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ユダヤ問題のポイント(近・現代編) ― 第20話 ― お伽の世界

 トランプ大統領が遂に「シリアからの米軍の退去」を言明しました。幸いにもシオニストたちによるシリアの侵略戦争が失敗、ようやく終結の時を迎えられそうです。
 2000年時点で、中東にて同じアラブの同朋として大量難民のパレスチナの支援を実行していた国家はイラン、シリア、イラクとなっていました。他の中東国家はシオニスト側に寝返ってしまっていたのです。
 更に15年前、イラクの破壊によってシオニストに同調しない国家はイランとシリアのみとなり、両国はシオニストから常に攻撃の対象とされてきました。「悪の独裁者アサドへの民主化を求めるシリア国内の内戦」との欧米日マスコミのプロパガンダが喧伝され、激しい侵略戦争の攻撃をシリアが受け始めたのが2011年からでした。もしこの侵略戦争でシリアが倒されていたら・・・。
 1991年の湾岸戦争時、私はサダム・フセインが極悪だと思い込んでいました。油まみれの真っ黒になった水鳥の映像が強烈だったのです。映像による印象操作です。
 私たちは気づかないうちに常時洗脳攻撃を受けています。多くの人はテレビであからさまな「侵略攻撃」を「内戦」と常に報道されていたら「内戦」だと「思い込み」、それに従った思考と行動を無自覚にとってしまいます。実際は自分の「思い込み」でなく支配層にテレビを使い「思い込まされている」のに関わらず、その考えが自分の考えだと思ってしまっているのです。
 このように、支配層はマスコミや教育等を通して事実を改竄やねつ造して、自分に都合の良い「仮想現実」を大衆に押しつけて「現実」と思い込ませます。いわば大衆をお伽の世界をさまよう夢遊病者へと仕立てているのです。
 私たちは夢から覚め自立した判断と行動をとる必要があります。そのために「この自分の考えとしている想念は本当に自分のものか? 外から植え付けられたもでないのか?」のチェックはすべきでしょう。
(seiryuu)
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ユダヤ問題のポイント(近・現代編) ― 第20話 ― お伽の世界


消えたスファラディ血統ユダヤ人の行方


pixabay [CC0]


1666年にメシアを名乗り非常に多数のユダヤ人信者を獲得したサバタイ・ツヴィはユダヤの父祖アブラハムの血統です。サバタイはイスラムに改宗しますが本来なら大変なこの裏切りをサバタイとナタンは改宗が「偽装」であり、それは「イスラム帝国という巨大な悪魔・敵を打ち倒すため、イスラムに成りすましその内部から破壊するためだ。」としたのでした。

そのサバタイ直系の有色血統ユダヤの弟子団がドンメーです。ドンメーの行動原理はサバタイに倣いイスラムへの「成りすまし」でイスラム世界を内部から破壊し「内部乗っ取り」することです。この行動原理に従いドンメーのムスタファ・ケマルたちは、オスマンーイスラム帝国を内部から破壊し「乗っ取り」トルコ共和国を設立したのです。また、イスラムの権威に「成りすまし」、長年にわたりイスラム世界を攻撃破壊しながらサウジアラビアを建国した有色アラブ人のサウード・ワハビ家、この正体も前回見てきたようにどう見てもドンメーなのです。

サウード・ワハビ家がドンメーということはアブラハムの血統となります。旧約の「約束の地」、もともとのユダヤ国家があった場所は、明らかにアシール地方でサウジアラビアの領土です。となると「アブラハムの子孫にこの地を与える」との旧約の一節はすでに幾度も果たされていたことになります。最終的には1925年にサウード・ワハビ家がハーシム家のヒジャーズ王国を滅亡させアラビア半島で覇権を確立した時点において、です。トルコを支配していたのも血統ユダヤ人ですから、中東の大国を血統ユダヤ人が既に支配していたわけです。

さてここである事実が・・・。現在ユダヤ人全体の9割がアシュケナジつまりハザール由来、残りの約1割がスファラディで血統ユダヤ人とされます。血統ユダヤ人の割合が余りに少ないので彼らはどこに消えたのか?が、このシリーズを始めた頃の私の疑問でした。血統12氏族のうち10氏族は消えているから血統ユダヤ人の割合が少ないのも分かりますが、それでも少なすぎると感じていたのです。

pixabay [CC0] 1 & 2 & Author:William Henry Irvine Shakespear [Public Domain]


今、歴史の中に見えなくなった血統ユダヤ人、その彼らの中でのかなりの勢力が、サバタイに倣いイスラムに偽装し中東の地に潜っている事実が浮かび上がっています。その彼らの現地での活動とは? ダーイッシュとアルカイダは本質同一のテロ集団で、櫻井ジャーナルではアルカイダとはベース(基地)との意味だが、実は「CIAやモサドと協力できる現地工作員のデータベースである」と繰り返し指摘しています。

となるとそのデータベースの元になる資料もあるはずです。それは? ふと「ドンメーの名簿では?」との想念がよぎり少し戦慄しました。単なる思いつきですが可能性はあります。テロ集団はドンメーが王のサウジから出てきているのですから。正統ユダヤ教つまりユダヤ人であることを捨て、中東の地に潜った血統ユダヤ人たち、その中の少数者は王族そして支配層となりますが、他のまとまった人数はテロ集団の一員になっている可能性は確かにあるのです。これがある一定勢力の血統ユダヤ人の長い長い放浪の末路だとすると・・・。

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ユダヤ問題のポイント(近・現代編) ― 第19話 ― 2002年イラク諜報機関レポート

 今から15年前、2003年3月20日、米国がイラクのバグダットにいきなり一方的にミサイルをぶち込み空爆し、衆人注視のもと「イラク戦争」という名前の「イラク人大虐殺」と大略奪を敢行しました。この国家大犯罪は現在も終了していません。イラクの無数の人々が殺害され、癒えない傷を負わされ、町を破壊され生活権を奪われています。イラクの極悪独裁者サダム・フセインが「大量破壊兵器」を所持しているとの虚偽でっち上げの言いがかりによる凶行です。それまでイラクが国連の査察に応じルールを遵守していたにもかかわらず、です。
 侵略者がバグダットを陥落させ最初に行ったこと、それはバグダット宮殿占拠とイラク国立博物館を押さえることでした。彼ら侵略者は、イラク国立博物館を破壊し、納めてあった貴重な歴史文化財を盗み出します。なぜ侵略者が何を差し置いてでも博物館を押さえたのか? 竹下さんは映像配信のどこかで「このイラク侵攻が始まる前にサダム・フセインが「これで、奴等も終わりだ。」と語っており、その意味はイスラエルの元々あった場所はパレスチナではなく、アラビアのアシール地方であったこと、その事実をフセインが掴んでおり、その証拠がイラク国立博物館に残されていたのではないか」とされていました。つまり証拠隠滅のため博物館を破壊し、文化財を運び出したという見立てです。
 これは事実でしょう。サダム・フセインのいう「奴等」とは誰か? 当時イスラムーアラブ世界の一員として、イラクが闘っていたのはイスラエルです。サダム・フセインの指す「奴等」とはイスラエルであり、同時に中東でイスラエルと同盟を組むサウジアラビアとトルコのはずです。そしてその後ろ盾となっている米英です。一口で言えばシオニストです。
 シオニストの主張するイスラエルが、パレスチナを占拠できうる根拠は、旧約聖書の中に出てくる「神がアブラハムを祝福しその子孫にこの地を与えることにした」との一節のみです。常識的には、こんな屁理屈が根拠になり得ないのは明白ではあります。しかしそのシオニストの主張である「約束の地」がパレスチナではなくアシール地方であるなら、シオニストの主張するパレスチナ占拠の根拠さえもが完全に崩壊です。証拠隠滅をシオニストが図るわけです。
 そして実はそれ以外にも、シオニストがその隠蔽を絶対に何としても実行せねばならない事実が、もう一つあると私は見ています。それはイスラエルと中東の地にて同盟を組むサウジアラビアとトルコの正体、とりわけサウジの王族サウード・ワハビ家の正体です。
(seiryuu)
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ユダヤ問題のポイント(近・現代編) ― 第19話 ― 2002年イラク諜報機関レポート

サダム・フセインの諜報機関


米国に騙され、クエートに侵攻し、湾岸戦争で大ダメージを負わされたサダム・フセインのイラク。イラクは湾岸戦争後も次々と経済制裁等を負わされ、国家は疲弊衰退します。一方、建国以来中東戦争に次々と勝利したイスラエルは、中東で我が物顔に振る舞い、中東での同盟国のサウジアラビアとトルコも繁栄。


こういった状況の国家存亡の危機に、サダム・フセインは起死回生の一手を模索、特に米国に騙された苦い経験から、麾下の諜報機関に敵側の弱点発見を厳命したであろうことは想像に難くありません。そしてそれは見つかったようです。サダム・フセインから「これで奴等も終わりだ。」と言葉が漏れた報告が。サウジアラビアとトルコの正体を明かす報告です。

2002年サダム・フセイン政権下でイラク諜報機関がレポートを作成、それを米・国防省が公表したとの情報があります。情報の発信は2011年8月2日に独立史家デイビッド・リビングストン氏によりなされ、その要点の短縮和訳文が同年の8月4日「阿修羅掲示板」に投稿者ABCD氏にて以下のように投稿されています。
サウジ・アラビア王室を中心にしたワハビ派(サラフィス)は反・イスラム勢力である、という。

ワハビ派はイスラム教のサブ・グループとされるが、元は18世紀、英国のエージェントであったアブドル・ワハビが始めたカルトであった。オットーマン帝国時代(19世紀)は弾圧されたが、英国のアシストもあり、1932年、サウジを建国。それ以来、親米であり、イスラム原理主義過激派をそだててきた。アメリカの代理として、ソ連とアフガン戦争をした。

アブドル・ワハビとそのスポンサーであったイブン・サウッドが(隠れ)ユダヤ人であった可能性が出てきた。

トルコのドンメ―・ユダヤの出。ドンメ―・ユダヤは悪名高い偽メシヤ、シャベッタイ・ゼビの信者・その末裔
だ。ゼビは1666年、ユダヤからイスラムに回心(隠れユダヤ)している。

ヨーロッパでは、一世紀後、ゼビの生まれ変わりとされたヤコブ・フランクが主導者となり、このシャベッタィアンの中にロスチャイルドもいた。

ドンメ―はサロニカ市で活発で、これはフリーメーソンのホット・ベットと重なる。後のヤング・トルコ運動。

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ユダヤ問題のポイント(近・現代編) ― 第18話 ― サウード・ワハビ家

 2016年夏、トルコでトルコ軍の一部によるクーデター騒ぎがありました。トルコのエルドアン大統領が身柄拘束もしくは殺害、その直前にエルドアン大統領にプーチン大統領から知らせがあり、クーデターはすんでのところで未遂に終わりました。そしてこのクーデターに対する大粛正を行った結果、国際的には窮地にも陥ったエルドアンに、プーチンが援助の手をさしのべました。これにより、それまで敵対関係にあったトルコとロシアの関係は変化改善して、トルコはロシアの傘下に入ったように見えました。トルコは本来イスラエルの兄弟国で同盟関係にあるはず、しかし現在の状況は微妙ですが、少なくとも同盟関係では無くなっているように見えます。
 このトルコの立ち位置の変化は、中東そして世界情勢に大きな影響があったはずです。エルドアンは多分オスマン帝国の復活とカリフの座につく野望があり、現在もその野望を捨てていないように見えますが、これは「トルコの父」ムスタファ・ケマルの意志に反します。一連のクーデター騒ぎは、前回見たようにトルコが軍を中心にドンメー即ちサバタイ-フランキストにより支配される国家であったことが大きく関わっているでしょう。
 さて、こう見てくると中東でイスラムを名乗りながらもイスラエルと同盟関係にあるサウジアラビアが、いかなる国家であるのか?が気になります。サウジはアラブの盟主を自認し、イスラムのスンニ派を名乗って中東のイスラム世界に大きな影響をあたえています。しかし反面サウジはイスラエルと同盟を組み、テロ組織アルカイダやダーイッシュと関わりが非常に深く、各種の報告にてこれらのテロ組織の支援を行って来たことが明かされています。このまるで掴み所が無くジョーカーのような国、サウジアラビアを今回は追います。
(seiryuu)
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ユダヤ問題のポイント(近・現代編) ― 第18話 ― サウード・ワハビ家

スンニ派とシーア派の闘争?


私たち日本人はイスラム世界と縁が遠く、その宗教や生活の実態は知りません。私たちは欧米のニュースを通してイスラムを知らされ、そのイメージ付けをされてしまっています。私たちは流されるニュースを通して、イスラムに対し「イスラム教徒とは随分熱心だなー!」と思う反面、「なんとなく野蛮そうで怖い。」「何かずっと争っている。」「同じイスラムでも宗派間で流血や殺人まで至る激しい闘争がある」。このようなイメージを抱いているのではないでしょうか?

イスラムは生活に密着しており、単なる宗教思想ではないのですが、大まかには二派に分かれます。スンニ派とシーア派です。イスラム全体の約8割がスンニ派、1割強がシーア派とされます。中東でのスンニ派の代表国とされるのがサウジアラビアで、シーア派の代表国がイランです。スンニ派とシーア派、この両派が激しく抗争しているように私たちは思わされていますが、ある意味では正解であり、同時に全くの間違いでもあるようです。


イスラムで両派が分かれたのは632年の預言者ムハンマドの死に遡ります。ムハンマドの後継者の最高宗教指導者カリフ、この選出は血のつながりでは無く皆の合意、特に「スンナ(慣行)」を重視すべきとしたのがスンニ派です。一方、カリフはムハンマドの娘婿で従兄弟、血の繋がったアリーとその子孫から選ぶべきだ、「シーア・アリー(アリーに従え)」と考えた人たちがシーア派を構成したようです。従ってスンニ派とシーア派の相違は、本質的に預言者ムハンマドの後継者に対する考え方だけで、宗教教義上の相違があるわけではないのです。お祈りの作法や回数に少し違いがあるようですが、スンニ派であろうがシーア派であろうが、同じイスラム教を信奉していることに変わりがありません。おまけに後継者争いがあったのは1400年近く前の話です。これで現在も宗教上の理由でスンニ派とシーア派が流血の争い、ましてや死者を出すほどの抗争がおきるはずがありません。実際イラクでは、スンニ派もシーア派の人々もいますが互いに交流し結婚もしているようです。当然といえば当然です。

しかし反面スンニ派とされる勢力とシーア派勢力の争いがあるのも事実です。国家としてサウジとイランの争いがあります。この抗争は宗教ではなく、経済や国家の姿勢によるものでしょうが、有り体に言えば、これも欧米というか偽ユダヤの思惑で「創られた抗争」です。そして中東での抗争の実行犯がサウジなのです。サウジはスンニ派を名乗っています。しかしこれは大いに疑問があります。政教一致国サウジの国教はイスラム原理主義のワッハーブ派です。「預言者ムハンマドの時代に戻れ」と叫び、それ以外の一切を認めない過激で排他的な宗派です。排他的なワッハーブ派は、とてもではありませんが、後継者選びに皆の合意を大切にしたスンニ派には見えないのです。

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ユダヤ問題のポイント(近・現代編) ― 第17話 ― サバタイ・ツヴィの遺伝子

 本文冒頭の動画、7分程度なので是非ご視聴下さい。時間が無い方は最初の5分過ぎまででも結構です。この動画は歴史家クリストファー・ジョン・ビャークネス氏の「アルメニア人大虐殺」を主題とするインタビュー記事で、その6分割した最初部分です。
 ここには短い動画であるにも関わらず、極めて重要、そして驚愕の情報が語られています。語られている内容が真実であることはビャークネス氏の持つ資料もありますが、それよりビャークネス氏の物腰態度から見ても明瞭だと感じます。落ち着いた静かな口調の中にも確固たる揺るぎない自信そして確信が伝わってきます。語る内容があやふやであったり、ましてや虚偽を語るとき、あのような態度にはならないものです。 ビャークネス氏はこの動画で、「アルメニア人大虐殺」はロンドンタイムズ紙特派員のレポートから、1911年時点から既に始まっており、しかもその実行者がトルコ人では無かったこと、また「青年トルコ人革命」もトルコ人による革命では無かった事実が、オスマン帝国の英国大使館から英国外務省に伝えられていたことを指摘し、その犯人は誰かを明かしています。
 そしてもう一点。これこそが驚愕の情報となるのですが、世界史の意味においても極めて重要といえる人物、その人物の出自が明かされています。

追記: 貴重な動画の削除、残念でした。ビャークネス氏の分割された動画全てが削除されています。シャンティー・フーラでの公開するやいなやの早さでした。
 ただ、予想もしていました。この動画を発見した当初から、私は動画の削除を懸念していたのです。それだけ支配層には知られては大変まずい、そして私たちにとっては重要で貴重な内容だった、ということでしょう。そして慌てて削除したことから、動画の内容の信憑性が高まったように思います。
 即ちオスマン帝国を破壊し、アルメニア人大虐殺を敢行したのが、イスラムの仮面を被った正統ユダヤ教を捨てた血統ユダヤ人集団、ドンメーであることは当然として、英雄にしてトルコの父であるムスタファ・ケマル・アタチュルクがサバタイの子孫であることを、です。
 幸い動画の文字起こしを一言一句まで正確に編集者さんがされておられますので、是非ご一読を。

編集より再追記: 13:45現在、再生可能にしております。
(seiryuu)
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ユダヤ問題のポイント(近・現代編) ― 第17話 ― サバタイ・ツヴィの遺伝子

隠れユダヤ人がパレスチナを奪うためにオスマン帝国を打倒した?1/6 Crypto Jews, Donmeh
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ドンメ-、クリプト・ユダヤ人の本拠サロニカ



ご視聴頂いたとおり、分割されたこの動画の第1のポイントは、続きの動画の中で詳しく語られていますが、「青年トルコ人」組織の正体はユダヤ人というかドンメーだったということです。ドンメーとは外伝1で紹介したサバタイ・ツヴィ直系の弟子団であり、その中で最凶最大の偽装イスラム改宗団です。スファラディつまり有色の血統ユダヤ人集団です。彼らの本拠がサロニカにあり、そこに追放されたスルタンのアブデュル・ハミド2世は幽閉されたのです。

サロニカについて少し説明が必要でしょう。血統ユダヤ人がなぜスファラディック・ユダヤ、つまりスペインのユダヤ人と呼ばれるようになったのか? 祖国を失った血統ユダヤ人の多くがスペインに流れてきたのです。スペインの地はイスラムが統治しており、最高宗教指導者カリフがいました。イスラムは特にユダヤ教徒キリスト教徒に寛容だったのです。

イスラムが統治したスペインは、その頃文化水準で欧州トップでした。しかしやがてキリスト教勢力がスペインを奪還し、スペインで15世紀末から宗教審判が開始されます。ユダヤ人の大受難です。そこでユダヤ人たちは難を逃れるため、イスラムのオスマン帝国内各地に逃れてきていたのです。オスマン帝国の中でも最もユダヤ人が多く住居する都市がサロニカでした。ユダヤ人街となっていたのです。隠れユダヤ、秘密のユダヤとも呼ばれるドンメーの本拠もここサロニカにあったのです。

ドンメ-はクリプト・ユダヤ人とも呼ばれます。これは意味としてピッタリです。クリプトとは地下聖堂との意味があり、ここから聖堂の地下に潜り込んだユダヤ人を表します。人目につかない聖堂の地下で何が行われるか? 乱交、飲血、儀式殺人などの悪魔儀式と相場は決まっています。アブデュル・ハミド2世がヘルツルとの交渉を蹴ってパレスチナの割譲を拒絶して以来、このサロニカでドンメー集団によってオスマン帝国の破壊計画が本格的に練られていきます。そして遂に1908年にドンメー集団によって「青年トルコ人革命」が引き起こされ、引き続き彼らの手によって1911年から始まった「アルメニア人大虐殺」は1915年に本格化し、陰惨な大惨事となります。

青年トルコ、つまりドンメーの機関誌がフランキズムの総本山ブナイ・ブリスによって運営されていることなどから明らかなように、サバタイ直系の偽装イスラム改宗団ドンメーと偽装ユダヤ教・キリスト教のフランキストは既に一体です。文字通りのサバタイ-フランキストです。従って青年トルコの革命はサバタイ-フランキスト革命です。「アルメニア人大虐殺」の犯人ももちろんドンメーでありサバタイ-フランキストです。

この構図はその後ロシアで展開された破壊劇と全く同様です。1917年引き起こされた11月革命とそれに続き1933年に起こされたホロドモールの惨劇です。オスマンのドンメーがプロトタイプになっているともいえそうです。全てサバタイ-フランキストによって起こされたものです。サバタイ-フランキストの手による破壊工作は米国、ロシア、オスマン帝国で同時進行にて進められていたわけです。

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ユダヤ問題のポイント(近・現代編) ― 第16話 ― オスマン帝国滅亡!引き起こされた惨劇

 2016年6月3日に世界の各メディアで「ドイツ連邦議会がアルメニア人の大量虐殺を認定」を見出しとするニュースが飛び交いました。ハフポストでは「ドイツ連邦議会は6月2日、1915年に起きたオスマン帝国によるアルメニア人の大量殺人を大虐殺と認定する決議を行った。決議を受けて、トルコは6月2日に同国の在ドイツ大使を召還した。この決議では、第一次世界大戦中にオスマン帝国と同盟関係にあり、当時150万人いたとみられるアルメニア人の大量虐殺を防止できなかったドイツも非難されている。」との切り出しで報じています。
 1908年の青年トルコ人革命でオスマン・イスラム帝国は全く変質しました。変質したオスマン帝国の青年トルコ政権下で民族迫害の極めつけであるアルメニア人大虐殺は敢行されたのです。オスマン帝国が滅亡しトルコ共和国が建国される過程で引き起こされた惨劇です。イスラエル建国の絶対前提となったのが、オスマン帝国滅亡と解体そしてトルコ共和国設立です。この過程の主たる事実を今回は追います
(seiryuu)
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ユダヤ問題のポイント(近・現代編) ― 第16話 ― オスマン帝国滅亡!引き起こされた惨劇

惨劇アルメニア人大虐殺



ハフポストは「「アルメニア人の迫害」とは」(閲覧注意:遺体写真が掲載されています)として次のように説明しています。
アルメニア人の大量迫害は20世紀初め、オスマン帝国が崩壊し、現在のトルコ共和国が成立する時期に起きた。第1次世界大戦中の1915年4月、オスマン帝国の首都だったイスタンブールで、アルメニア人の知識人らが連行された。これを皮切りに「アルメニア人は敵国ロシアに内通している」として、オスマン帝国が強制移住などの措置をとり、大量の犠牲者が相次いだとされる。アルメニア人はキリスト教徒で、当時オスマン帝国内に多数居住していた。アルメニア側は「犠牲者は約150万人」と主張しているが、トルコ側は「30万~50万人程度」で、戦時下の悲劇だとして組織的な虐殺はなかったと主張している。

当時キリスト教徒アルメニア人は、オスマン帝国内では隣国ロシアとの戦闘地域となったアナトリア東部に多く居住していました。近くには世界最古の大油田バクー油田があります。複数の情報から1915年から1916年にかけてオスマン軍はアルメニア人から水や食料等を取り上げ、着の身着のままでシリアの砂漠の町デリゾールへの死の行進を強制したとされます。赤ん坊から妊婦や老人まで老若男女を問わず、アルメニア人という理由だけで死の行進を強制された陰惨な凶行です。犠牲者と生き残った家族の証言もありますが、レイプとリンチは当然ながら日常だったでしょう。

エンヴェル・パシャ [Public Domain]


タラート・パシャ [Public Domain]


このアルメニア人大虐殺はエンヴェル・パシャが提案しタラート・パシャが指令した模様です。犠牲者の数はアルメニア側とトルコ側で大きく差がありますが、徒歩で寒冷地の乾燥した山地を越えてシリアの砂漠へと向かうのです。飢餓と寒さで多数のアルメニア人が命を落としたことは間違いなく、トルコ共和国もそれは否定していません。この常軌を逸した国家を挙げた凶行がなぜ実行されたのか?「敵国ロシアと内通していた」という理由では説明がつきません。何しろ犠牲者はアルメニア側の主張では150万人、トルコ側の主張でさえも30万~50万人です。この大集団をオスマン軍が監視しながら移動させているのです。当時戦争中です。それにも関わらず貴重な軍の兵力を割いての凶行です。余りにも常軌を逸しているので常識的物理的な説明がつかないのです。

この狂気の陰惨な凶行はオカルト的な意味があったのでは?と考えてしまいます。また、やや常識的な説として「バクー油田の権益を守るため」があります。この説に触れる余裕はありませんが、理由としてこれはあるかもしれません。ともあれ青年トルコ政権とは狂気に満ちた政権であり、このような政権では戦争に敗退していくのも当然のことであったように思えます。

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