————————————————————————
今も生きているインドの伝統工芸
―― 今日は少し方向を変えまして、王さんの扱っておられる商品にスポットを当ててみたいと思います。
シャンティ・フーラ・イベントでは、飛ぶように売れていたパシュミナ・ストールの他、最後までお客様がじっくり鑑賞されていた*オリッサ州の伝統絵画が目を引きました。
商品のことを伺うことは同時に王さんのお仕事を伺うことにもなりそうですね。
このような伝統工芸品を扱われて25年とのことですが、まず、どのようにして、この絵画と出会われたのですか。
( *オリッサ州は現在、オディッシャ州になっています)
飛行機の乗り越しをして(笑笑)インドに辿り着きましてから、インドの手工芸品が気になるようになり出しました。手織り布、手染め手刺繍、手彫りの木や石、火を使って一つ一つ仕上げる鉄・真鍮・銅、各州の手描き絵、それはそれは地域によってバラエティに富み、何とも言えない味わいがあったのです。
今でも、日常に、木箱の上に道具を乗せた靴修理職人や、路上に足踏みミシンを出した簡易仕立屋さんが至る所にいますが、昔ながらの製法で生活用品を作ったり直したりする作業を眺めながら、お喋りもして、チャイ(庶民が飲むミルクティ)を奢ったり奢られたり。作り手と繋がり接することができるというのは、なかなか良い感じで贅沢なことと感じました。
日本は機械製工業製品のどこの国の誰が作ったかも知らないままの大量消費で、使用後は断捨離と捨てられてしまうので、そんなスタイルに違和感も感じていたのだと思います。
日本の江戸期、機械製工業製品に押される前に、日本の素晴らしい手工芸が花開いていたように、イギリスに略奪支配される以前のインドも、高い品質の手工芸が発展していました。デリーの博物館には、古い手工芸の圧巻の技術レベルの高さと美しさを見せつけてくれる作品が数多くあり、いつも感動をもらえます。
日本では、手工芸家を訪ねるのは敷居が高いのですが、インドは未だたくさんの手工芸家と職人がいますので、そしてインド人はとてもフレンドリーなので、彼らと交流するのが楽しくなり、深みにハマっていきました。
そもそも手工芸家人口は農業人口の次に多いと言われていますのに、中国から安価な生活用品は続々と大量に入り続けていますので、この数十年でも、手編みのバスケットや箒はプラスティックになり、手打ちの鍋も機械製になり、手織りの布の服もジーンズとTシャツになり、と、手工芸家の未来はどんどん暗くなるばかりです。中には「インドの首都に行けば売れるのではないか!?」の切羽詰まった思いを秘めた手工芸家が、地方の役所や機関から支援金をもらったりの工面をして、3等列車で4-5日掛けてデリーにやって来たりします(現実的には、売り先を見つけるのはそうそう簡単ではありません)。
彼らが集まるスポットや小さなイベントがあるのを聞きつけると、私は足しげく通いまして、優秀で人柄の良い手工芸家を探すわけです。もちろん、インド手工芸フィールドの友人達とのネットワークもありますので、一緒にインドの各地域に旅をして、デリー以外の地域で出会えた手工芸家も多いです。
オディシャ州の画家のタンマイとは、デリーの小さな屋外展示場でこうして知り合いました。かつて見た事ない繊細な石彫刻品に驚きうっとりしていましたら、恰幅で温和なおじさまが自分で作ったと、目の前でフリーハンドで彫って見せてくれました。その方がなんとタンマイのお父様でした。奥から今度は息子が顔を出して来て自分は絵を描くのだ、と、大きな絵を何枚も見せてくれました。これは!っとビビッと感じました私は、そこで、小さい絵を描いてもらえないだろうかとお願いし、快諾いただき、後日、郵便で絵が送られてきました。後々分かってくるのですが、その後、お父様はオディシャ州の新空港の両端に置かれている巨大な石彫刻を作製され、タンマイも大壁画を描かれるなど、お二方共、地元では有名な実力あるアーティストだったのです。
そんな感じでお付き合いが始まりました。それからは、お互いの家に泊まって家族ぐるみで出掛けたり、お互いに困った時に助け合ったり、いろいろな経験を共有し、今に至っています。
椰子の葉エングレービングのカリチャラン氏は、タンマイが紹介してくれました。「若い頃は、賞を総なめにした素晴らしいアーティストで、彼を超える者はいない、と言われてきたが、息子さんをコブラに噛まれて亡くしてからは、失意で絵を描かなくなった」と紹介されました。家も暮らしもひどく質素でした。ブバネシュワールに行く時は彼の家にも訪れ、予算が許す限り購入し、日本のお客様の感想を伝え、描いてください、とお願いしてきました。あれから何年経ちましたか、少しづつペースが戻られ、差し上げた拡大ルーペ眼鏡が重宝していると言ってくださって、元気でいてくださるのが嬉しいです。
» 続きはこちらから
昭和38年に天然記念物に指定された大ヒノキは、「人々がちょんまげを結っていた頃に生まれた」と書いてありました。
みぃに年齢をきいてもらうと、「1550歳」だということでした。