竹下雅敏氏からの情報です。
注)以下、文中の赤字・太字はシャンティ・フーラによるものです。
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「大室寅之祐→明治天皇考」 07/1/31
本記事文章は現在公開を停止しております。 (2016/4/23)
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よく言われることですが、明治天皇の后なのだから、昭憲皇后が本当のはずです。それを皇太后と呼ばなければならなかったことからも、明治天皇が替え玉であったということの傍証となります。
さて、冒頭の記事にある通り、本物の孝明天皇と中山慶子との子・睦仁(祐宮)は、流産で死亡しているのです。写真にある初代裏天皇となった睦仁親王は、孝明天皇の子ではありません。この人物は、伏見宮貞教と鷹司積子との子を養子としてもらい受けたのです。この部分は、私の直観に依ります。明治天皇は、1852年に生まれたことになっており、2人が結婚したのが1855年なので、おそらくこの人物を養子としてもらい受ける間の3年間は、別の赤ちゃんを睦仁として育てていた可能性が高いと思います。冒頭の記事では、“誘拐して来た男児をすり替えて”とあります。鷹司積子が産んだ子供を、途中で入れ替えたのだと思います。そうすると、写真の人物(初代裏天皇)はおそらく3歳ほど年齢が若いと考えられ、実年齢は13歳ではないかと思います。
系図を見ると、こうした陰謀の中心に孝明天皇が居たことはもちろんですが、伏見宮家、鷹司家が重要な役割を果たしているのが見て取れます。この両家の中に八咫烏の12烏の中の2名が居ると考えるのは自然なことです。