海部氏系図(本系図)巻頭
海部氏系図(あまべしけいず)は、
京都府宮津市に鎮座する
籠神社の社家、海部氏に伝わる系図であり、『
籠名神社祝部氏係図』1巻(以後「本系図」と称す)と『
籠名神宮祝部丹波国造海部直等氏之本記』1巻(以後「勘注系図」と称す)とからなる。
本系図
成立年代については、標記中に「従四位下籠名神」とあることから、籠神社が「従四位下」であった期間、すなわち
貞観13年(
871年)
6月8日を上限とし、
元慶元年(
877年)
12月14日を下限とするが、下述
「勘注系図」の注記にも貞観年中(859-77年)の成立とある。作者は当時の当主である第33世(以下、世数は「勘注系図」による)
海部直稲雄であると見られている。
始祖
彦火明命から第32世の
田雄まで、各世1名の直系子孫のみを記したきわめて簡略なもので
- 始祖から第19世健振熊宿祢までの姓を有さない上代部。途中、2・3世と第5世から第18世までを欠いているため、わずか3人(神)を記すのみである。
- 第20世都比から第24世勲尼までの、「海部直」の姓を持ち、伴造として丹波国(当時は丹後国を含んでいた)の海部(海人集団)を率いていたと思われる海部管掌時代。
- 第25世伍佰道から貞観時代の第32世田雄までの、「海部直」の姓を持つとともに名前の下に「祝」字を付け、籠神社の祝としての奉仕年数を注記する祝部時代。
勘注系図
「本系図」に細かく注記を施したもので、竪系図の形式を襲うが、現存のものは
江戸時代初期の
写本であり、原本は
仁和年中(
885年 -
889年)に編纂された『丹波国造海部直等氏之本記』であると伝える。
-
推古天皇朝に丹波国造であった海部直止羅宿祢等が『丹波国造本記』を撰述。
- 上記『国造本記』撰述から3世を経た養老5年(721年)、丹波国造海部直千嶋(第27世)とその弟である千足・千成等が『籠宮祝部氏之本記』を修撰(一説に養老6年(722年)8月ともある)。
- 貞観年中に、第32世の田雄等が勅を奉じて、上記『養老本記』を基にその後の数代を増補する形で本系帳としての『籠名神社祝部氏系図』(現在の「本系図」)を撰進。
- 仁和年中に、「本系図」が神代のことや上祖の歴名を載せておらず、本記の体をなしていなかったため、第33世の稲雄等が往古の所伝を追補して『丹波国造海部直等氏之本記』を撰述。
本記事文章は現在公開を停止しております。 (2016/4/23)
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秦氏は南ユダ王国から日本へとやって来た氏族で、ユダヤ人です。下鴨神社の社家の一族は、秦氏と同族と考えられていますが、秦氏の方が格上のようです。その秦一族が本宗とする神社は、京都御苑「宗像神社」だと思います。
以前に取り上げた八咫烏の記事において、“堀川辰吉郎が裏天皇になり、その守護に。…神社に関係あり宗像が核”とありました。八咫烏のウイキペディアによれば、八咫烏の仮本宗は下鴨神社の境内にある河合神社だということです。
先の記事には、“裏天皇に従うは、京都社寺勢”とあるので、京都の宗像神社で秦一族の本宗になり得るものは、この京都御苑「宗像神社」しか考えられないのです。
ただ、秦一族は原始キリスト教徒だと思われるので、祭神の多紀理比売命、多岐都比売命、市寸島比売命はそれぞれ、ベタニアのマリア、マグダラのマリア、聖母マリアに同一視していたと思います。
原始キリスト教徒はエッセネ派の教義であるハルマゲドン(世界最終戦争)を受け継いでいるはずなので、秦一族が日本を事実上裏支配しているとすれば、日本はイスラエルと協調して最終戦争に突入して行く計画だったのです。幸いこの計画は完全に破棄されました。
京都御苑「宗像神社」を核とする京都社寺勢は、本日11日午前2時前後だったと思いますが、完全に霊的に粉砕されました。もはや、裏神道を奉じる者で神に逆らう者たちは、居なくなったと言って良いと思います。