三笠宮も裏天皇に仕えていた?
前回、『★阿修羅♪掲示板』からの情報で、「金(黄金)の百合」作戦で戦局の最終盤に略奪された莫大な財宝が、フイリピン山中に「山下将軍の財宝」として埋蔵され、その隠匿工作をした人々が生き埋めにされたことを見ました。
この情報源は、『
櫻井ジャーナル』でも指摘されているスターリング・シーグレーブとペギー・シーグレーブ夫妻の著書のようです。
いくつかのブログでシーグレーブ夫妻の著書を翻訳した記事が掲載されていますが、その一つ『マヨの備忘録・・・マヨのぼやきから』
2007-06-05記事の中で以下のような記述があります。
ベンは竹田宮、そして裕仁の兄弟である秩父宮、三笠宮、そして南京虐殺において日本軍の指揮をとった年長者、朝香宮を指さした。ベンは彼らが在庫を調べ財宝基地に収納する間、ともに過ごし食事を運びお茶やタバコをもっていったと話した。
ここで竹田宮たち皇族を指さしたベンとは、竹田恒泰親王の従者として財宝隠匿に従事したフィリピンの若者ベン・バルモアで、彼は
財宝隠匿関係者たちの中での生き残りの人物である旨が記されてあります。
このベンが指さした皇族、つまり
竹田宮、秩父宮、朝香宮は裏天皇の部下であったことは既に見ていますが、ここに加えて三笠宮の名前も出ています。
『夢幻と湧源』サイトの
2009年6月2日記事には、キムスこと竹田宮、秩父宮雍人陸軍少将、三笠宮崇仁陸軍参謀、朝香宮鳩彦陸軍中佐、「これらの皇族たちは、1943年にマニラで開かれた会議の参加者だった。」とあります。
こういった情報から、
三笠宮も裏天皇側に所属していた可能性があります。三笠宮は南京事件や731部隊の振る舞いを批判していた人物で、その意味で三笠宮が裏天皇側に属していたとすれば意外ではあるのですが……。
また、現在は表示されていませんが
2015/11/15竹下さんの記事で
紹介されてあった記事の中に次の記述がありました。
鬼塚氏は、秩父宮が2・26事件の策を練り、終戦時の8・15宮城事件は三笠宮が策を練ったのだと断言している。どちらのクーデターもヤラセだった。
2.26事件は後述するとして、
三笠宮が策を練ったとされる「8.15宮城事件」について。これはごく簡単には、
終戦に反対する将校が宮城(皇城)を占拠し「玉音放送」を阻止しようとしたが、逆に鎮圧された事件です。
昭和天皇の意志に反し皇城を占拠した将校たちは、普通に見れば裏天皇側の者でしょう。そして
その叛乱将校を鎮圧、指揮の功労者が田中静壱司令官でした。
陸軍中将時代の田中静壱
ところが、
この田中静壱こそが、フィリピンで山下将軍の前に第14軍を天皇に親任され、率いていた司令官です。
つまり、田中静壱は「金の百合」の実働部隊の司令官で、裏天皇の部下なのです。
鬼塚氏によれば、三笠宮が練ったとされる「8.15宮城事件」とは、裏天皇の部下がクーデターを謀り、それを同じ裏天皇の部下が鎮圧した構図になります。これだと確かにヤラセです。
一口に裏天皇側といっても、その中には派閥とその争いもあったであろうし、個々人の考え方の相違もあったであろうことは間違いないでしょう。また、その彼らの為した作業の中には、見せかけのヤラセ工作もあったでしょう。
問題はヤラセにしてもその目的なのですが…、残念ながら現在は不明です。
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