらのご主人は、1986年のチェルノブイリ事故の時は、10歳でドイツの南のアウグスブルグ出身です。ドイツの南部あたりは、当時、ホットスポットと言われていました。ご主人は、背中が側湾症でした。その影響なのでしょうか・・。
チェルノブイリ事故当時は、危ないということで、西側のオランダの野菜などをお母さんが真剣に選んで購入していたと聞きました。

原子力事故が起きたら、1000キロ離れることが原則、鉄則であると、まず最初に教えてもらいました。
アメリカにも大統領の顔が並んでいる有名な場所だけれど、危険なウラン鉱山があったり、スイスでさえも、綺麗なアルプスの近くには、スイスの原発があり、非常に危険であると教えてもらいました。

Author:Sfmontyo[Public Domain]


pixabay[CC0]


日本の小さな島の面積に対して、日本の原発の数は多すぎるとも言っていました。
また、グアンタナモ収容キャンプの問題や、ナオミ・クラインの『ショック・ドクトリン』の本などにも触れて、いろいろな世界情勢について、語っていました。

Author:Moizsyed[CC BY-SA]


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独逸の伯林で見た、聞いた、感じた難民問題、移民問題 ~間奏曲 チェコ・プラハへの旅

間奏曲の第2回目は、春の独逸伯林から、
チェコ・プラハへの旅です。
2018年、つい先日の春の旅からお届けしたいと思います。
(ユリシス)
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音楽の街プラハ


プラハの駅を降りて、目に飛び込んだのが、
駅の待合場に佇む、一台のアップライトのピアノ。

プラハの駅に置いてあるピアノ


プラハが音楽の街であることがわかります。

チェコの作曲家、スメタナが作曲した、
チェコの国民の心の音楽、
「我が祖国」6曲の連作交響詩

5月12日は、スメタナの命日です。
プラハの春音楽祭は、スメタナの命日からはじまり、
スメタナの「我が祖国」が演奏されます。

スメタナはどのように自分の国を想ったのだろう・・と、
この曲を聴きながら想いを馳せます。
なぜなら、私も、自分の国を想わない日は、
一日たりともない
からです。

ハープで奏でる美しい旋律が、心に響き渡り、
まるで祈りのような出だし部分です。
マエストロも祈るように指揮をしています。

スメタナは、聴覚を失いつつも、この曲を作曲したのです。

小林研一郎指揮、スメタナ連作交響詩 我が祖国
ウィジェフラド(高い城)より
チェコ・フィルハーモニー



『我が祖国』(わがそこく、チェコ語: Má Vlast)は、ベドルジフ・スメタナの代表的な作品で、1874年から1879年にかけて作曲された6つの交響詩からなる連作交響詩。第2曲『ヴルタヴァ(モルダウ)』が特に著名である。

ベドルジハ・スメタナ(またはベドジフ・スメタナ ベトルジヒ・スメタナ、チェコ語: Bedřich Smetana [ˈbɛdr̝ɪx ˈsmɛtana]  発音[ヘルプ/ファイル]、1824年3月2日 - 1884年5月12日)は、チェコの作曲家・指揮者・ピアニスト。ドイツ語名のフリードリヒ・スメタナ (Friedrich Smetana)でも知られる。

スメタナの銅像


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独逸の伯林で見た、聞いた、感じた難民問題、移民問題 ~間奏曲 ハンガリー・ブダペストへの旅

これからの2回は、間奏曲としての記事をお送りいたします。

まず第1回目は、春の独逸伯林から、ハンガリー・
ブダペストへの旅です。2017年の春の旅からです。
(ユリシス)
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ハンガリーのブダペストへの旅


旅というものは、日常生活から逸脱して、
全てを解放してくれて、新しい考え方、価値観を
取り入れやすくしてくれるもの
です。
リフレッシュできますね。

ブダペスト東駅


ドイツ人は世界中で一番旅をする国民と言われています。
休暇のために、普通は働いている・・とも言われています。
休みも3週間、1か月と普通にとる
のです。
ドイツ人の好きな旅行先は、マヨルカ島、カナリア諸島です。
太陽を求めていることがわかります・・。

我が家は、ハンガリーのブダペストへの旅をしました。
ベルリン在住のため、東欧への興味がそそられるからです。

ブダペストの街中で


ハンガリーといえば、何を連想しますでしょうか・・。
ハンガリー舞曲、ハンガリー狂詩曲、投資家のジョージ・ソロス、
ルービックキューブの発祥地、ボールペンの発明・・・
グヤーシュというスープ・・・マジャール人・・
カロチャ刺繍・・トカイワイン・・・そして、温泉天国!?

我が家は、ベルリンから電車でベルリン、ドレスデン、
チェコのプラハ、スロバキアのブラスチラバを経由して、
ボヘミア地方を南下してハンガリーのブダペストに到着しました。

経由したスロバキアの首都ブラスチラバ


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311ルポ:国から見捨てられ命を絶った、とある「母子避難者」の悲劇

 難民移民問題をテーマに語られるユリシス様がドイツにお住まいの理由を知った時は衝撃でした。と同時に、このルポルタージュを思い出しました。311を境に大きく人生が変わった一人の女性を朝日新聞の記者が伝えています。
 311までは、福島県に住む、ごく普通の料理上手な主婦だったAさんが、子供を被曝から守りたい一心で、何とか自主避難を選び、懸命に働きます。が、経済的にも精神的にも次第に追い詰められていき、ついに力尽き、子供を残して自死を選んでしまったのです。
記事を読むと、これは決して特異なことではなく、もしかしたら自分に与えらた事態だったかもしれないと思えます。というのも、彼女を取り巻く社会、行政は、そのまま私たちの周りにあり、彼女の悲劇は、今後も起こりうることだからです。
 幼稚園や小中学校に「年20ミリシーベルトは容認できない」と涙を流した東京大学教授がいましたが、一方、Aさんの夫のように「放射能の心配をしているのはマイノリティ。民主主義の世の中では、10人のうち9人が『影響なし』と思っていれば、それが正しいんだ。『危険だ』という意見だけを取り上げてワーワー言ってるおまえは反社会的な存在だ」と思う人も多く、理解を得られぬまま、Aさんは福島を後に母子避難をしました。行政の提供する住宅に暮らし、休日もないダブルワークで学費を貯めました。公的な学費援助は、夫の収入があるとして認められない。「子供・被災者支援法」があるのに、現実には適用してもらえない。奨学金制度は、遠方の夫の収入のため認められない。東電の賠償金は夫に渡って手元に来ない。夫に生活費を止められてからは、さらにもう一つ仕事を増やすという極限まで奮闘しました。また、避難者が公営住宅に住み続けるには、一定以上の収入が求められますが、反面、福島県の家賃補助は低所得者と認定されなければならないという矛盾の間で、Aさんは、ささやかに安らぐ環境すらも与えられませんでした。
 Aさんを追い込んだのは収入面だけでなく、福島から動かなかった人々からの激しい非難もありました。「放射“脳”」という中傷はネット上でも頻繁に見ました。
ついに心を壊してしまったAさんは「自分のせいで」とずっと悩み、「子供達を不幸にしたくない」と思いつめました。
 何の非もない市民が、この国の中で救われなかった。今も違う形で困っている自主避難者はたくさんいるでしょう。終わってなどいない。何が法治国家か。最後の一人まで手厚く安心できる生活を提供するのが、国と東電の責務ではないか。

 ドイツのユリシス様に心からのエールを送ると同時に、明日への不安を抱えた人を見捨てない政治をしてほしい。今度こそ、膿を出し切ってほしいと思います。
(まのじ)

注)以下、文中の赤字・太字はシャンティ・フーラによるものです。

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国から見捨てられ命を絶った、とある「母子避難者」の悲劇
引用元)
 原発事故で避難した人たちの生活が困窮している。特にやむなく自主避難に至った人たちの生活は苦しく、2017年に住宅提供を打ち切られた今、未来への不安と孤独にさいなまれ自死した母子避難者の母親まで現われた。

(中略)

立ち直っていく人が増える一方で、支援が次々打ち切られるなかに取り残される人が孤立している。震災関連自殺は2016年の21人から17年には25人に増加した(2018年3月12日時点)。

(中略)
[子どもの未来を守る、その一心で]
(中略)
20ミリシーベルトという基準に、女性も絶望感を覚えた。
 「ああ、見捨てられるんだ」

(中略)

避難しようと訴えたが、夫は受け付けない。
 「100ミリシーベルトまでは大丈夫だと言っているだろう。おかしくなったのか。家のローンは20年以上あるんだ」
 自分がおかしいと言われる始末だった。

(中略)

[何もかも不安定のまま東京へ]
女性のように母子だけが避難するケースが続出した。夫の理解を得られず、または仕事があるため夫が離れられず。いわゆる「母子避難」だった。

(中略)

2015年6月、ついに福島県が住宅提供を打ち切ると発表した。「除染が進み、生活環境が整ってきている」という判断だった。対象は1万2000世帯以上に及んだ。

(中略)

 福島県や神奈川県が住宅提供を打ち切られた避難者を避難者数から外しており、避難者数は住宅提供打ち切りの4ヵ月で3万人減った。

 避難者らの自殺は避難の現状を示す数字として厚労省で発表しているが、彼女の死は、それにすら数えられていない。

(以下略)

独逸の伯林で見た、聞いた、感じた難民問題、移民問題 ~第10楽章 国境なんていらない、311移民の物語

第1楽章から、第9楽章まで、
独逸の伯林からいろいろな国の
難民、移民の方たちを書いてきました。

しかし、2011年から、本当に移民すべきだったのは、
日本の東側の人たちではなかったのか・・。
7年間、私はそんな思いで過ごしてきました。
気がついた方、その場から動けなかった方・・・
私たちは、どう生きていけばよいのか・・
問われているのかもしれません・・。
(ユリシス)
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息子を守るために私はいる


第10楽章
国境はいらない、311移民の物語
2011年の3月11日 14時46分からはじまった命を守る物語

息子は、へその緒が巻きついたので
緊急帝王切開で生まれた。

名前をつけるとき、瞬間に思いました。
どんな時代になったとしても、
生き延びることができる人になってほしい。
どんなことがあっても、息子を守るために
私はいる
のではないかと。

まさか、そんな時代が10年後に本当にやってくるとは、
夢にも思っていませんでした
・・・。

U.S. Navy[Public Domain]


2011年 3月11日 14時46分。
日本が転換期を迎えた日
かもしれない。
静かなる戦争が始まったと考えても
良いのかもしれない。

あの地震はびっくりするものでした。
60階のビルが、
目撃した方によると、ぐねっとまがったと・・。

Author:Gtogk[CC BY-SA]


3月11日から、なんか、胸騒ぎのような
ざわざわする感覚がずっとありました。

テレビの津波の映像を見て、
感覚がおかしくなりそうでした。

お米を買わなければ、水を買わなければと
振り回されました。

外国人が成田空港に殺到している??
3月14日の夜、検索をして、初めて気がつきました。
すべてのことが、わかりはじめたのです。


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