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ユダヤ問題のポイント(日本 昭和編) ― 第40話 ― 消去されている戦争犯罪人
東京裁判の最大の問題点
1946年(昭和21年)5月3日から1948年(昭和23年)11月12日にかけて、「極東国際軍事裁判」(「東京裁判」、以下東京裁判と表記)が行われました。これは日本が占領下の中での戦争犯罪人を裁く裁判であったのですが、東京裁判の場合は日本のA級戦犯の容疑者がその対象となっていました。
極東国際軍事裁判(東京裁判)の様子
Wikimedia Commons [Public Domain]
私も誤解していたのですが、戦犯はA級、B級、C級の3つに別れ、「A級戦犯=平和に対する罪」、「B級戦犯=(通例の)戦争犯罪」、「C級戦犯=人道に対する罪」となるようです。私はA級が最も罪が重く、B、Cと罪が軽くなると思っていましたが、A、B、Cの戦争犯罪の分類は、罪の軽重を表す分類ではなかったのでした。ただし、東京裁判にてA級戦犯で起訴された28名のうち7名が死刑となったので、A、B、Cの分類が罪の軽重を表すとの誤解が広まったのも自然ではあるようです。
さて、東京裁判は歴史上非常に重要な位置づけとなるものです。なぜならば、東京裁判は太平洋戦争の総括を行う裁判だったからです。総括が次の進路を決定づけます。すなわち、東京裁判がその後の戦後の日本、そして米国の進路を決定づけた、との言い方も成立するのです。
だから非常に重要なものだったのですが、更に重大な点を指摘すれば、東京裁判は大変な欠陥裁判だったという点です。その最大の問題点とは、東京裁判では本当の悪辣な戦争犯罪人が全くその姿・名前さえも出されなかった、ここに東京裁判の最大の問題点が集約できるでしょう。
初めから裁判の対象から外れていた真の戦争犯罪人は、罪を問われる以前の段階でのうのうと特権生活を享受し、その後も権力者支配者としてこの地上世界を動かし、それが歴史として刻まれていくのです。最初から裁判の対象から外れていた真の戦争犯罪人とは誰か?
その本当の戦争犯罪人たちのごく一端は、第38話で紹介した岩波書店の『始まっている未来 新しい経済学は可能か』のp12の宇沢博士の以下の語りの中にも表れていました。
マクナマラの立てた計画が最初に大規模で実行に移されたのが、1945年3月10日の東京大空襲でした。下町を中心に一面火の海と化し、一晩で8万人を超える人が殺され、5万人近い負傷者が出て、30万戸近い家屋が焼失するという大惨事になった。(日本爆撃は)その後、拡大され、日本中の主な都市を巻き込み、最終的には、広島、長崎の原爆投下という、これまで人類が犯した最大の罪を犯すことになったわけです。
ずっと後になって、The Fog of Warというドキュメンタリー映画のなかで、マクナマラは当時のことを振り返って、こう言っています。
「ルメイ少将は『もし我々がこの戦争に負ければ、我々は戦争犯罪人として処刑されていただろう』と言っていた。彼は正しかったと思います。彼と、多分私も、戦争犯罪人になるようなことをしていたんです。」
(木村太郎『東京新聞』2009年7月11日)
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ベトナム戦争で、ベトコンのジャングルに隠れてのゲリラ戦法に手を焼いた米軍が、先ずはジャングルを破壊するために、無差別に大量に枯葉剤を撒き散らしたのでした。結果、この枯葉剤という猛毒薬が、ベトナムの一般民衆にどれほどの被害を与え数々の悲劇を生み出したものか…。米兵でさえもその被害にあっています。極めて残酷で卑劣な作戦を実行に移した米軍、この残酷で卑劣な作戦が、結局のところは現在のコロナワクチンにまで結びつくのですが、こういった背景には何があり、誰がいたのか?
米軍の無差別大量の枯葉剤の散布の原型は、太平洋戦争での日本への無差別絨毯爆撃にあります。日本の場合は爆弾と、紙と木と土で作られた日本民家を効率良く焼き尽くすため、焼夷弾が雨霰と投下されました。これで家屋が、街が、人々が焼き尽くされ破壊されました。ベトナム戦争では焼夷弾を枯葉剤に置き換えただけです。これでベトナムのジャングルが、人々が殺され、人々の生活と環境が破壊されました。
太平洋戦争での日本への無差別絨毯爆撃(原爆投下も)と、ベトナム戦争での枯葉剤散布は同一の文脈から起きています。明らかな戦争犯罪であり、しかもその戦争犯罪が全く問題とされなかったことが、現在のコロナワクチンの接種に繋がっているのです。こういった背景には誰がいたのか?
ジャングルを枯死させ、農耕地を壊滅させるための枯葉剤を製造したのはモンサント社です。そして、モンサント社とはロックフェラー傘下の企業だった、こう事実を指摘すればおおよその察しはつくでしょう。