右翼思想の謎 〜天皇が抹殺対象に
孫崎享氏は『日米開戦の正体』p486にて、天皇を巡る戦前史の見方について以下のように投げかけています。
この上で続いて孫崎氏は、新右翼団体「一水会」の最高顧問鈴木邦男氏との対談の様子を記載し、右翼の天皇に対する態度について驚くべき、そして決定的な言質を引き出してもいます。以下のとおりです。
右翼の鈴木氏が、「ゾルレンの天皇を守るためには、ザインの天皇を殺してもいいとの暴論まで吐く人もいました。」と指摘しました。満洲事変の頃から、軍部には、この考により、自分達の政策を支持しない天皇は排除すべき、という動きが見られます。
この孫崎氏と鈴木氏の対談は、平成の後期、現在の明仁上皇が憲法を遵守し、日本の民主主義を大切にしようとの姿勢を明瞭にされたのに対し、時の安倍政権、そしてそれと与する右翼を名乗る人物たちが、天皇のこの姿勢に抗する動きを見せたことが発端になっています。
天皇の統帥権、戦前軍部は軍事関係を統帥権の下、他の介入を排除。しかし、天皇の意思は無視。軍の政策に反対する時は天皇を排除する脅しを行ってきた。今天皇の権限を強めようとする人々は、今日の天皇の平和への願いは全く無視。天皇という制度を自分達の政策を遂行する道具として使いたいだけ。
— 孫崎 享 (@magosaki_ukeru) December 24, 2014
安倍政権は一貫して憲法の改正を、より具体的には「緊急事態条項」の憲法への埋め込みを窺う姿勢を見せてきました。これは現憲法を戦前の帝国憲法に戻す動きと言えます。(この帝国憲法回帰の動きは現在も同様です。先日令和3年5月3日には菅首相が憲法改正と「緊急事態条項」への言及があった通りです。)
帝国憲法は国家元首を天皇と定め、「神聖にして侵すべからざる」現人神の天皇は、皇軍を統帥する定まりになっています。帝国憲法では絶対権限を有していると言っても過言でもない天皇、この天皇をひたすらに敬重し、おしいただくのが右翼思想のハズ。
ところが、現実には右翼を名乗る人物たちは、天皇が自分たちの思い描く姿と異なる姿勢を、つまり現憲法を遵守し、日本の民主主義を大切にする姿勢を見せれば、これを排撃する動きをとります。
天皇を敬重するはずが、天皇の思いや姿勢が気に入らなければこれを無視したり攻撃対象とする、この右翼のどう見ても矛盾したあり方と言動を「なぜなのか?」と孫崎氏は鈴木氏に問うたのです。
この孫崎氏の問に鈴木氏は決定的なことをコメントしたわけです。すなわち、右翼には「自分たちの理想の天皇を守るためには、その理想と外れた現実の天皇は殺しても良い」と主張する人間がいると言明したのでした。そして問題は、「理想のためには現実の天皇を殺しても良い」と暴論を吐く右翼は、現在のごく一部の「はねっかえり」だけではないということです。
この「理想のためには天皇も排除すべき」との動きや考え方は、既に満州事変の頃の軍部に浸透していたもので、それが連綿として現在まで続いているというのが孫崎氏の見解なのです。
» 続きはこちらから
これらの争い抗争は、単なる議論や誹謗中傷などでの攻撃ではすまず、実力行使の暴力による流血の抗争が多くあったのです。多くの人物がその抗争によって殺傷されています。この具現化された日本社会での争いには、いくつもの要因はあったでしょう。
ただ、その争いの最上部、そして種々の日本での抗争の元にあったと思えるのが、禁裡内、皇室の争いだったでしょう。幕末期から明治維新にその原点が生じていたものです。
幕末、日本は英領(正確にはイギリス東インド会社、後の300人員会のシマ)となり、國體天皇である孝明天皇は薨去を偽装し裏に回り、英国女王の下に政体天皇として明治天皇がたてられました。
明治維新は「南朝革命」とも言われます。明治期の早々に、それまで天皇が禁じていた「鬼神祭り」を専らとする「招魂社」(靖国神社など後の護国神社)が日本各地に創建されました。また、湊川神社を始め、南朝に貢献した楠正成などを英雄や神と祀る神社群も創建されていきます。南朝勢力が日本を牛耳っていったと言えるでしょう。
しかし、北朝勢力も座視していたわけでもないのでしょう。竹下さんは2014/10/25記事にて、
こうだとすると、北朝勢力の巻き返しがあったと見られます。ただし、勢力が強大で強力な暴力装置を有していたのは、やはり南朝勢力(裏天皇側)。当時の状況を検証すれば「喉元に匕首を突きつけられた」ような難しい状態にあったのが昭和天皇だったように見受けられます。