明治維新の牽引者 〜南紀派と一橋派の争い
明治維新の最功労者は徳川慶喜。こう記すと「まさか!?」と驚かれるかも知れません。私自身もそのような情報に接した時「え!?」となりました。
私達には明治維新は”薩長VS徳川幕府”、この構図が刷り込まれています。それで私の中にも維新の流れを見ると、「徳川は随分あっさりと身を引いたものだな」との感はあっても、「
徳川自身が明治維新を進めた」、こういった言葉が存在していなかったからです。
ただし事実として、徳川最後の将軍
徳川慶喜はあっさりと「大政奉還」を宣言し、鳥羽・伏見の戦いでは部下を置き去りにし
敵前逃亡、その後江戸城を開城しているのです。
この慶喜の行動で速やかに維新は成立していったのです。
鳥羽・伏見の戦いでは、外国勢力は抜きにして薩長軍と幕府軍のみを比較したら、全体の兵力は幕府軍が圧倒していたのです。ところが司令塔が不在になり、幕府軍は敗退するのです。将軍慶喜の存在なくしてあのような明治維新は無かったのです。
さて、このような情報を与えてくれたのがリンパ球バンク株式会社の「
表に出始めた明治維新の真実 ~総集編」という記事です。少し長いですが文章は巧みで、全文読まれたら良いかと思います。「どうかな??」と思える部分はありますが、概ねは記述されていることに間違いはないと思います。
この目次の中に「
討幕の英雄三傑、慶喜将軍、勝海舟、榎本武揚のその後」とあります。薩長VS徳川幕府の視点ではなく、
倒幕の英傑を慶喜将軍、勝海舟、榎本武揚の三名としているのです。
明治維新を牽引したのはむしろ徳川内部からの勢力だったという視点です。
この記事では
「倒幕派の重鎮」としてまず
水戸徳川、そして島津斉彬(薩摩)、山内容堂(土佐)、松平春嶽(福井)の名を挙げています。ここで挙げられている
「討幕派の重鎮」メンバーは、「倒幕派」というよりは全体的には「一橋派」とした方が正確で無難かな?とは思えるのですが、幕末に将軍の後継者問題が勃発し「南紀派」と「一橋派」の争いがあったのです。
歌川広景筆 『青物魚軍勢大合戦之図』
編集者註:将軍継嗣問題(一橋派 vs 南紀派)を風刺した幕末の浮世絵。蛸は水戸名産で「徳川斉昭」、藤顔(冬瓜)は「井伊直弼」。詳細は
こちら。
簡単には血統を重視する保守派が「南紀派」、一方の
能力主義の根本改革派が「一橋派」です。
「一橋派」が推していたのが英名と評判の
「一橋慶喜」、後の徳川慶喜です。しかしこの争いは「南紀派」が勝利します。
この流れの中で大老に就任していた
井伊直弼は日米修好通商条約に調印し、それに激昂する
水戸徳川などに対して「安政の大獄」を断行します。井伊直弼の行為は大老として徳川幕府の権威を守り回復し、外国勢力と正常に対処していくためのものだったと見受けられます。
しかし
この井伊直弼は程なくして凶刃に倒れます。「桜田門外の変」です。脱藩水戸浪士グループに大老が惨殺され、幕府の権威は完全失墜したのです。
そして
この後は「一橋派」が日本国内を牽引していくのです。
即ち「一橋派」が維新の主要メンバーとなるのです。
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時の政権におもねる日本のマスコミに対し、韓国では政権の介入を拒否してジャーナリズムの矜持を保った経験があり、これだけでも日本はかなり恥ずかしい立場です。朝から晩まで嫌韓にうつつを抜かし、バランサーとなるまともな報道は無いのか?と思ったら、ありました。沖縄に旅行に来ていた韓国人の男性消防官2人が、意識不明で突然倒れた人を救助したというものです。この2人は那覇市消防局の感謝状を受け取って下さるそうで嬉しいことでした。
沖縄タイムスのささやかな記事ですが、今、この時期に稚拙なイメージ操作に乗らず、こうした記事を載せることの意義は大きいと思います。