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インストールDVDを作る
今回はUbuntuのインストールDVDの作り方を詳しく説明します。事前に、前回の記事の「必要な準備物」にあるものをご用意ください。
この画面で、「Ubuntuのダウンロード」と書かれたリンクをクリックしてみてください。次の画面が表示されます。
この画面では、「日本語Remixイメージのダウンロード」をクリックします。ここで「日本語Remixイメージ」こそが、「Ubuntu Japanese Team監修による日本語対応がなされたUbuntuインストール用のISOファイル」です。すると、次のような一覧が表示されます。
なにやら難しいことが書かれていますが、新しく発表された順にUbuntuをインストールするためのISOファイルのリンクが並んでいます。本連載では「ubuntu-ja-16.04-desktop-amd64.iso(ISOイメージ)」 を使用します。リンクをクリック、あるいは右クリックでコンテキストメニューを表示して、「対象をファイルに保存」からISOファイルを保存してください(いつものように)。イメージファイルはサイズが大きいので保存には多少時間がかかります。気長に待ちましょう。
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1. ISOファイルをダウンロードする
最初にインストールDVDの「素」となるISOファイルをダウンロードします。まず、ブラウザでUbuntu Japanese Teamのホームページ, https://www.ubuntulinux.jp/を開いてみてください。このページはUbuntuに関する貴重な情報源なので、お気に入りに登録しておきましょう。この画面で、「Ubuntuのダウンロード」と書かれたリンクをクリックしてみてください。次の画面が表示されます。
この画面では、「日本語Remixイメージのダウンロード」をクリックします。ここで「日本語Remixイメージ」こそが、「Ubuntu Japanese Team監修による日本語対応がなされたUbuntuインストール用のISOファイル」です。すると、次のような一覧が表示されます。
なにやら難しいことが書かれていますが、新しく発表された順にUbuntuをインストールするためのISOファイルのリンクが並んでいます。本連載では「ubuntu-ja-16.04-desktop-amd64.iso(ISOイメージ)」 を使用します。リンクをクリック、あるいは右クリックでコンテキストメニューを表示して、「対象をファイルに保存」からISOファイルを保存してください(いつものように)。イメージファイルはサイズが大きいので保存には多少時間がかかります。気長に待ちましょう。
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文中、イエスとマグダラのマリアに対するコブラの見解は、チャネリング関係でよく知られているものですが、私はこれをまったく信じていません。
私の考えでは、マグダラのマリアと、ベタニアのマリアは別人物です。これは、ベンジャミン・クレーム著「マイトレーヤの使命Ⅲ」の巻末にある“世界のイニシエートのリスト”の中で、2人の魂の光線構造が異なることから、はっきりとしています。こうした光線構造の調べ方は、次回の宗教学講座の中でお伝えします。映像の配信は1か月ほど先になりますので、少しお待ちください。
私は、ベタニアのマリアはイエスの妻だったと思っています。当時のユダヤ社会では、イエスの年齢で独身であることの方が異常なので、2人は形式的に籍を入れていたと思います。しかし、2人に性的な関係はなく、イエスは生涯女性との関係を持たなかったと考えています。
イエスの最後の3年間は、マイトレーヤがオーバーシャドウ(憑依)し、イエスの口を通して、キリストの言葉を人々に伝えました。マグダラのマリアは霊能者で、イエスに合体していた主マイトレーヤの姿と内なる声を認識していたと思います。マイトレーヤとマグダラのマリアは恋人同士と言える関係だったと考えています。もちろん、性交渉はありませんでした。
マグダラのマリアは、イエスの磔刑後フランスへ逃れますが、そこでサン・マクシマンの子供を身籠ります。この2人の間に出て来た家系が、その後の“聖杯の血筋”となるわけです。なお、“サン・マクシマンはマグダラのマリアに終油を授け葬ったとされる聖人”です。
なぜこの二人の子の血筋が、“聖杯の血筋”といわれるのかですが、実は二人の性交渉の際に、サン・マクシマンの身体の中にマイトレーヤが入っていたのです。要するに、サン・マクシマンは娘サラの生物学的な父親ですが、マイトレーヤは霊的な父親なのです。
これらのことは、宗教学講座の中でお伝えしていますが、一般には知られていません。私の直観によるものです。私はこのような人間関係に不快感を覚えます。霊的な不倫関係ともいえる不潔な血筋を、“聖杯の血筋”と呼ぶことは、言葉の本来の意味を冒涜しているといえるでしょう。
彼らが根こそぎ滅ぼされたのも、やむを得ない事だったと思います。