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ユダヤ問題のポイント(日本 昭和編) ― 第15話 ― 「私の描いた作品」
「二キ三スケ」の顔ぶれ 〜「田布施族」の「三スケ」
満洲国の実力者としてよく使われるフレーズが「二キ三スケ」です。「二キ」とは、東條英機と星野直樹。「三スケ」とは、岸信介、松岡洋右、鮎川義介のことです。
「二キ」の東條英機は日米開戦時の日本国首相で、満洲時代は1935年に関東憲兵隊司令官・関東局警務部長。 1937年には関東軍参謀長に就任しています。
星野直樹は1932年に大蔵省から設立されたばかりの満洲国建国に渡り、数々の要職を経た後に1937年に実質上の行政トップ国務院総務長官に就任しています。
「三スケ」の岸信介については後述します。
松岡洋右は、1933年に首席全権として出席した国際連盟特別総会にて日本の国際連盟脱退を宣言した人物です。1935年に満鉄の総裁に就任、1940年には近衛内閣で外務大臣に就任。
鮎川義介は日産コンツェルン創始者で、満洲重工業開発株式会社総裁でした。「河豚計画」を提唱した人物でもあります。「二キ三スケ」では「二キ」より「三スケ」のほうがより重要だと見ています。ウィキペディアの「弐キ参スケ」記事の中には次のようにあるのです。
鮎川義介・岸信介・松岡洋右の3人は満州三角同盟とも称された。3人はいずれも山口県周防地方の生まれ、育ちである。この3人の間には姻戚関係もある。
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松岡の妹婿の佐藤松介は、岸の母方の叔父である。岸の実弟である佐藤栄作は、叔父夫妻の長女で松岡の姪の寛子と結婚して婿養子となっている。
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のちのことになるが、岸の長男信和の妻は、鮎川の従兄の娘である。
「三スケ」の3名は同郷、明治天皇・大室寅之祐の出身の長州・田布施の「田布施族」であり、姻戚関係で結ばれてもいたのです。竹下さんは2014/11/29の記事で次の指摘をされています。
堀川辰吉郎の直接の部下が岸信介。岸信介の部下が塚本素山、笹川良一。笹川良一の部下が児玉誉士夫。
岸信介
Author:Government of Japan [CC BY-SA]
裏天皇・堀川辰吉郎の直接の部下で、堀川辰吉郎の意志を満洲で実際に具現化していく役割を担っていたのが岸信介、その岸信介の役割をサポートする同盟関係の仲間が松岡洋右、鮎川義介であったと見受けられます。
この意味で「二キ」より「三スケ」のほうが重要であり、特に最重要人物が岸信介だと見ているのです。岸信介の満洲時代はウィキペディア記事では以下です。
1936年(昭和11年)10月に満州国国務院実業部総務司長に就任して渡満。1937年(昭和12年)7月には産業部次長、1939年(昭和14年)3月には総務庁次長に就任。この間に計画経済・統制経済を大胆に取り入れた満州「産業開発5ヶ年計画」を実施。大蔵省出身で、満州国財政部次長や国務院総務長官を歴任し経済財政政策を統轄した星野直樹らとともに、満州経営に辣腕を振るう。
岸信介が就任した国務院総務庁次長。総務庁次長とは、星野直樹が就いた行政トップの国務院総務長官に次ぐポストの行政No.2で、実業部門のトップです。予算編成は総務庁が握っており行政を仕切っていました。しかも星野直樹は大蔵省出身の財政の専門家で、実業には疎かったようです。
こういったことを踏まえれば、岸信介は「表の顔」として満洲国の行政を事実上のトップとして司っていたと言えるでしょう。そして彼には無論「裏の顔」もありました。
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アベシは「地球儀を俯瞰する外交」などと称し、ODAなる看板を用いて湯水のように日本国家の資金を垂れ流し、その資金はアベシに金魚のフンのようについて回った企業に流され、アベシはそこからキックバックによって資金を獲得しています。絵に書いたような迂回によるマネーロンダリングです。他にもありますが、これがアベシの不正な資金獲得の主たるものでした。こうやって得た莫大な資金の蓄財が「安倍一強」と称されるような力となっていたのです。祖父である岸信介は「政治資金“ろ過”」(マネーロンダリング=資金洗浄)の名手であり、孫のアベシはそれに倣っていたのです。
岸信介の場合、その「濾過器を通ったキレイな政治資金」の大方は阿片マネーでした。これが岸信介の「裏の顔」の一部分です。
実験国家・満洲国を「私の描いた作品」とまで言い切ったとされるのが岸信介です。満洲国の経済産業政策を中心的に担ったのが岸信介であり、統制経済の満州「産業開発の5ヵ年計画」を計画し、満洲国実業部トップとしてこれを実施したのが彼です。こちらが岸信介の「表の顔」部分です。
「裏の顔」と「表の顔」を使い分けた岸信介が、ある意味では満洲国を作り上げ、統制し、経営したのです。岸信介が満洲国の実質的な支配者だったのです。無論その岸信介の背後にはあのグループがあります。