アル・カイダの象徴的な存在だった
オサマ・ビン・ラディンは2011年5月、パキスタンのアボッタバードで
アメリカ海軍の特殊部隊「NSWDG(通称、DEVGRU、またはSEALチーム6)」
に殺されたことになっている。そのチーム6の元隊員だというロブ・オニールがビン・ラディン殺害の実行者として名乗り出た。
この話を聞いて奇異な感じを受けた人は少なくないだろう。
襲撃の3カ月後に暗殺に参加したチーム6のメンバー20名がアフガニスタンで死亡したとAPが伝えているのだ。乗っていたヘリコプターが撃墜されたのだという。このヘリコプターにオニールは乗っていなかったということになる。オニールは
2012年4月にエスクワイアー誌のインタビューに応じているが、まだ隊員だったようなので、撃墜の時にも隊員だ。インタビューでは名前が伏せられている。
しかし、
状況証拠やアボッタバードの住民の証言はビン・ラディン暗殺の話に大きな疑問を投げかける。
まず、オサマ・ビン・ラディンは腎臓が悪く、「9/11」の2カ月前、
2001年7月には治療をするためにアラブ首長国連邦ドバイの病院へ入院していたと伝えられている。人工透析しなけらばならない状況だったようだ。
その入院患者を
見舞うために家族のほか、
サウジアラビアやアラブ首長国連邦の著名人が訪れているのだが、
その際にCIAの人間と会ったとフランスのル・フィガロ紙は報道している。そうした病人が山岳地帯でゲリラ戦を指揮することは不可能だろうと考える人は少なくない。
しかも、エジプトで出されているアル・ワフド紙の2001年12月26日付け紙面には、オサマ・ビン・ラディンの死亡記事が掲載されている。その10日前、
肺の病気が原因で死亡し、トラ・ボラで埋葬されたというのだ。その10年後、
チーム6は誰を殺したというのだろうか?
実際、襲撃された家にオサマ・ビン・ラディンは住んでいなかったとアボッタバードの住民は語っている。その
家の上空に現れたヘリコプターは1機だけで、
10人から12人を屋根に降ろして飛び去り、20分ほどして戻ってきて降りていた人を回収、この作戦に参加していた人びとはパシュトゥーン人の言葉を話していたとも住民は語っている。
ところが、
飛び去ろうとしたヘリコプターは爆発で炎上、生存者はいなかったという。
その家にビン・ラディンがいて死体を運び出したとしてもアメリカ側の手に渡っていないことになる。海で埋葬したともアメリカ政府は主張しているようだが、その埋葬を行ったとされる艦船の乗組員はその事実を知らない。
2011年といえば、春先からリビアやシリアでアメリカ/NATOやサウジアラビアは体制転覆を目指して軍事作戦を始動させているが、その地上軍としてアル・カイダが使われたことは明確になっている。IS(イスラム国。ISIS、ISIL、IEILとも表記)もその延長線上にある。
この年の10月にはリビアのムアンマル・アル・カダフィが殺され、その直後にアル・カイダの旗がベンガジで翻っている。その5カ月前にビン・ラディンを殺したことにしなければ、アメリカ政府はビン・ラディンと手を組んだという構図になり、「9/11」は何だったのかという疑問にもつながってしまう。そうなると、2001年から始められた中東や北アフリカへの侵略戦争の実態を無視できなくなる人が増えても不思議ではない。
ビン・ラディンを黒幕とする「イスラム過激派」が「9/11」を実行、アメリカは「テロとの戦争」を開始、中東や北アフリカを「民主化」するために戦っているという筋書きを維持するためには、ビン・ラディンが2011年5月まで生きていたということにする必要もある。
アメリカ政府は、2011年5月にSEALチーム6がオサマ・ビン・ラディンを殺したという話を崩すわけにはいかないわけで、
オニールの「暴露」はアメリカ政府にとって願ってもないことだろう。
しかし、それはそれとして、3.11以降の鳩山氏の地下原発推進はいただけません。