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インドから愛と光と不条理を受け取って🇮🇳 6

 皆様、お久しぶりです。インドではもう皆マスクもせず、中流層の暮らしが日々豊かになっている光景を目の当たりにしています。*スピード感があります。ウクライナ情勢について周りの人に聞いても「アメリカが背後にいるから」と冷静に世界情勢を見ているようです。

 最近はインドの競争社会に疑問を抱く若者たちに、原点回帰でリトリートファームの様な場所を作ったりする流れも目立つようになっています。

 そんなある日「アリヤ ヴィハル アシュラム」というガンジス川源流ヒマラヤ中国国境付近にあるアシュラムを訪ねることができました。インドにはたくさんのアシュラムがあり、精神性を高めるため日々努力されている人たちが大勢います。
(王蘇麗)
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インドのアシュラムにてサーダナ(精神修行)を経験した12日間



Q.アシュラムとはなんですか?

A.サンスクリット語の語源はsrama=解脱のために努力する、です。
古代よりグルー(サンスクリット語で特定の知識や分野でのエキスパート・メンター)の下、自然の多い山の中に庵を構え、世俗的な事柄から離れ、シンプルな暮らしによって心身の健康を増し、瞑想によって完全な静寂を得て真の自己に目覚め、内なる自由を得るための場所、と言われています。ヨガ(アーサナ・呼吸・瞑想)はアシュラムに欠かせません。


Q.なぜこのアシュラムに行ったのですか?

A.私はインドの優良(波動の高い)商品をご紹介する仕事をしているのですが、ある時デリーのお祭りの頃に年に1度だけヒマラヤ方面から下りて来て、手作りの石鹸を販売する人々に出会いまして。背の高いブロンド髪のヨーロッパ人達が多く、全員白のクルタとパジャマ(インドの民族衣装)を着ているので、めちゃくちゃ目立つ訳です。
毎回インド人客に囲まれ大盛況で、もみくちゃにされながら購入して使ってみるととても良い。そこで、そのグループの石鹸リーダーのスウェ-デン人に「売らせて欲しいの」と声を掛けまして、お付き合いが始まったわけです。10年前くらいになりますでしょうか。

通常、仕入れ先の現場には真っ先に出向く主義ですが、ここのアシュラムは最低2週間は滞在しなくてはいけない等の制約も多く、現場に行く事が何故か叶わないままになっておりました。
今回、まとまった時間を確保し、ついに訪れることができました。


Q.どのような人がどのように暮らしているのですか?

A.アシュラムの住人は、「グル・シシャ・パランパラ」と言われる古代から面々と続くインド徒弟制に基づき、師匠と暮らしを共にして学んでいます。こちらのアシュラムでも、20人ほどの弟子たちがインフラも整っていないガンジス川の水流の聞こえる川辺の土地で、規律ある暮らしをされていました。千年以上インドで脈々と続いてきたアシュラムの現代版だと感じました。

500ml一気に飲んで覚醒しそうになった人から、気を付けて少しづつ飲むように言われたガンジス川

グルーのギリダール・アディティヤ氏は若い頃はインド海軍に所属し世界中を回っていたそうですが、20代半ばには、ガンジス川源流の中国とインドの国境付近のヒマラヤの麓に自分の庵を構えたそうです。40年近く師を知る地元の村人は、師が裸足でヒマラヤのジャングルの中に入ったまま何日も食べずに瞑想をして帰って来る事、真冬の極寒のガンジス川で一日に3回沐浴する事、等の数々の逸話を話して聞かせてくれました。

アシュラムでの1日は、朝4時半の起床で始まります。離れにあるシャワーを浴びに、暗闇の中を数分歩きます。(シャワールームも、宿舎も、ホールも全てがセルフビルドです。)自分達で山から拾ってきた薪でお湯を沸かしますので、シャワーのお湯も熱々でまろやかで、石鹸は極上の手作り石鹸です。その後は、ヨガと瞑想で、日の出と共に太陽に向かって感謝を捧げ、太陽のエネルギーを頭頂からいただきます。朝食は朝9時、食事への感謝の祈りの後、自家菜園で採れたお野菜などのべジフード。

カルマヨガと呼ばれる労働の時間は11時から16時の約5時間。持ち回りで、毎日異なる労働を行います。今回、私は薪拾いにガンジス川周辺や森を歩き、石鹸を大判手製のチーズカッタ―の様なものでひたすら切り、落ち葉拾いや、庭掃除、図書室の掃除もしました。

石鹸バーを丁寧に1個づつ切ります。
鉄線ワイヤーがすぐ切れるので取り換え道具も近くに置いています

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インドから愛と光と不条理を受け取って🇮🇳 5

 コロナ禍の2年間、日本は惨憺たる有様でしたが、世界各地におられる時事ブログのライターさんも激動に晒されていました。けれど皆さまそれぞれに、その地で天に託し、お祈りとともに力強く暮して来られました。
 はて、インドのあの方はどうされていることやら、、。

 そんなある日突然、初登場の時のようにスラリと現れた王蘇麗さん! 
お元気だ!
しかも迫真のレポートを携えて。
激変するインド社会の描写、ワクチンに誘導するものへの洞察、そしてその中で、ご自身はどのような生き方を選ばれたか。
ここにも強靭な精神と熱い隣人愛に満ちたライターさんがおられました。
(まのじ)
 皆様、長い間、ご無沙汰をいたしました。
 本来であればライターから抹消されて良いところを、まのじ編集長の愛とお慈悲で、ずっとアイコンを残していただいておりました。にも関わらず、ずっと投稿できずにおり申し訳ございませんでした。
(王蘇麗)
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新型コロナにより受けた大打撃


この2年間、インドで何をしていたのかと言いますと、嵐が収まるのを待ちつつ、できる事を粛々としておりました。主には、「生きるための仕事」と、「ワクチン様子見推進イベルメクチン普及自己流運動」に時間を使っていた気がします。

コロナでいろいろな意味で打撃を受けた方々は多いと思いますが、私も経済面での大打撃のド直撃をくらいました。私の仕事は、インド在住の日本人に対してのサービス事業ですが、その日本人がどんどん、あれよあれよという間に帰国されていきまして、デリー近郊で7,000人くらいいたとされる日本人が一時は500人か?との噂が流れたくらいで、収入は大激減しました。

にも関わらず、インドに住む外国人は最高率で課税されますので、コロナで収入が無くても、税金は労働ビザ取得最低条件の年収1,625,000ルピー(約250万円)の最高税率30%を納めないといけません。税だけで月額6万円に相当します。でも、不思議な事に、口座にお金が無くなりそうになるピンチ時に、なぜか注文が入る、というありがたい循環と、生活の仕方では極限まで安く暮らせる国でもありますため、なんとか生き延びる事ができました。


ただ、日増しに強まる接種圧力はあり、今年に入って、1月からデリー隣接のハリヤナ州は、ホテルやモールやの公共施設に入るには2度接種を条件に挙げだし、未接種の私はホテル内にある自分の職場にも入れなくなりました。友人のインド人教師も職場でワクチン義務、友人で博士号を取るために面接もワクチン義務、と生活の中でのワクチンマスト圧力は強まっています。

こちらは、この約2年間のインドの感染状況と1日の死亡率のグラフです。

インドの感染者数(M=1,000,000)

インドの1日の死者数(K=1,000)
出典:worldometers

日本で大ニュースになりました、昨年4月のインドの感染と死者数の爆発、その後一気に収束した背景については、このような見方もありました。

   ※NRI(海外在住インド人)

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インドから愛と光と不条理を受け取って💗 4


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インドにおける新型コロナウイルス感染状況



みなさま、お待たせしました。
怒涛の日々を送っていたらしい嵐を呼ぶ女、王蘇麗さん登場です。
まのじの「原稿をくれえ〜」という強力な念が通じたらしく、久しぶりのコンタクトですが、王さんの近況が実に興味深く、新型コロナよりもその話を、と言いたくなる気持ちをグッと抑えて、目下のインドにおける新型コロナウイルス感染状況をお伺いしました。

――お久しぶりです。お忙しかったですか?

女インドひとり起業サバイバル生活なもので、日々追われており、記事原稿も書けずに、間が空きすぎ、申し訳ございませんでした。定期便は無理かなぁ、と落ち込むところ、編集長のいつも優しいお言葉を掛けてくださる神対応に、勇気をいただきました。
夏以降、経営判断ミスが2件続き大きな出費を出し、今回のコロナでも売り上げ減少、先行き見えず、弱小零細会社が継続できるかどうか、今後の情勢次第で、怖いです。


――王さんの事業にも新型コロナの影響がはっきりと現れているのですね。
インド政府の支援策で何か目につくものはありますか。

  • インド準備銀行(中央銀行)のダス総裁が、1兆ルピー(約1.5兆円)を銀行部門に供給すると発言
  • モディ首相が、化学・肥料省のD.V.サダナンダ・ゴーダ大臣とのオンライン会議で、業界が必須医薬品、医療キット、機器の供給ラインを確実にするよう求め、1400億ルピー(約2000億円)
  • 3月17日、保健省連合は民間病理ラボによる検査許可を決定。政府のラボと同じく無料で検査を受けられるように要請
  • ウッタル・プラデーシュ州、パンジーブ州、テランガーナ州では、日当労働者への支援金が出されて、デリー、アーンドラ・プラッデーシュ州、カルナータカ州、ビハール州では、貧困層無料配給者の配給量を増やしています


――インドでの日常の生活に影響は出ていますか。

インドは2月までは通常モードでした。日本と比較すると、インドの方が安全、と思えるくらいでした。

受験生の息子が日本におりまして、社会人の娘と一緒に暮らしていましたが、多忙な娘に母親代わりさせるよりも、この状況下インドに呼び寄せた方が良いかな、と判断し、ビザ申請をさせました。

3月2日にビザ申請し、通常3日間くらいで発行されるので余裕を見て8日の成田→デリー便を押さえました。ところが3月に入ってからのインドの展開が早かったです。なんと翌日3日に、過去日本人に発給したすべてのインドビザが無効になり、新たなビザ申請も受け付けないとの通知が出ました。1日遅れていたら完全アウト。

その後もそう簡単ではなく、大使館が、インドに行く明確な理由を求めてきました。ちょうど、重いモノを運んだせいで私は腰をやられており、寝返りも起き上がるのも激痛が走る状況だったため、近くの整形外科病院の医師が家族のヘルプを求める手紙を書いてくれました。また、息子はインドの高校を卒業していますので、大使館のインド人職員と上手にコミュニケーションできるスキルがあり、おかげでビザの発行許可にはこぎつけました。

Author:ヌケイ314[CC BY-SA]
駐日インド大使館

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ぺりどっと通信48 サマータイム


 夏真っ盛りで猛暑日連発だとばかりに思っていたら、梅雨のような長雨が続きました。お陰で楽に過ごせましたね。
(ぺりどっと)
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今年の夏もなかなか暑かったようです。暑い日が続きますと、熱中症が気になるところです。ぺりどっと宅ではエアコンがありませんし、今後設置する予定もありませぬ。

今夏の暑さでぺりどっとが熱中症になる前に、時事ブログ編集の相棒であるノートパソコンの方が悲鳴をあげてしまいました。何時間もずっと編集作業などを続けていましたら、パソコン本体の温度が上がり過ぎてしまい、動作が非常に遅くなったり、ネットにもつながりにくくなりました。

ノートパソコンはデスクトップ型に比べて小さく、パーツ同士がより密接していて、そのため熱が内部にこもりやすく、熱暴走してしまうようです。これが過ぎると、電源が勝手に落ちたり、故障を起こしてしまうようです。

ぺりどっとは、ノートパソコン本体にモニターやキーボード、マウスなどを接続しまして、デスクトップPC本体のような使い方を自宅ではしてます。



こうすることで、自宅ではデスクトップパソコンのような快適さが手に入り、外出時にはデータの移し替えなどの手間なく、そのままノートパソコンだけ持ち出せるというわけです。

そのデスクトップ化したノートパソコンを持ち上げて下に空間を作り、そこに卓上型の小さなミニ扇風機で風を当てて空冷してあげると、とたんに熱が下がり不具合がなくなりました。ついでに、Wi-Fiルーターやノートパソコンのアダプターも一緒に冷ましてあげてます。これで、熱でウンウンと唸っていたぺりパソちゃんが完全復活♪

パソコンをひっくり返して風を当ててる図


さらに次の「お金をかけずにお金を使う方法」も併せるとより効果的なようです。


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インドから愛と光と不条理を受け取って💗 3

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今も生きているインドの伝統工芸



―― 今日は少し方向を変えまして、王さんの扱っておられる商品にスポットを当ててみたいと思います。
 シャンティ・フーラ・イベントでは、飛ぶように売れていたパシュミナ・ストールの他、最後までお客様がじっくり鑑賞されていた*オリッサ州の伝統絵画が目を引きました。
商品のことを伺うことは同時に王さんのお仕事を伺うことにもなりそうですね。
このような伝統工芸品を扱われて25年とのことですが、まず、どのようにして、この絵画と出会われたのですか。
( *オリッサ州は現在、オディッシャ州になっています)


飛行機の乗り越しをして(笑笑)インドに辿り着きましてから、インドの手工芸品が気になるようになり出しました。手織り布、手染め手刺繍、手彫りの木や石、火を使って一つ一つ仕上げる鉄・真鍮・銅、各州の手描き絵、それはそれは地域によってバラエティに富み、何とも言えない味わいがあったのです。

今でも、日常に、木箱の上に道具を乗せた靴修理職人や、路上に足踏みミシンを出した簡易仕立屋さんが至る所にいますが、昔ながらの製法で生活用品を作ったり直したりする作業を眺めながら、お喋りもして、チャイ(庶民が飲むミルクティ)を奢ったり奢られたり。作り手と繋がり接することができるというのは、なかなか良い感じで贅沢なことと感じました。

オーロビンドマーケットで靴修理屋を営む ウメーシュ(Umesh)さん


日本は機械製工業製品のどこの国の誰が作ったかも知らないままの大量消費で、使用後は断捨離と捨てられてしまうので、そんなスタイルに違和感も感じていたのだと思います。

日本の江戸期、機械製工業製品に押される前に、日本の素晴らしい手工芸が花開いていたように、イギリスに略奪支配される以前のインドも、高い品質の手工芸が発展していました。デリーの博物館には、古い手工芸の圧巻の技術レベルの高さと美しさを見せつけてくれる作品が数多くあり、いつも感動をもらえます。
日本では、手工芸家を訪ねるのは敷居が高いのですが、インドは未だたくさんの手工芸家と職人がいますので、そしてインド人はとてもフレンドリーなので、彼らと交流するのが楽しくなり、深みにハマっていきました。

そもそも手工芸家人口は農業人口の次に多いと言われていますのに、中国から安価な生活用品は続々と大量に入り続けていますので、この数十年でも、手編みのバスケットや箒はプラスティックになり、手打ちの鍋も機械製になり、手織りの布の服もジーンズとTシャツになり、と、手工芸家の未来はどんどん暗くなるばかりです。中には「インドの首都に行けば売れるのではないか!?」の切羽詰まった思いを秘めた手工芸家が、地方の役所や機関から支援金をもらったりの工面をして、3等列車で4-5日掛けてデリーにやって来たりします(現実的には、売り先を見つけるのはそうそう簡単ではありません)。

彼らが集まるスポットや小さなイベントがあるのを聞きつけると、私は足しげく通いまして、優秀で人柄の良い手工芸家を探すわけです。もちろん、インド手工芸フィールドの友人達とのネットワークもありますので、一緒にインドの各地域に旅をして、デリー以外の地域で出会えた手工芸家も多いです。

オディシャ州の画家のタンマイとは、デリーの小さな屋外展示場でこうして知り合いました。かつて見た事ない繊細な石彫刻品に驚きうっとりしていましたら、恰幅で温和なおじさまが自分で作ったと、目の前でフリーハンドで彫って見せてくれました。その方がなんとタンマイのお父様でした。奥から今度は息子が顔を出して来て自分は絵を描くのだ、と、大きな絵を何枚も見せてくれました。これは!っとビビッと感じました私は、そこで、小さい絵を描いてもらえないだろうかとお願いし、快諾いただき、後日、郵便で絵が送られてきました。後々分かってくるのですが、その後、お父様はオディシャ州の新空港の両端に置かれている巨大な石彫刻を作製され、タンマイも大壁画を描かれるなど、お二方共、地元では有名な実力あるアーティストだったのです。


そんな感じでお付き合いが始まりました。それからは、お互いの家に泊まって家族ぐるみで出掛けたり、お互いに困った時に助け合ったり、いろいろな経験を共有し、今に至っています。
椰子の葉エングレービングのカリチャラン氏は、タンマイが紹介してくれました。「若い頃は、賞を総なめにした素晴らしいアーティストで、彼を超える者はいない、と言われてきたが、息子さんをコブラに噛まれて亡くしてからは、失意で絵を描かなくなった」と紹介されました。家も暮らしもひどく質素でした。ブバネシュワールに行く時は彼の家にも訪れ、予算が許す限り購入し、日本のお客様の感想を伝え、描いてください、とお願いしてきました。あれから何年経ちましたか、少しづつペースが戻られ、差し上げた拡大ルーペ眼鏡が重宝していると言ってくださって、元気でいてくださるのが嬉しいです。


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