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かんなままの「ぴ・よ・こ・とライフ」(7)母乳育児

かんなままさんの執筆記事第7弾です。 
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母乳育児
出産をしたら保育器に入れてガラス越し。時間になれば、看護婦さんが哺乳瓶を口に突っ込んでいく。
これは、子どもの将来に破壊的な影響を与えます。赤ちゃんが目覚めたらお母さんが隣にいないといけません。
あくまでも、生まれてくる赤ちゃんの要求を一番に叶え、それを与える出産の仕方をしないといけません。

出典:「ぴ・よ・こ・と」竹下雅敏(著)


お嫁ちゃんの初出産 〜産婦人科選び


初めて出産するお嫁ちゃんは実家の近くで一番人気の産婦人科を選びました。
事故が少ない、夫も分娩室に入れる、ぎりぎりまで仕事して頑張ってきた自分へのご褒美のために食事がおいしい、エステとマッサージがあるという理由で決めたようです。

私としてはいろいろアドバイスをしたかったのですが、生む直前まで働いていて伝えることができませんでした。まして、生むのはお嫁ちゃん。自分で決めるという事も尊重したいと思いました。

でも、おなかの赤ちゃんには「自分のタイミングで生まれてくるのよ」とメッセージを送り、無事を祈りました。


陣痛が始まったという知らせが来ました。
病院に行くとクリスマスのイルミネーションが豪華に輝いていました。

息子が分娩室から戻り、無事に生まれたことを伝えてくれました。ホッとしましたが、お嫁ちゃんは安静のために別室で面会謝絶。赤ちゃんは異常がないか観察するために丸2日間新生児室に預かるとのことでした。もちろん祖父母はウイルス感染予防のために近づくこともできません。


pixabay[CC0]



赤ちゃんの悲痛な叫び


しばらくして新生児室に運ばれた孫を窓越しに見ることができました。ガラス張りで明々とライトが付いた部屋です。他にもたくさんの赤ちゃんがいてあちこちで泣いています。看護師さんはどこにもいません。

孫はというと一番端で横顔しか見えません。何と泣きじゃくっています!私は胸が張り裂けそうでした。
生まれてすぐにママから離され、祝福してもらえるどころか泣いても誰も応えてくれません。この時期は特に感覚が覚醒していて母子ともに肌をふれあい匂いや声を確かめ、本能でおっぱいをまさぐる大切な時間です。そのことで赤ちゃんは安心してこの人生をスタートすることができるのです。ママもその刺激でおっぱいが出るようになり、子宮が収縮して体調も快方に向かい、赤ちゃんがかわいいと思えるようになるのです。

不安で泣き止まない赤ちゃん。手の届くところに赤ちゃんがいるのに抱けない辛さ。そのかわり案内された控室はおしゃれで現代アートの美術館の様でした。素敵な椅子に座り、私は悲しくて切なくてたまりませんでした。母体と赤ちゃんの強い一体感を切り離して管理する事を安全だと、はき違えている!怒りまで込み上げてきました。お嫁ちゃんにもっとお産のお話をするべきだったと大いに反省しました。

でも、伝えるのは難しい。医学の進歩で安全に生まれることが大前提になっているお産。病院の都合や親の都合で予定日が決められ、無痛分娩も人気です。年々帝王切開も増えています。病気入院ではないのでホテルのような豪華な食事、内装でお客様を集めています。生まれる赤ちゃんの事を大切にしていません。産科だからでしょうか?分業のなせる業?

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青年会議所の広報委員長だった私が振り返る21世紀初頭
〜2001年 特集記事『 道しるべを探して…』7月号を題材に(中)〜

 1997年に臓器移植法が成立施行、1999年2月臓器移植手術。移植法施行後の日本で初めてのつまり公的合法とされる移植手術の実施です。その後、移植法は2009年に改正されます。理由は臓器提供者数が少ないからその対処のためで、その施行後、移植実施数は5倍以上に増え15歳未満からの脳死臓器提供も可能になり現在に至っています。
 臓器移植は脳死移植が主ではありません。世界全体での臓器売買の実態はすさまじく、日本でも闇に隠れ実数は表に上がりませんが、臓器売買施術が相当に実施されているのは想像できます。公的合法的に、そして秘密裡に医師が執刀し、その臓器移植手術を待ち望む夥しい人々の群れ。私にすれば昔それを見るのがいやだった「光景」です。
 日本社会ではメディア中心に人類の不老長寿の願望を成就すること、そのためには「どういうことであっても」賛美される傾向は今も顕著にあります。不老長寿への試みを私は否定しません。しかし安易に医療の発展だとか人類の進歩とかの言葉が、疑いなき至高の善でまるで錦の御旗として、無批判に検証なしに受け入れる体質、日本社会にそれが確かに機能しているように見受けられ、それが本当に問題だと見えるのです。この見方は特集記事作成当時も現在の私も同じです。
(seiryuu)
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pixabay[CC0]



特集記事 「道しるべを探して・・・2」  2001年7月号掲載  中 

現代医療から 

 不老長寿、健康で長生き。古から現代にいたるまでわれわれほとんどの人達が望んできたことでありましょう。世界的な視野から見れば、一部の人たちがその恩恵を受けたのだと言わねばならないでしょうが、科学の発展に伴う医療技術の進歩は私達の不老長寿の望みを随分と叶えてきてくれました。(中略)

 しかし、ここにある疑念を持たざるを得ません。それは、「同じ人間でありながら圧倒的大多数の人には関わりなく、ごく少数の人にしか、その恩恵を受けることが出来ないではないか。」といったことより、不老不死の生存要求の充足が、果たして本当に人間の幸福であるとイコールで繋がるのだろうか?ということです。

 生存要求そのものは全ての人が等しく持っており、この人間の自然な要求にもとづいて、その要求を叶えるべく医療技術、そして文明は進歩してきました。その歩み自体は批判や否定できるものではありません。しかし、全てがそれで許され、片付けていってもいいのかとの疑念も残るのです。それは際限のない要求を満たすことが、本当に幸福に繋がっていくのだろうか、むしろ、人間だけのエゴを助長し、かえって自らの首をしめる結果になるのではないか、との疑念です。

 自らの要求充足にあまりにも懸命になる時、見落としやすいことがあります。それは全てのものはそれ一つ単体で成り立っているものはなく、様々な繋がり支えあいで成り立っているあるがままの姿であり、人間もまた様々な繋がり支えあいの、自然の生態系の一員として生かされている事実です。産業革命以降、人間中心主義、正確にはヒトという種の生存要求を、至高のものとして中心に据える動きは、科学技術を進歩させ、20世紀は史上かつてない豊かな物質文明が花開きました。しかし反面、この20世紀は「戦争と火の世紀」であったとも評されてもいます。人間中心主義にもとづく文明、それはまた、繋がりの感覚を失念させ、地球規模での温暖化と砂漠化、そして人々の精神的砂漠化をも進行させたようにも感じるのです。



脳死・移植問題に見られる問題の本当の本質。


 非人間化と表現し、「精神的な空白感、飢餓感」が現代社会の諸問題の背後にあるのでは?と指摘してきました。今回はそれを「際限のない要求」「人間だけのエゴ」「生存要求を、至高のものとして中心に据える動き」と表現しています。違う表現をしましょう。至高で中心とは神として崇める意味です。飢餓感に基づく生存欲求が「科学技術人類の進歩」を顔とする神となっていませんか?

(ここでいう神とは無論神聖の意でなく人間が制御できず縛られ支配される存在の意味です。自らが生みだした欲望に自らが支配されることです。)

 こうなるとそれにまつわる諸々の行為は全て神に仕え神に供物を捧げる行為、いわば無批判でよいとされる神聖行為となりかねません。しかしそれこそが問題の本質で、神聖行為の筈が幸福に繋がるどころか、地球環境の砂漠化、人間の精神の空白・飢餓を精神砂漠にまで進行させ人類を深刻な危機に追いやっているのではないか?との問いかけです。


pixabay[CC0]



 私にはこのエゴ際限なき欲求を「装った顔」に置き換えて、神として崇め供物を捧げる行為、この姿が「脳死・移植問題」の上に端的に見えてしまったのです。「臓器移植は医療進歩(の顔の神)に捧げるための神聖行為」の意味、そしてそれと少し違う意味もあります。

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かんなままの「ぴ・よ・こ・とライフ」(6)家庭を築く心構え

かんなままさんの執筆記事第6弾です。 
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家庭を築く心構え
子どもをちゃんと育てようと思ったら、
なにが本当に大切なのか、どう生きないといけないか、
親がしっかりとした価値観を持って、子どもを育てないといけません。

子どもが生まれる前からしっかりとした準備をしておくことです。

自分の心の中でしっかりとした価値観と信念を持って子育てをしないといけません。

出典:「ぴ・よ・こ・と」竹下雅敏(著)



本当にそうなのです!
でも、これができている親はどのくらいいるのでしょうか?

ある島の中学生に将来の結婚観、家庭観をインタヴュ―した時ショックを受けました。進路指導はあるけれども、将来の家庭生活など考えた事がないというのです。逆に「人に合わせるのはいや」「結婚や子どもはめんどう」という答えが返ってきました。

2015年、国立社会保障人口問題研究所の調査で18~34歳の未婚者のうち、男性の70%、女性の59%が交際相手がいない事が分かりました。結婚の意思は90%もあるそうです。でも理想と現実のギャップで交際できない人が多いとのこと。経済的理由が増えているそうですが、結果的に男性30%女性26%が交際を望んでいないというあきらめモードです。

私感ですが、自分の家庭を見て将来の夢を描けないのも大きな理由だと思います。親が幸せそうにしていない。余裕がなく、いつもイライラして人の悪口ばかり言う・・・子どもは見ています。


価値観も信念も持たぬまま突然親になる現代社会〜悪循環を断ち切るには


現実、経済優先の社会が作り上げてきた効率主義の世の中で無駄なものは切り捨てられ、子育ても学業も仕事もその目的を遂行するためにますます専門化、分業化されていっています。

そして赤ちゃんの時から大人の都合で預けられ、自由な発想で遊び呆ける時間もなく、自分の感覚でチャレンジする体験も与えられないまま進路を強要され、受験戦争に巻き込まれ、どんな仕事が自分に合っているのかわからないまま就活して社会人となって行くしかないのです。

とりあえず学校に行く、とりあえず仕事する、できちゃったからとりあえず結婚する?
これではスタートから間違っています。

でも、人の内には真理を求める種(良心?)があるといいます。
間違った道、いい加減な道を生きていたらその種が疼くのです。求める真理に近づいたらその種は内側で輝き、喜びと共に芽吹いて花開くのだと信じます。みんなその真理に向かうために生まれてきたのに・・・。

どのライフステージから始めたらいいのかわからないくらい混乱した社会ですが、この悪循環を断ち切るためには自らそのような生き方に替えるしかないのです。そういう意味でも子育てはチャンスです。

子どもに幸せになってい欲しい!・・だったら、幸せが何かを問い直すことから始めます。そして子どもに学歴や秀でた才能を伸ばすような処世術ではなく、ヤマ・ニヤマを王道にした根本的な生き方を示すことです。子どもを1人の人間として尊重し、全人生を通して一貫してありのままを認め、愛を注いでいくことだと思います。



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青年会議所の広報委員長だった私が振り返る21世紀初頭
〜2001年 特集記事『 道しるべを探して…』7月号を題材に(上)〜

 これから、「道しるベを探して・・・」7月号を前回同様3回に分けて見ていきたいと思います。・・・その前に。
 ぴょんぴょん先生の寄稿文「桜の散る頃に」、非常に興味深く読ませて頂きました。幼い頃(⒐歳時)に父とは死別し24年前に母とも私は死別しています。母との別れ、残念ながら自分なりには頑張ったつもりでしたが、寄稿文のようにはいかず、そうそう美しい別れにはできませんでした。それでも深い共感と学びをもって読み進められました。
 特に最後の部分

死ぬべき時に、人は死ぬし、産まれるべき時に産まれるはずです。どんなに死にそうでも、生きる時は生きるからです。また生がよくて、死は悪いというような思い込みもおかしいです。

生死を人工的に操作することは、苦しみの元であることを、人類が悟るのはいつの日でしょうか。死ぬことはそれほど悪いことでもない。とくに長患いをした人にとっては、ありがたい休息になるのです。

若い頃大学病院で、多くの方が亡くなる光景を見てきました。特に抗癌剤を使った人の最期などは、凄惨だなあと思いました。でも、身近な経験でわかったことは、どんな病気も、いらないことをしなければ、最期はとてもおだやかで、感動的なものにすらなりうるということでした。

余計なことをされずに、親しい人がそばにいて、平和と満足の中で眠るように死ぬことは幸せなことだと思います。

出典:桜散るころに 〜 自宅での介護と看取りの体験(下)

 適切な言い方か分かりませんが圧巻に感じました。そして図らずも実のところこの一文にこそ、当時私が特集記事7月号全体に込めた思いの全て語られています。
(seiryuu)
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特集記事 「道しるべを探して・・・2」  2001年7月号掲載  上 

・チベット奥地での体験記
生命科学に携わる方がチベットでの鮮烈な体験をある雑誌にてつづられていました。

チベット最深部のラチュとういう村で、治療と疫学のデータ収集の手伝いを半月間することになった。それは鮮烈な体験であった。

砂嵐の中、臨時診療所のテントをたたもうとしていると、うわさを聞きつけて遠くの村から、村人が村長を荷馬車に乗せてやってきた。村長はまもなく死ぬのだが、せめて最期だけは日本の医師の手で看取ってやってほしいというのである。

村人は皆、まもなく村長は死ぬものと信じきっている。村人はいつ頃死ぬのか、と問い質しもした。鳥葬の準備に時間がかかるのかもしれない。ところがわが同僚の医師の診断は、(軽い脳梗塞による運動麻痺と軽度の肺炎)であった。彼はてきぱきと点滴をし、村長は死なないのだと説いて回った。この時、村人の間を走った異様な戸惑いの表情を、私は決して忘れないだろう。 ええっ! という感じなのである。日本のような医療施設が一切ない奥地では、人は体が動かなくなり自力で栄養が取れなくなれば脱水症状に陥り、体力が消耗し死んでゆく。本人も死を覚悟し、周りの人々にお礼を述べ、心を固めてゆく。それはそれでたいへんおだやかな死なのである。

 同僚医師は、この事態に何の躊躇もなく、日本にいるのとまったく同様に点滴を施し、救命治療を行った。これはこれで立派な行為である。われわれも少し晴れがましく思った。だが、すえた臭いの垢だらけの足の甲を消毒液で何度もこすって、点滴のための静脈を浮き上がらせながら、私の心の中には言うに言われない異物感がわきあがってきた。その違和は、今ならはっきり言葉にすることが出来る。

それは、この行為によって、われわれが意識するにしろしないにしろ、それまでチベット奥地で不動のものとして共有されてきた死にゆくプロセスの文脈をいま破壊しているのだ、ということである。」


特集記事7月号作成の背景。本当に伝えたかったこと。
死にゆくプロセスの破壊。脳死・臓器移植


 今回特集記事で記載しているのは1998年4月法蔵館発刊の雑誌『仏教43号』に記載された米本昌平氏の記事の一部です。

「チベット奥地で不動のものとして共有されてきた死にゆくプロセスの文脈をいま破壊している」

実はこの一文を通し伝えたかったのは現に日本ではその破壊が最終段階まで進行し、死の基準までも都合で都度変更させられていることだった
のです。

脳死臓器移植の問題です。1997年に臓器移植法が成立されますが、その前に「脳死が人の死か?どうか?」の大きな論争がありました。日本では約30年前から脳死を巡る論争が脚光を受けます。その時分から私は「脳死・臓器移植」に反対の立場でした。

「臓器移植?そんなことまでして長生きしたい(させたい)のか?人間の身体をパーツ、パーツで分ける?まるで機械扱い、いかにも西洋的だな、それでパーツの調子が悪くなったら他人のパーツと入れ替える?不治の病のため?確かにつらいかもしれないけどなぜ受け入れられない?移植を誰が望み誰が受けられる?まず大金持ち。それで実際に不治の病が治ったら?マスコミ大絶賛?でも死ぬことに納得できない人たちでいっぱいになるね。『移植治療さえ受けられたら治ったかもしれない、死なず(死なさず)に済んだのに』と。でも、仏教経典説話集では地獄の亡者は針の山などで責め苦を負わされながらも死ねないので延々とそこから抜け出せず苦しむのが表現されているのだけど?死ねないのも苦しみじゃないのかな?生きた臓器の提供を待ちわびる夥しい人々の姿、見たくないぞっとする光景だな。」

若い私はこういう思い視点で脳死・移植論争の展開を注視していました。




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かんなままの「ぴ・よ・こ・とライフ」(5)〜子育ての放棄〜

かんなままさんの執筆記事第5弾です。 
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子育ての放棄
家庭内暴力、不登校といった、家庭でよく起こっている問題は、あまりにも小さいときから保育園に預け、子育てを放棄したことが原因で起こっていると感じています。

やむを得ない事情を除いて、1歳前後の子どもを保育園に預けるのは、養育の怠慢、あるいは放棄です。

これは虐待と言ってもいいのではないかと思うのです。

現在起こっている、様々な問題の原因の根源は、ほとんど全ての人が子育てを放棄していることなのだと思います。

出典:「ぴ・よ・こ・と2」竹下雅敏(著)


国の「支援」で子育て環境が悪化


この文章を読んだらどのくらいのママが泣くでことしょう。

悲しいことに、少子化対策を厚生労働省が取り組むことになって、ますます状況がひどくなってきました。

目的が高齢化社会を支えるための労働力確保です。母親が子どもを産み、仕事をやめると労働力が減ることが問題視され、これを解消するには出産して早い時期から働けるように「子育てと仕事の両立支援」をしなければいけないと方向転換したのです。先進国の事例をあげ、あたかも日本が遅れているかのようにイメージを作り、待機児童の問題がクローズアップされ、これが諸悪の根源だという社会的認識にすり替えられました。

そのことばかりが報道されるので、子どもを産んで2~3か月のママ達が身も心も親になる前に保育園の確保に焦り、早く職場復帰しなければというモードになって行くのです。「人見知りする前の方が泣かないから助かるよ」などの情報が飛び交います。

子どもはどんな気持ちでしょうか?いつまでも一緒に居てくれると思っていたママが突然いなくなり、パニックになります。赤ちゃんは愛に満たされて育つ機会を奪われます。結果的に免疫力が落ち、病気がちになったり、親の顔を見れば我儘を言って満たされなかった愛を求めます。これは子どもの問題行動とされて、また怒られます。好きな時間に自由に遊ぶ楽しさも知らず、気を紛らすことやあきらめることを学びます。

pixabay[CC0]


子どもの育ちを何と思っているのでしょうか?
子どもの立場で考えてみたら虐待です。
社会全体が養育の怠慢、放棄を促し虐待の勧めをしているのです。
そして社会の都合に踊らされているママを追いつめています。

市への働きかけと無理解


私達の小さな声では社会を変えることはできませんが、親になるための講座を始めました。その結果、基本的な子どもの育ちを知り、助け合いながら子育てを前向きに頑張ろうというママが増えました。そして3年前から市長に会って、子育てしやすい町の提言を始めました。

今年は「仕事か家庭か?」の選択に悩んでいることをテーマにしました。自分たちは子どもの育ちを優先して子育てしたい。でも今の制度は、保育園に預けて働いたら様々な支援を受けられるのに家で子育てしても孤立無援で手当ても減らされたママです。子育ては立派な社会貢献なのに苦しい。

「子どもを自分で育てたいです。応援してください!」と言いに行くことにしました。

そして、他のママ達の本音を知りたくて保育園、幼稚園、子育て支援センターに協力してもらって1700人のママ達にアンケートを取りました。「何のためにするの?」と無理解な言葉もあり、ただでさえ忙しいママ達がどのくらい応えてくれるだろうかと心配していましたが、1300人から回答があり、7割を超えていました。そして、自由記述欄に苦しい思いがぎっしり書かれていました。それを読んだだけで涙が出ます。

pixabay[CC0]


働いても保育園代などでお金が残らない。子どもを急かせて叱ってばかりで苦しい。理想は3人だけど現状は産めない。夫の協力がない。等々、みんな疲れて果てていました。子育てのための手当てがもらえるなら働かないで子どもの傍にいてあげたい、というママが多くてびっくりしました。

このアンケートをまとめて市長に伝えました。でも、事が子育て給付金の話になると、市は手だてがありません。今のままでも子育て支援を頑張っていますという回答でした。そういう言い方をすると結果は見えています。

ママ達はへこんで帰ってきました。アンケートのママ達の気持ちを追い風にして、ママになった自信に溢れていたのが一転、子育てするからお金を下さいと要望に行ったように受け取られたと・・。

社会が子育てを理解していません。ママ達の苦悩も子供達の寂しさも無視されています。
私は、このママ達を誇りに思います。そして、この1300人のママ達の気持ちを無駄にすることのないよう、私達支援者が代弁して、応援し続けなければと心に誓いました。

Writer

かんなまま様プロフィール

かんなまま

男女女男の4人の子育てを終わり、そのうち3人が海外で暮らしている。孫は9人。
今は夫と愛犬とで静かに暮らしているが週末に孫が遊びに来る+義理母の介護の日々。
仕事は目の前の暮らし全て。でも、いつの間にか専業主婦のキャリアを活かしてベビーマッサージを教えたり、子育て支援をしたり、学校や行政の子育てや教育施策に参画するようになった。

趣味は夫曰く「備蓄とマントラ」(笑)
体癖 2-5
月のヴァータ
年を重ねて人生一巡りを過ぎてしまった。
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