メディアを取り仕切る電通 〜里見甫の人脈形成の原点
随分以前のことになりますが、IWJ代表の岩上安身氏が当方に来訪されたことがあります。その時面談させていただいた中で、メディアは、テレビはもちろん、新聞や雑誌にしてもその新聞代金などではなく、広告料の収入で経済的には成立していることを語られていました。
これは業界では当然のことのようです。
広告なしにはメディアは経済的に成立しないので、メディアは必然的に広告を取り仕切る存在に依存し、コントロールもされることになります。
「広告界のガリバー」と称され、その世界で圧倒的なシェアを占めていたのが「電通」です。
巨大広告代理店だった「電通」が日本メディアを支配しているのは当然のことであったのです。
前回に見たように、
この電通の前身が満洲国通信社であり、その初代社長および主筆だったのが里見甫でありました。
そして、
里見甫は「阿片王」とも称された男でもあります。
里見甫が「阿片王」と称されるようになったのは、里見には卓越した中国語の語学力と、培われた人脈という資質があったからです。
里見は中国に留学してその語学力を身につけています。
ウィキペディアの彼の記事には、
1913年、
福岡県立中学修猷館を卒業し、同年9月、玄洋社第二代社長進藤喜平太の助力により、福岡市からの留学生として上海の東亜同文書院に入学する。
とあります。
里見甫は「修猷館」では柔道部の猛者だったようです。
明治編 第33話で見たように、
「修猷館」は福岡黒田藩の藩校がその始まりですが、
玄洋社(白龍会)とは非常に縁が深い学校です。
卒業生には、玄洋社社員であった
明石元二郎や山座円次郎、広田弘毅などなど玄洋社関係者が多数います。
そして、里見は「玄洋社第二代社長進藤喜平太の助力」にて「上海の東亜同文書院に入学」とありますので「
里見は玄洋社(白龍会)から上海に留学生として送り込まれていた」と言ってもさほど間違ってはいないでしょう。
上海にて留学生の里見は卓越した語学力を獲得し、その後も中国で人脈を形成していきますが、
その背景の原点には玄洋社(白龍会)の存在があったと見て間違いないでしょう。
ウィキペディア記事によれば、里見は 東亜同文書院を卒業後一旦は帰国していますが、再度中国に渡り新聞記者として活動、ここで関東軍、そして中国側の人物たちとも人脈を形成したとあります。
続いて記事では、
里見は1928年には満鉄の南京事務所の嘱託として活動、
1931年9月の満州事変勃発に際しては、関東軍担当部署からの嘱託辞令を受けて奉天に移り、「奉天特務機関長土肥原賢二大佐の指揮下で、
甘粕正彦と共に諜報・宣伝・宣撫活動を担当する。
これらの活動を通じ、中国の地下組織との人脈が形成された。」となっています。
こういう経緯から
1932年12月、里見は、設立された満洲国通信社の初代主幹(事実上の社長)兼主筆に就任しているわけです。里見はゆく先々で人脈を築き、成果を挙げているのが分かります。里見は「使える男」「使い勝手のいい男」であったことが窺われます。
» 続きはこちらから
さスガだ...。