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ユダヤ問題のポイント(日本 昭和編) ― 第20話 ― 戦争の秘された目的

 帝国憲法では、「現人神」の天皇はすべての法に超越した絶対的な存在に規定されます。これを違う角度から見れば、天皇を自在に動かすことができる者がいれば、その者は天皇の名を借りて、その看板の元に好き放題ができるということになります。言うまでもなくこれを狙っていたのがアベシたちです。
 また、帝国憲法で超越的存在の天皇に準ずるのが皇族たちで、「法の上」にあるような存在でした。帝国憲法では、皇族たちは皇族典範でその地位が規定され、皇族会議、枢密院、貴族院に席を有することになります。これらは国家中枢を動かすものでもあります。「法の上」にある皇族たちは、自在な活動をしても処罰されるようなことは無かったのです。
 法の支配下にない彼ら皇族たちの一部が頭になって、秘密の軍事作戦を展開します。大東亜戦争の目的の第一義は「日本人国家の勝利」ではありませんでした。戦争目的の第一義が「大東亜共栄圏設立のための布石」という言い方ならば嘘ではありませんが…。
(seiryuu)
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ユダヤ問題のポイント(日本 昭和編) ― 第20話 ― 戦争の秘された目的

無謀な戦域拡大のわけ


前回、引用された櫻井ジャーナルの記述には以下の4つの柱があると指摘しました。

日本軍による東アジアでの財宝略奪(金の百合)プロジェクトは1937年の南京攻略から開始された。
②南京攻略(つまり南京大虐殺と略奪の真の犯人は軍の最高指揮官の松井石根ではなく朝香宮鳩彦。
財宝略奪(金の百合)の主導者が秩父宮雍仁。その補佐が竹田宮恒徳。
秩父宮と駐日アメリカ大使だったジョセフ・グルーは懇意。

①②については前回に多少言及しました。「金の百合」即ち日本軍による財宝略奪が本格的に始動するのは1937年の南京攻略からで、この「金の百合」の総指揮は秩父宮が執っていたようです。

秩父宮雍仁
Wikimedia Commons [Public Domain]

ただし、日本側による財宝の略奪は1937年の前から始まっていました。あの1921年国家間条約」に基づき始まっていたようです。2019/12/16の竹下さんの記事全体を通しては以下のことが明かされています。

  • 欧州外遊中の昭和天皇はイギリスのジョージ五世国王、ウォレン・ハーディング米国大統領、フランスのジョルジュ・クレマンソー首相らと1921年国家間条約」を締結。しかしこの締結は実際には堀川辰吉郎とウォルター・ロスチャイルド、エドゥアール・ド・ロチルド、そしてジョン・ロックフェラーの合意。
  • ウォルター・
    ロスチャイルド
    Wikimedia Commons [Public Domain]
    エドゥアール・
    ド・ロチルド
    Wikimedia Commons [Public Domain]
    ジョン・
    ロックフェラー
    Wikimedia Commons [Public Domain]
    堀川辰吉郎

  • 「1921年国家間条約」の当初合意した内容に沿って、金塊の大半が1924年から1945年の間に日本が建設したインドネシアやフィリピン諸島の秘密の掩蔽壕の中へと運び込まれた。その量600万トン以上?
  • 日本からの掠奪をおそれたアジアの王族たちなどが、すでに1928年頃から財宝をアメリカに預けるようになる。その合わせた量“約200万トンの金塊”。
  • このアメリカに預けられた金塊をもとにブレトン・ウッズ協定が1944年に行われる。1945年、このアメリカの金塊が“M1”と名付けられ、インドネシアのスカルノ大統領をこの巨額の資産を管理する口座管財人に選出。

1937年の日中戦争開始以降、日本は戦域を広げに広げていきます。こうなれば戦力を分散せねばならず、しかも補給線なしの戦域の拡大で、明らかに素人目にも無謀です。

Wikimedia Commons [Public Domain]

あの満州事変を起こした石原莞爾は、日中戦争を起こし戦域を拡大するのには反対していました。石原莞爾は日本がアジアの雄となるのを目指していましたが、戦域拡大はあまりにも時期尚早で、無理があると見たのです。戦争での勝利を目指す軍人の視点としてはごく当然のものでしょう。

補給線なしの戦域の現場で、日本兵たちがどんな目にあったかはよく知られていることです。日本兵の戦死者のほとんどは実質は餓死です。補給路の確保(兵站)は戦略の初歩の初歩です。ところが、この初歩の兵站を無視して戦域を拡大したのは何故か?

「戦争での勝利のため」では明らかにおかしいのです。
黄金の略奪を急ぐため、これが目的ならばやっと話が通じます。


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ユダヤ問題のポイント(日本 昭和編) ― 第19話 ― 戦犯の皇族たち

 いわゆる大東亜戦争、この戦争で大掛かりな略奪と虐殺行為、また強姦もありました。ありのままに裁かれるべき人物たちがいます。しかし、この戦争での真犯人たちが裁かれるどころか、完全に世間から秘匿されているのです。
 シリーズのテーマからは少し外れるので、南京大虐殺について資料を読むことはあまりなかったのですが、今回、松井石根という人物に目を引かれました。
 松井石根は南京大虐殺の責任者として東京裁判で処刑されるのですが、彼のウィキペディア記事で出ている東京裁判時の写真が、諦念しているのか非常に穏やかで印象に残ったのでした。
 確かに南京攻略戦での総司令官が松井石根であり、その南京戦で大虐殺と掠奪、そして強姦があったのは事実です。しかし、松井石根はそのような違法行為がないよう将兵に命じていたのが、いわば「裏切られた」のです。
 それでも松井は南京での部下たちの不法行為に対し「自分の責任を回避しない」と、自らの処刑を受け入れ、次の言葉を残してます。
「私だけでも、こういう結果になるということは、当時の軍人たちに一人でも多く、深い反省をあたえるという意味で大変に嬉しい。せっかくこうなったのだから、このまま往生したい。」
 南京戦後、松井は軍服を脱ぎ、日本と中国の戦死者たちを慰霊する毎日を送るのですが、この松井を裏切った上に処刑を身代わりにさせた人物がいます。虐殺と掠奪を命じた皇族たちがいました。
(seiryuu)
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ユダヤ問題のポイント(日本 昭和編) ― 第19話 ― 戦犯の皇族たち


関東軍宮田参謀と731部隊


731部隊の振る舞いが秘された理由はその残虐非道さにありますが、皇族が絡んでいたことも大きかったと考えられます。

731部隊に三笠宮と思われる人物が同席している集合写真がありました。風貌から見て20歳時の三笠宮であると思われます。ただし、この写真で三笠宮が731部隊に深く関与しているということではないです。


写真では特別な椅子に三笠宮と思える若い人物が最前列中央に座していることから見て、宮様が731部隊を訪問したので“お客様”として扱い写真に収まった、というものでしょう。お客様の若い三笠宮が731部隊の行状に関与したとは思えません。

しかし、昭和天皇の従兄弟である竹田宮恒徳は違います。

衣冠姿の竹田宮恒徳
Wikimedia_Commons [Public Domain]

戦後は皇籍離脱し、1962(昭和37)年に日本オリンピック委員会の委員長に任命された竹田宮は、戦時中は731部隊に非常に深く関与しています。「731部隊 竹田宮」や「731部隊 宮田参謀」で検索すればたくさんの情報が出てきます。宮田参謀とは竹田宮恒徳が戦時中に使っていた名前です。

そのネットに多くある情報の一つに、「731からフクシマまで!!」のサイトにて「『死の工場(隠蔽された731部隊)』(シェルダン・H・ハリス著:近藤昭二訳)より」として次のようなものがあります。

竹田宮は、他にもっと直接的なつながりを、細菌兵器施設との間に持っていた。彼は、関東軍司令部によって設置された、731部隊と100部隊の事業の監督をするための特別委員会の幕僚メンバーだった。彼の幕僚メンバーとしての最も重要な責務は、平房や他の支部施設を訪問する許可を与えるかどうかを決定することであった。関東軍における医療行政官のチーフのように権力のある個人すら、平房〔の施設〕に立ち入る際には竹田宮・宮田が発行した通行証を求める必要があった。関東軍司令官もしくはその直属の部下が731部隊を訪れるときは、竹田宮自身が彼らの一行に混じって彼らをエスコートした。

こういった情報の真偽ですが、ウィキペディアの竹田宮恒徳の記事には次のようにあります。

太平洋戦争(大東亜戦争)には大本営参謀として、フィリピン攻略戦、ガダルカナルの戦いに参画する。参謀としての秘匿名は「宮田参謀」であった。しばしば前線視察を希望し、危険が多いラバウル視察を強行するなど、周囲をはらはらさせていた。1943年(昭和18年)3月、陸軍中佐に昇進、8月に関東軍参謀に転出した。新京では満州国皇帝溥儀と交流を持ち、親しくしていたという。1945年(昭和20年)7月、第1総軍参謀として内地へ戻り、間もなく終戦を迎えた。

少なくとも竹田宮は、満洲で関東軍の参謀という要職にあったのです。当然ながら、同じ関東軍の731部隊とは共働していたのは間違いないのです。しかも、竹田宮は敗戦(ソ連参戦)を予め知らされていたのでしょう。敗戦直前に満洲から内地に戻っています。悲惨な目にあった満蒙開拓移民とは雲泥の差です。

皇族は民衆とは隔絶された特別な地位にあります。その皇族の中で戦時中には虐殺、そして黄金を主とする財宝の略奪を指揮したものがいます。


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ユダヤ問題のポイント(日本 昭和編) ― 第17話 ― 731の遺伝子(中)

 民衆を奴隷支配せずにおられない輩がいます。彼らは民衆に対しての残虐非道な行為を平気で実行します。その代表格の一つがイギリス東インド会社、後の300人委員会のメンバーたちです。彼らのインドや中国での残虐行為については既にある程度は見ています。これと同じような性向をもつものが日本の支配層にもあったということです。
 彼らは自分たちが選ばれし優秀なエリートであり、他は劣等種族であって、自分たちが好き放題に扱うべきだと思い込んでいるようです。しかし、彼らのエリート意識そのものが劣等意識の裏返しであり、他者の奴隷支配を実行している彼ら自身が、自分の「心の闇」の奴隷となって支配されているのが事実です。恐怖にも覆われています。この「心の闇」は誰にでもあるのかもしれません。ただし、その奴隷となるかどうかは各人次第なのでしょう。
 「心の闇」に支配された支配層の人々の実働部隊として、その性向を鮮明に表したのが731部隊です。731部隊は隊長の石井四郎がある意味優秀であったので、部隊が拡大した組織となり目立ちました。しかし、日本軍の部隊で秘密の非合法行為を担当したのは731部隊だけではなく他にもあります。 直接的にそれらを生み出したのは軍であり、それに医学界・科学界でもありました。ただ突き詰めていくと、それらの全ての生みの親は「心の闇」なのでしょう。
(seiryuu)
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ユダヤ問題のポイント(日本 昭和編) ― 第17話 ― 731の遺伝子(中)

731の遺伝子作動が映り込む映像


「731の遺伝子」と題しています。これは731部隊が「その遺伝子とも呼ぶべきもの」を生み出したという意味ではありません。正確に記せば“731部隊を生み出した遺伝子”となります。題名には731部隊の振る舞いが「その遺伝子とも呼ぶべきものを強化し鮮明にした」という意味も込めてはありますが…。

“731部隊を生み出した遺伝子”が明らかに作動している場面の映像を、ずいぶん古くなりますが以前に取り上げたことがあります。2017/05/23の記事です。「せせら笑う」三者の映像についてです。

場面映像の古い順から記すと、一つめは脳死・臓器移植を巡る推進派と反対派のテレビ討論です。反対派の医師たちを「せせら笑う」推進派の医師などの面々がそうです。
次いでは、原発の稼働を巡っての京大小出裕章助教(当時)と東大大橋教授の討論映像、「プルトニウムは飲んでも大丈夫…」などとうそぶきながら「せせら笑う」大橋教授の映像。
そして最後が安保法案参院本会議の最終局面、採決直前の野党の反対討論を公明党山口代表とその周囲が(ヤジを飛ばしながら?)「せせら笑い」談笑している映像です。

この三者、おそらく脳死・臓器移植推進派の医師などたちは、731部隊に直接的に関係する面々、大橋教授など原発稼働を推し進める勢力も同様である可能性は高いです。
公明党の山口代表たちは、直接は731部隊とは無関係でしょう。しかし間接的な意味では繫がっていると見てもいいでしょう。

何よりも「せせら笑い」映像の三者、彼らには共通して“731部隊を生み出した遺伝子”が作動しているのが見て取れます。過去記事では彼らの共通項として次の指摘をしました。

自身のバックには巨大な力と権力が存在し、自身はその巨大な存在に連座する代弁者で、選ばれし優等エリートであるとの選民意識が明瞭に見て取られます。

彼らのその高慢と「お前たち弱者・劣等者たちが何をほざいたところで…」との弱者と見なしたものへの嘲りが「せせら笑い」になっているのだとも。

改めてですが、「脳死問題」とは、「生きた臓器」の移植をその生体実験を適法のもとで行いたくてたまらない医師たちが、そのため「脳死」を「人の死」とする法律を求めたものです。「死んだ臓器」など使い物にならないからです。

歴史の襞の中から6」で「(昭和)43年の和田寿郎の心臓移植手術」を取り上げています。当時、和田医師は殺人罪で告発されています。

右から二人目が心臓移植手術をする和田教授

こういった彼らの振る舞いを観察すると、証拠はなく邪推のそしりもあるでしょうが、彼らが闇では臓器移植を、生体解剖実験を実践していたのではないか?との疑念が拭えません。

ともあれ、元々は人間の死、個人の死の概念に「脳死」などはなく、本来は殺人罪が適用される行為を適法にすべく進めていったのが「脳死・臓器移植」の法案です。本来は完全な犯罪の残虐行為を、巨大な力を背景にそれを「正当行為」として推し進めていく、この姿は731部隊の姿とオーバラップします。

満洲では、関東軍は絶対権力と言えたでしょう。その絶対権力をもとに731部隊は生体解剖実験など残虐非道な行為を繰り返していました。

編集者註:ガーディアン紙の翻訳記事はこちら


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ユダヤ問題のポイント(日本 昭和編) ― 第16話 ― 731の遺伝子(上)

 コロナワクチン、モデルナ社のものは武田/モデルナ社と表記されています。武田薬品がコロナワクチンに大きく絡んでいるのが見て取れます。
 731部隊は「武田薬品満洲支部」と呼ばれるほど武田薬品と密接な関係にありました。要はコロナワクチンにも731部隊の影が見えるのです。
 コロナワクチンだけではありません。薬害エイズを始め薬害関係のほぼ全て、それに原発の放射能汚染など現在の日本(世界)の様々な問題に、731部隊はその影を落としているのです。731部隊は、その遺伝子とも呼ぶべきものは、現在も生きていて地上世界を覆ってきていたのです。
 731関係者、特にその研究者上層部の人間たちが、戦後も日本医学界をその重鎮として取り仕切っていたのはよく知られた事実です。彼らは、米国側との取引で免責されてその地位にあったのですが、彼らは自分たちの行ってきた行為を決して認めようとはせず隠蔽、つまり一切の反省もなしに現在に至っています。731部隊の行状を明らかにするものに対しては、直接・間接の731関係者とそれに連なる者が徒党を組み、種々の方法で執拗な攻撃を加えることもしています。一種の集団ストーカー行為です。
 最新の映像配信でも改めて「個の自立・確立」の重要さが語られています。彼らの中にいかに立派な肩書や権力を持つものがいても、自分たちの行為を認め受け止めることもできず、都合の悪い相手には違法な集団ストーカー行為をせずにおられない彼らは、「個の自立・確立」とは対極の位置にあることが分るでしょう。内実としては「弱く・幼稚」ということです。
(seiryuu)
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ユダヤ問題のポイント(日本 昭和編) ― 第16話 ― 731の遺伝子(上)

『悪魔の飽食』への攻撃 〜徒党を組み卑劣な攻撃をする輩


残酷でおぞましい人体実験を繰り返した731部隊……、こういった書き出しに対して、相手が弱いと見れば居丈高になって攻撃し、そうでなくてもヒステリックに事実を認めず、歪曲・否定し隠蔽しようとする輩がいます。

ウィキペディアの731部隊の記事内容にも、彼らの攻撃が加えられたのだろうと思える節があります。同様のことが起きるのは「慰安婦問題」「南京大虐殺」がそうです。彼らの姿は、最近では愛知県の大村知事に対する不正な攻撃で一部顕わになっています。

731部隊のことが世に出てきたのは、森村誠一氏の『悪魔の飽食』によってでしょう。しかし、世の大きな話題となったその『悪魔の飽食』シリーズは「捏造」として激しい攻撃を受けました。それにより731部隊の話題は下火になりました。

詳しくは、森村誠一公式サイト「回想~悪魔の飽食~卑怯な匿名」の「国賊の証明」章の森村誠一氏ご本人の説明の全文を読まれたらよいのですが、彼らの攻撃の手口、ここにはこうあります。

三百万部を超える『悪魔の飽食』が生まれた。だが、続編のグラビア写真に、無関係な写真を誤用したために、グラビアが偽物であるから内容もインチキであろうと叩かれた。
(中略)
元隊員から提供された第二部に使用した写真の中に、七三一部隊とは関係ない明治四十三(一九一〇)年から翌年にかけて中国東北部に流行したペストの惨状の写真が混入されていた。提供者は本物の資料と混ぜて提供したので、真贋見分けられなかったのである。
その後が凄まじかった。これまでなにも言わなかった右筋の街宣車の大行列が我が家の前に連日群集した。お経を唱え、最大ボリュームの拡声器で国賊、売国奴、非国民、日本から出て行け、と怒鳴り続けた。

ここでは『悪魔の飽食』を継続出版しようとした角川書店も攻撃対象になった様子も語られています。


繰り返される執拗な攻撃、ネット上での彼らが「捏造だ」と攻撃するその内容を読みましたが、一見はそれらしいものの、デタラメな暴論です。

 “1000の不法行為を犯したものがその全てを隠蔽した。あるものがその1000の不法行為のうち100を調査によって明らかにした。しかしその100の内の1が間違っていた。これに対して1000の不法行為の隠蔽側が、間違っていた1のみを針小棒大に攻撃、それで明かされた100の全てが「捏造・歪曲」と断定、ひいては1000の不法行為も「全て無かったこと」に。

こういったたぐいのものです。

100の内の1が間違いならば、それはそれだけのことです。1が間違いならば残りの99も間違いになるなどありえません。ましてや1の間違いで1000の不法行為と隠蔽が否定されるはずもありません。

「捏造だ」と主張するならば、捏造とするその一つ一つを示し、それが捏造である具体的・客観的な根拠を示して説明する必要があります。

ところが、彼らにはその作業はなし。

それに加え、彼らの攻撃の言説自体が、少し調べるとまさに根拠を欠くでっち上げ、捏造であるのが見えてきます。彼らの徒党を組んだ不法な攻撃、その卑劣さは森村氏が次に語る通りです。

『悪魔の飽食』発刊後、三十余年後の今日に至っても、インターネット上に『悪魔の飽食』は贋作(がんさく)、模倣であるという書き込みが載っている。ネットの書き込みには署名がない。署名がない人間の言動や非難は、自分の言ったこと、行ったこと、書いたこと、他人の非難、中傷、妨害などについて一切責任を持たないということである。脅迫状の大半も匿名であった。

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ユダヤ問題のポイント(日本 昭和編) ― 第13話 ― 阿片王と称された男

 電通の前身の満洲国通信社の初代社長兼主筆であり、「阿片王」と称されたのが里見甫です。里見甫の墓は千葉県にあり、その墓石には「里見家之霊位」と刻まれ、側面には「岸信介書」とあるとのことです。里見甫の墓に安倍前首相の祖父である岸信介が揮毫しているということで、里見甫と岸信介の繋がりの深さがここにも窺われます。
 「結局のところは人脈が物を言うことになります。ただし人脈には“黒い人脈”と“白い人脈”がありますが……」、どこかで竹下さんはこのように語られていました。
 里見甫は留学生として上海に渡り、一旦帰国するも再度中国に渡っています。中国語が堪能であった里見甫は中国人名を持ってもいました。里見甫は中国にて日本人側とも中国側とも広く深く人脈を形成していきます。そうやって大規模に事業を展開していったのでした。
 事業を成立させるにはどうであれ、人脈形成ができなければなりません。里見甫の事業は大規模な阿片事業であったので、その人脈は、多くは青幇や紅幇など地下組織のものでした。その意味で里見甫の人脈は“黒い人脈”に概ねは分類できるでしょう。
 ただし、欲望丸出しで獰猛な弱肉強食の地下世界で人脈を築き、地下の住人たちを取り仕切っていくには、それ相応の力と魅力がその人間に備わっていなくてはなりません。阿片事業を展開し「阿片王」とも称された里見甫は、それだけのものを持ってはいたということなのでしょう。
(seiryuu)
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ユダヤ問題のポイント(日本 昭和編) ― 第13話 ― 阿片王と称された男

メディアを取り仕切る電通 〜里見甫の人脈形成の原点


随分以前のことになりますが、IWJ代表の岩上安身氏が当方に来訪されたことがあります。その時面談させていただいた中で、メディアは、テレビはもちろん、新聞や雑誌にしてもその新聞代金などではなく、広告料の収入で経済的には成立していることを語られていました。

これは業界では当然のことのようです。広告なしにはメディアは経済的に成立しないので、メディアは必然的に広告を取り仕切る存在に依存し、コントロールもされることになります。

「広告界のガリバー」と称され、その世界で圧倒的なシェアを占めていたのが「電通」です。巨大広告代理店だった「電通」が日本メディアを支配しているのは当然のことであったのです。

前回に見たように、この電通の前身が満洲国通信社であり、その初代社長および主筆だったのが里見甫でありました。


そして、里見甫は「阿片王」とも称された男でもあります。里見甫が「阿片王」と称されるようになったのは、里見には卓越した中国語の語学力と、培われた人脈という資質があったからです。

里見は中国に留学してその語学力を身につけています。ウィキペディアの彼の記事には、

1913年、福岡県立中学修猷館を卒業し、同年9月、玄洋社第二代社長進藤喜平太の助力により、福岡市からの留学生として上海の東亜同文書院に入学する。

とあります。

里見甫は「修猷館」では柔道部の猛者だったようです。明治編 第33話で見たように、「修猷館」は福岡黒田藩の藩校がその始まりですが、玄洋社(白龍会)とは非常に縁が深い学校です。卒業生には、玄洋社社員であった明石元二郎や山座円次郎、広田弘毅などなど玄洋社関係者が多数います。

そして、里見は「玄洋社第二代社長進藤喜平太の助力」にて「上海の東亜同文書院に入学」とありますので「里見は玄洋社(白龍会)から上海に留学生として送り込まれていた」と言ってもさほど間違ってはいないでしょう。

上海にて留学生の里見は卓越した語学力を獲得し、その後も中国で人脈を形成していきますが、その背景の原点には玄洋社(白龍会)の存在があったと見て間違いないでしょう。

ウィキペディア記事によれば、里見は 東亜同文書院を卒業後一旦は帰国していますが、再度中国に渡り新聞記者として活動、ここで関東軍、そして中国側の人物たちとも人脈を形成したとあります。

続いて記事では、里見は1928年には満鉄の南京事務所の嘱託として活動、1931年9月の満州事変勃発に際しては、関東軍担当部署からの嘱託辞令を受けて奉天に移り、「奉天特務機関長土肥原賢二大佐の指揮下で、甘粕正彦と共に諜報・宣伝・宣撫活動を担当する。これらの活動を通じ、中国の地下組織との人脈が形成された。」となっています。

こういう経緯から1932年12月、里見は、設立された満洲国通信社の初代主幹(事実上の社長)兼主筆に就任しているわけです。里見はゆく先々で人脈を築き、成果を挙げているのが分かります。里見は「使える男」「使い勝手のいい男」であったことが窺われます。

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