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ユダヤ問題のポイント(近・現代編) ― 外伝76 ― ロックフェラーの野望の具現化
ペトロダラー・システム
1971年8月、ニクソン(ドル)・ショックにてドルと金との兌換放棄によって固定為替相場制を停止。1973年、変動為替相場制に移行したところで10月に第1次オイルショックを創出、これにて膨大なオイルマネーも生み出されます。
こうしたところで、1974年にヘンリー・キッシンジャーはニクソン大統領を伴い、サウジアラビアの首都リヤドを訪問。キッシンジャーはサウジのファハド皇太子と会談し、「ワシントン・リヤド密約」と呼ばれる協定を交わしました。
これについてはウィキペディアの「オイルマネー」記事の中で以下のように記されています。
1974年、財政赤字とドル防衛が問題化していたアメリカ合衆国のリチャード・ニクソン大統領とヘンリー・キッシンジャー国務長官がサウジアラビアを訪問してファイサル国王やファハド・ビン=アブドゥルアズィーズ第二副首相兼内相との会談でドル建て決済で原油を安定的に供給することと引き換えに安全保障を提供する協定(ワシントン・リヤド密約)を交わした。
サウジが全ての石油取引決済をドル建てで行なう一方、その見返りとして米国はサウジの安全保障を確約するのが「ワシントン・リヤド密約」の内容ですが、同様の協定をキッシンジャーは次々とアラブOPEC諸国と結び、OPECがドル以外の通貨では石油を世界に売らないことになります。これにて米国の戦力を背景とした石油本位制ドルの「ペトロダラー・システム」が構築されたのです。
それによってどうなったかは、「オイルマネー」記事のつづきの以下です。
これにより、第四次中東戦争の禁輸で高値となっていた石油を輸出することが可能になって多額のドルが流入するようになった。国内への資本投下や財政支出などに用いられたが、使途が見つからなかった余剰資金が国際短期金融市場に流入することになった。この頃から、国際金融界において突如現れた産油国資本へ注目が集まるようになった。オイルマネーはユーロカレンシー市場を経由してほとんどがアメリカの金融市場へ流入していた。当初、流動性の高い短期資金であったが次第に運用結果を重視するようになった。
ペトロダラー・システム
Author:Maplab-logo.svg [CC BY-SA]
「ペトロダラー・システム」は世界を投機カジノ市場へと移行させ、米国はこの巨大な投機カジノ市場の中心地となったのです。
♻ 「ペトロダラー・システム」によって「無から信用創造されたドル」が「無尽蔵」に作られていきます。
♻ 一方で非産油国や新興国は高値で石油を購入せねばならず、そこに「無から無尽蔵に作られたドル」がIMFなどを通じ貸付され、それらの国家は産油国からその高利のドルで石油を購入します。
♻ 産油国に流れた膨大なドルは米国債購入や投機、そして兵器の購入などで米国に還流されます。
無論のこと、無尽蔵に作られるドルは米国政府の借金によるものです。天文学的な米国の借金によるドルが世界を駆け巡り、世界をカジノ市場にして、弱小国を初めとする世界民衆から富を収奪していきます。これが「ペトロダラー・システム」であり、これによって暴利を貪るものは初めから決まっていました。
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デイヴィッド・ロックフェラーは、兄を殺害してロックフェラー家当主の座についたと記憶します。この非常に獰猛な男が世界に向けてその野望の牙をむき出し、あからさまに目に見える行動に打って出たのは、彼がチェース・マンハッタン銀行の最高経営責任者(CEO)となった1969年からと言えるでしょう。ちょうどニクソン政権と重なります。
ニクソン政権を、ホワイトハウスを仕切ったのはヘンリー・キッシンジャーです。ロックフェラーは、このキッシンジャーを明らかに使用人扱いしています。つまり、ニクソン政権の行動ベクトルは、ロックフェラーの利益に向けてのものだったということです。その中で「ペトロダラー・システム」が構築されていき、チリ・クーデターが起こされたのです。
ところで、キッシンジャーは本来はエリザベス2世に認められて300人委員会のアメリカ主席顧問の地位についたようなので、ロックフェラーから使用人扱いされることは不本意であったはずなのです。しかしキッシンジャーがそれに甘んじたということは、この頃、エリザベス2世がロックフェラーに近づき、協力関係を結ぶようになっていたのではないか?と思えます。闇の世界の内部の権力争いです。