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母の最期とその時起こった不思議な出来事
亡くなる3日前くらいの夜中のこと、母の声が聞こえるので部屋に行ってみると、
誰かとしゃべっているようでした。
「誰としゃべっているの?」と聞くと、母は我に返り、覚えていないようでした。もしかして、頭がおかしくなっちゃった? いや受け答えは正常だし、
向こうの世界からのお迎えと、打ち合わせしていたのかなと思いました。
そんないろいろな兆候があって、
5月30日になりました。お昼に仕事から帰ると、手伝いの人が「今日はおにぎりが食べたいと言うので、作って食べさせました」と言いました。数日まったく食べていなかったので、これは良かった、食欲がもどってきたのかなと思いました。
母はいつものようにテレビを見ていて、
私は珍しく血圧を計りました。
めったに血圧計を出さないのですが、このときは計った方がいいような気がしたのです。
上が40で下は計れません。これは
やばいかも、と思いました。病院にいたら昇圧剤でむりやり上げられるのでしょうが、
母はもう二度と病院に入るつもりはありませんでした。
「なんか眠いの、とっても眠いの」と言うので、手伝いの人と一緒に
母をベッドに寝かせて、やれやれ一休みと思いました。夜のために
私も寝ておこうと思い、母のベッドと障子一つ挟んだソファーに横になりました。
とろとろと
数分寝たでしょうか、電話で起こされました。関東の
妹から、母の様子はどう?という電話でした。「今、寝たところよ」 ちらっと
母の様子を見ると、よく寝ているようでした。「行かなくていい?」「まだ、大丈夫だと思う」そんな会話をして
電話を切りました。
もう一度確かめようと
母のそばにいくと、母はもう息をしていませんでした。まるで眠っているように静かでした。体はまだあたたかくて、手もやわらかくて。
その時、いつもと何かが違うと気づきました。部屋の中が、何か
ものすごい喜びで満ちているという感じなのです。なんなのかわからぬまま、
感動して涙がでるほどでした。20年近く、拷問のような痛みに耐えながら、手足のきかない
不自由な体の中に閉じ込められてきた魂が、ようやく開放されて喜んでいるようでした。私は思わず叫びました。「良かったね!もう、痛みもない、自由になったんだよ。今までよくがんばったね。良かったね!」と。
悲しみはなく、喜びしか感じられませんでした。
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それからしばらくして、母の大好きだったアルゼンチン人の神父様と、別府駅でばったりお会いしました。「あなたにお会いしたいと思っていました。ちょっと前に、お母さんが私に現れて、微笑みながら、ていねいにお辞儀して消えたのです。お母さんはどうされていますか?」と聞かれたので、亡くなったことを伝えると、うなづいておられました。母がお礼のご挨拶に行ったのでしょう。
つい
最近、古い友人も母親を亡くしました。その方は鍼灸師で、東洋医学について鍼灸の立場から、いろいろと教えてもらったことがあります。
5年位前にお母さんが脳梗塞で倒れて以来、仕事をほとんどやめて、自宅でつきっきりでお母さんの治療をし、面倒を見ておられました。
大切なお母さんが亡くなられて、さぞがっくりされていることだろうと思いきや、前よりも生き生きとされているのです。
興奮気味に、
目を輝かせながら、こんな話をしてくれました。
お母さんが亡くなった時、その部屋が喜びであふれていた、すごかったというのです。「その喜びが自分に力をくれた、もう何も怖いものはない」と、力強く語ってくれました。
その話に
うなづきながら、私も自分の母の時の感動を、久しぶりに思い出すことができました。
あれは、錯覚じゃなかったんだ、と確信しました。
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ところが、若いご夫婦が「介護施設」ではなく「コミュニティスペース」を作りたいと思い、まずは町の人たちに「どんな場所があれば嬉しい?」とアイデアを募ったところからユニークです。町の人たちは楽しい場所、エンターテイメントのある場所を求めていることが分かり、代表の首藤さんは、いろんな人が集まる面白い空間ならできる!と始めたのが「はっぴーの家ろっけん」でした。
写真を見ると、入居者以外のいろんな人たち、子供が宿題をしていたり、施設に無関係の人が仕事の打ち合わせをしていたり、外国人が寛いでいたり、とても介護現場とは思えない自然で自由な空気にあふれています。「うちは守られる施設ではない」と入居者さんや家族に説明しているところも画期的です。自分だったら転倒リスクを恐れて車椅子を強要されたり、ベットに縛られているよりも、怪我をしようと自由にしていたいから、という人間らしい希望を実現されていました。
全く血縁のない高齢者と子供たちがリラックスして関わる風景は、今では珍しいのではないでしょうか。
可笑しかったのは、ある朝、施設に全く知らないおばあさんが寛いでいて、さすがの奥さんもしばらく「??」と固まってしまった、というブログでした。それほど開かれた自由な場所なのでしょう。
隣近所の人たちも、普通に訪ねてきては一緒に食事をしたり話をしたり、週に200人もの人が訪れる「大家族」ハウスですが、首藤さんの根底には、阪神大震災で失われてしまった街への思いが強くあるそうです。薄っぺらな再開発を強行され、長屋的な豊かなコミュニティを失ってしまったことへの憤りが「はっぴーの家」を生み出したと語られています。
街が元気になる時、子育ても、介護も、実はとても楽しく豊かになる、それを実証して下さっているようです。