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ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第32話 ― 伊藤博文の暗殺

 玄洋社の頭山満と共に堀川辰吉郎を保護育成したとされる杉山茂丸、彼こそが八咫烏直属の五龍会の一つである白龍会の総裁とされています。白龍会=玄洋社と見なせます。


 さて、ウィキペディアの「杉山茂丸」記事を一読すれば、杉山茂丸と伊藤博文とは奇妙で深い因縁があったのに気づきます。
 記事によると1884年20歳の青年であった杉山茂丸は「旅費を借りて上京、伊藤博文を悪政の根源、脱亜入欧、藩閥の巨魁と目してその暗殺を企て、山岡鉄舟の紹介状を持って面会に成功するが、逆に、お互い国家のために身を大事にと説伏されて断念した。」とあります。暗殺の対象として面会に成功するも暗殺に失敗した、何とこれが杉山茂丸の伊藤博文との今生での縁の始まりとなっているのです。
 表明治天皇となる大室寅之祐を保護育成したのが長州田布施村の伊藤博文でした。一方、2代目裏天皇となる堀川辰吉郎を保護育成したのは福岡の杉山茂丸です。伊藤博文と杉山茂丸、共に後の天皇の保護育成という役を担った両者となります。
 ところが、その両者の関係は暗殺とその断念という奇妙な縁で始まったわけです。そしてその後も両者は複雑な絡み合いを展開していきます。両者はある意味、非常に深い因縁があったということになるでのしょう。ただし、それはどうも決して幸福な縁とは言えませんが…。
 幕末から明治維新、そして明治時代、維新の志士から明治政府の巨頭として時代をリードしてきた伊藤博文の最期、それは明治末期の暗殺によってでした。伊藤博文の暗殺によって一つの時代が幕を閉じようとし、同時にそれは次の時代への幕開けともなったと言えるでしょうか…。
 伊藤博文のその暗殺が日本の韓国併合に繋がっています。
(seiryuu)
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ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第32話 ― 伊藤博文の暗殺


謎多き伊藤博文暗殺事件 〜伊藤暗殺で得をしたのは?


1909(明治42)年10月26日、満洲のハルビン駅に降り立った伊藤博文が銃弾に斃れました。ロシアが満洲で運営する東清鉄道の同駅で、伊藤博文はロシア蔵相ウラジーミル・ココツェフと非公式会談を行い、朝鮮・満洲問題について意見交換する予定だったとされます。

編集者註:1909年10月26日、ハルビン駅に到着した伊藤博文(5番の挨拶する人物)とそれを出迎えるウラジーミル・ココツェフ(6番の後ろ姿の人物)。この30秒後に伊藤博文は銃で撃たれた

伊藤博文を銃撃した暗殺犯は韓国の独立派闘士の安重根とされます。銃撃を受けた伊藤博文は初代韓国統監を勤めていたのです。しかし、この伊藤博文の暗殺事件に関しては多くの謎と疑惑があるのです。その代表的な一つは、伊藤博文の体内の銃弾が安重根の放ったはずの銃弾と異なったものがあったとの報告があることです。伊藤博文暗殺事件を巡っては諸説紛々の様相なのです。

日本と韓国の当時の状況ですが、『世界史の窓』の「韓国併合」記事で次のようにまとめられています。

日本はその戦争中(執筆者註:1904年開始の日露戦争のこと)と戦後にかけて、韓国との間で3次にわたる日韓条約を締結して、保護国化を進め、その外交や軍事という主権国家としての権限を奪うことに成功した。それに対して、韓国では激しい抵抗が組織され、義兵闘争が1905年から続けられていた。


日本は韓国を保護国として扱い、それに対する韓国側の激しい抵抗があったわけです。その状況下で韓国統監を勤めていた伊藤博文を韓国支配の元凶と見た独立派の安重根が銃撃、その狙いは伊藤博文を亡き者にすることで韓国の独立に繋げていくため。これがハルピン駅での伊藤博文銃撃暗殺事件の一応の表層の構図となりそうです。

しかし事実として、事態はこの表層の構図、そしてその狙いとは全く逆方向に動きます。

伊藤博文暗殺の翌年1910年(明治43年)8月29日、「韓国併合ニ関スル条約」が公布され、大韓帝国は日本に併合されてその統治下に置かれたのです。全くの事実として伊藤博文の暗殺は、安重根の狙いとされる韓国独立どころか、正反対の韓国併合に利用されたのです。

元々伊藤博文は韓国の併合には反対の立場にいたのです。「伊藤博文は、当初は韓国を保護国としたまま独立を維持させる方針をとっていた。それは日露戦争の建前が『韓国の独立を守るためにロシアと戦う』というものだったからである。」(世界史の窓)といった具合にです。

韓国併合については別の機会に改めて見ますが、元来、韓国併合反対の伊藤博文のその暗殺は、韓国独立派には致命的失策といえる行為であり、ここに伊藤博文暗殺に諸説紛々出てくる理由があります。事実としては伊藤博文暗殺によって“得をした”利益を得たのは、日本国内で大陸進出を目指し、韓国併合を目論んでいた勢力となります。

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ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第31話 ― 頭山満のアジア主義

孝明天皇は崩御を装って堀川御所に。睦仁親王もまた、大室寅之祐とすり替わって堀川御所に。大室寅之祐は表の明治天皇(政体天皇)、睦仁親王が初代裏天皇(國體天皇)に。
 これは元々は落合莞爾氏が主張された説であり、その説が辻褄が合っていて事実として間違いないと見て、この明治編を進めてきました。
 堀川御所に移住した後の孝明天皇、そして睦仁親王の情報は当然ながらほぼ皆無です。ただし、その後の情報は皆無ながらも、孝明天皇については堀川御所移住前の情報はあります。しかし、睦仁親王については堀川御所移住前から情報は少なく、その後は情報が皆無なので、睦仁親王がどのような考えや思いをもって周辺に当たっていたかは分かりません。
 それでも推測は可能です。睦仁親王の皇子が堀川辰吉郎です。この堀川辰吉郎に仕えながら保護・育成したのが玄洋社であり、頭山満とされます。睦仁親王が自分と思いの異なる者に自身の皇子を託すはずがないので、玄洋社およびその総帥とされる頭山満の思想と行動を見れば、裏天皇の睦仁親王の考え・思い、そして睦仁親王と日本政府、および表天皇側との関係も垣間見えてきそうです。
 頭山満は、彼のウィキペディア記事を見れば「アジア主義者の巨頭」「日本に亡命したアジア各地の民族主義者・独立運動家への援助を積極的に行った」とあります。 頭山のアジア主義とは以下のようなものだったと思えます。
欧米支配から脱却したアジア共栄圏の構築がその目的。そのために日本は積極的に海外進出し、その中で日本は国際的地位を高め、英国から独立
この頭山のアジア主義は同時に睦仁親王の考えでもあったように思えます。
 ただし頭山は目的達成のために日本の海外での積極的武力行使、日本政府に対しても過激な行動に出てもいて、ここまでもが睦仁親王の考えに沿っていたかは不明です。睦仁親王が英国支配に屈辱を覚え、日本政府および表天皇と緊張した関係にあったのは確かだとは感じますが…。
(seiryuu)
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ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第31話 ― 頭山満のアジア主義

表裏明治天皇の大嘗祭執行 〜150年間の秘事


落合莞爾氏は『ワンワールドと明治日本』281~282頁に次のように記しています。

明治13(1880)年、京都皇統の住む堀川御所で将来の國體天皇となる男児が出生します。御父は、政体天皇の地位を長州藩奇兵隊士大室寅之祐に譲って堀川御所に入った皇太子睦仁親王で、当年29歳、御祖父は慶応2(1866)年の偽装崩御以来、睦仁親王とともに堀川御所に棲む孝明先帝で、ときに50歳です。

睦仁親王と大室寅之祐は明治4(1871)年11月17日に東京皇城の吹上御苑において揃って大嘗祭を執行されておられますので、ともに天皇と呼ばれて何ら差し支えない立場です。つまり「明治天皇は二人いた」のですが、大室寅之祐が表の明治天皇として表に出て、睦仁親王は「ウラの明治天皇」となったので、いわば國體明治天皇となったのです。

(中略)

明治20(1887)年に7歳になった睦仁親王の皇子は、堀川御所で豊子(のちの松下トヨノ)が生まれたのを機に博多に移り、(中略)...辰吉郎が福岡へ移されたのは、黒田藩の政治結社玄洋社の実質社主の杉山茂丸と社長の頭山満から武士的素養と気風を学び、小学校に通って下情に通じるためです。

ここには幾つもの重要なことが記されていますが、その一つで目を引くのが、表の明治天皇(政体天皇)となった大室寅之祐と初代裏天皇(國體明治天皇)となった睦仁親王が、同刻同じ場所(東京皇城吹上御苑)にて揃って大嘗祭を執行したという部分でしょう。

初代裏天皇となった睦仁親王
(25歳当時の明治天皇と紹介された写真)
Wikimedia Commons [Public Domain]

二人が同時に大嘗祭を執行、これは天皇践祚の儀式ですから記されている内容は非常に重要です。それと共に大嘗祭はあまりにも重要で、これに関して虚偽を記されるような性格のものではないので事実と見るしか無いでしょう。

ただし、こうなるとかなり多くの皇室関係者などは、二人の大嘗祭同時執行の事実を承知していたはずです。その上で、その事実を関係者は現在まで厳重に秘匿してきたことになります。150年間の秘事です。

さて、次いで気になるのが、ここでは堀川辰吉郎の生年が1880年となっていることです。堀川辰吉郎は自称では1884年生まれとのことでした。天皇そして八咫烏(サンカもですが)には戸籍が無いとのことで、このように生年がハッキリしないようなことになるのかも知れません。ただ堀川辰吉郎の生年は1880〜1884年の間と見て間違いないでしょう。

この時期は、世界的には1881年にアレクサンドル2世が暗殺され、ポグロムの嵐が吹き、共産革命運動を含めたシオニズムの世界潮流が生じ、日本では1882年に日本銀行が設立されています。世界と日本の歴史の分岐点になる時点で堀川辰吉郎が誕生したとも言えるでしょう。

Wikimedia_Commons [Public Domain]
Wikimedia_Commons [Public Domain]
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その堀川辰吉郎が7歳の時に京都から福岡博多に移されたと落合氏はしています。それは辰吉郎が玄洋社の杉山茂丸と頭山満から「武士的素養と気風を学び、小学校に通って下情に通じるため」とのことです。玄洋社が辰吉郎を保護・育成していく役割を担ったということになるでしょう。

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ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第30話 ― 日露戦争の影の立役者

 自ら望んで「護国の鬼」となったある人物がいます。その人物の名前は明石元二郎ウィキペディア記事によると台湾総督に就任し、台湾軍の初代司令官も兼務し、周囲からは次の総理大臣を期待される中の1919年10月、志し半ばで郷里の福岡で55歳で死去したのが明石元二郎です。
 彼は死に際し「余の死体はこのまま台湾に埋葬せよ。いまだ実行の方針を確立せずして、中途に斃れるは千載の恨事なり。余は死して護国の鬼となり、台民の鎮護たらざるべからず」と遺言したとのこと。
 この遺言に従い、彼の遺骸は福岡から台湾に移され埋葬されたとあります。激烈な生涯を遂げたであろう明石元二郎は別のことで有名でもあります。日露戦争における諜報工作で、明石元二郎の諜報戦によって日露戦争で日本は勝利を得たともされるのです。日露戦争の影の立役者です。
 日清戦争が終結したのは1895年、日露戦争が開戦したのは1904年です。この間僅かで10年も経っていません。日本とロシア、その国力には大きな開きがあり、普通に見れば日本にとって日露戦争は無謀な戦争といえるでしょう。日露戦争で日本が有利に戦局を進められると見ていた国家はほぼ皆無だったのです。その中、意外にも日本は善戦をします。
 ただし、開戦の翌年には日本の戦闘体力はつきようとしていました。その状況下で、ロシアが日本に有利な講和に応じざるを得なかったのはロシアの国内事情からです。革命運動の激化による国内不安がそれで、これを喚起させたのが明石元二郎とされるのです。
 もともと日露戦争を強く誘導したのはロスチャイルドです。ロスチャイルドの帝政ロシア打倒作戦の一端が日露戦争だったのです。それと日本国内にも日露戦争を強く推し進める勢力がありました。それが福岡を本拠とする玄洋社です。明石元二郎も玄洋社の社員だったのです。
 玄洋社は八咫烏の政治組織です。自ら望んで「護国の鬼」となった明石元二郎は八咫烏の一人だったのでしょう。
(seiryuu)
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ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第30話 ― 日露戦争の影の立役者

日露戦争の帰趨を決めたロシア国内事情 〜戦闘では敗北していた日本


明石元二郎
Wikimedia Commons [Public Domain]

明石元二郎1904年に始まった日露戦争における日本側の最重要人物が彼でしょう。明石元二郎の諜報戦の働きによって日露戦争で日本の勝利が導かれた、ともされているのです。

日露戦争は、一応は日本が勝利したことになっています。しかし少なくとも、それはいろんな意味で「苦い勝利」と言わなければならないでしょう。

一例を上げます。戦死者数です。「人間自然科学研究所」のデータによると日露戦争の戦死者は日本側は11万5600人、ロシア側は4万2600人となっています。意外なことに日本はロシアの3倍近い戦死者をだしているのです。

戦死者の数を比較し戦闘という観点に絞って見るならば、敗者は明らかに日本側です。日本側は自国兵士を消耗品として扱った大苦戦のすえにようやくロシアとの講和に持ち込んだのです。前回リンク資料とした藤原彰氏著『天皇の軍隊と日中戦争』では次にある通りです。

兵士の生命を尊重せず、生命を守る配慮に極端に欠けていたのが日本軍隊の特徴であった。(中略)...日露戦争の場合は兵士を肉弾として戦い、膨大な犠牲を出した。火力装備の劣る日本軍は、白兵突撃に頼るばかりで、ロシア軍の砲弾の集中と、機関銃の斉射になぎ倒された。(中略)...旅順だけでなく、遼陽や奉天の会戦でも、日本軍は肉弾突撃をくりかえし、莫大な犠牲を払ってようやく勝利を得ている。

大国ロシアを相手の日本の戦争はやはり無理があったのです。

第一軍司令部と観戦武官
Wikimedia Commons [Public Domain]

しかし、日本が苦戦を強いられながらもロシア相手に有利な講和条約にこぎつけられた、これはロシア国内の革命運動による国内不安からだったのです。近・現代編の第6話に次のように記した通りです。

1904年には日露戦争が勃発します。風刺画に描かれていますが日本にとっては、国力がまるで違うロシアが相手で、尻込みするのを英国と米国にけしかけられた戦争といえるでしょう。日本は開戦近くまで戦費の調達すらままならなかったのです。ところが予想外にも開戦から日本は連勝を続けます。しかし翌年には日本の体力は尽きてきていました。

そのような1905年、ロシア国内では1月のガポン神父率いるデモ隊への軍の発砲にて多数の死傷者がでた「血の日曜日事件」をきっかけとして、第一次ロシア革命が起こります。「日露戦争当時、ユダヤ人たちは『ロシア政府の敗北』というスローガンを掲げて革命運動を展開」「第一次ロシア革命の嵐がロシア全土を襲った」(イワノフ氏)のです。国内が荒れ不安定化したロシアは、既に体力の尽きた日本と不本意ながらも米国の仲介で9月に講和条約を結びます。


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ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第29話 ― 日清戦争の背後

 行為者に対して、どうしても「それを断ることができない」状況に置いておきながら、「自らが誓った」形にてその行為をさせるのが日本社会ではよく見られるよう感じます。実質は行為の強要なのに、行為の実行を自ら誓わせているのです。
 「自らが誓った」というのがミソで、その行為によってどのような酷い結果となったところで、その責任は自ら誓ってその行為を為した者にのみ負わされます。実質的に追い込み、強要させた側は責任追求を逃れます。支配する側と支配される側でこの関係が成立しており、支配する側の狡猾で卑劣な行状でしょう。
 実際日本の支配層は、上に行けば行くほど責任が追求されないシステムになっているのです。何か事があってもその真相は明らかにされず闇に葬り去られ、上は責任を取らずトカゲの尻尾切りで事は済まされます。
 日本の今日ではこの光景を目にするのは日常茶飯事です。為政者が当然責任を負わなければならないことを、すべからく国民の「自己責任」にしているなどです。
 なぜこのような虚偽隠蔽が横行するようになったのか? 一つの原点は間違いなく日本の大陸進出からの戦争と敗戦の事実の隠蔽でしょう。
 日本が大陸に進出していき日清・日露戦争、韓国併合に突き進み、最後は日中戦争から太平洋戦争で敗北に至ったこと、この全容は日本国民に対して闇にふされたまま全体の総括、責任の所在が全く明らかにされず現在にまで至っているのです。
 その闇にふされていた戦争の亡霊たちが再び復活してきたのが安倍政権ともいえるでしょう。彼らの体質は昔と同じままでした。
(seiryuu)
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ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第29話 ― 日清戦争の背後


国民の生と死まで支配管理する国家神道 〜実験カルト国家皇国日本


改めて、の内容をしばし記します。

死して護国の鬼と誓いし…」、このフレーズが入った軍歌「元寇」は1894年から始まった日清戦争の少し前に作られ、戦意向上のため戦時中に盛んに歌われたとされます。

「死して護国の鬼となる」。これは皇国日本における美しいフレーズとして日本国民に刷り込まれたものですが、美しいどころか非常に恐ろしいフレーズです。

「護国の鬼」とは辞書に「国をまもるために命をすてた人。戦死した人」とあります。国のため戦死することを「自ら誓う」という形にして、国民に戦死という最大限の犠牲を強いる歌詞なのです。

それだけではなく「鬼」とは「鬼神」のことです。日本 明治編第1話に記しましたが、鬼神とは成仏させてもらえない「荒御魂」で招魂祭と一体です。非業の戦死をした「荒ぶる魂」を招魂 し、「護国の鬼神」となすのがこの歌詞の意味です。


日本国民に生前はその生命を「お国のため」として戦死の犠牲を強いる。しかも死後も鬼神として自らの都合の良いように利用するのです。

この国民犠牲からの利益を得るのは国家を管理する支配者達です。国家の支配層が日本の国民を生きている時のみならず、死んでからも永遠に支配管理する、これが皇国日本の思想だったのです。

明治早々に建設されていった東京招魂社(後の靖国神社)を代表とする「護国神社」群、これによって成立した国家神道皇国日本、それに軍国主義日本帝国は一体のものです。

靖国神社など招魂社をもとにする護国神社は、それまでの伝統的神道の神社とは全く異質なものです。国家神道とは新興宗教であり、カルトといって差し支えないでしょう。日本国民の生と死までも支配管理するのです。日本国家そのものがカルトに嵌まり込んだのです。

事実として、日本ほど自国兵士の生命を極端に軽視して、使い捨ての消耗品とした国は無いでしょう。そうやって国民の生命とその死さえも利用管理しようとしてきたこの国家姿勢、並びに日本支配層の本音は、決して単に過去のものではないことは多くの方が気づいてきている通りです。

近・現代編の第3話第4話第5話で、ナチス・ファシズム、ソ連革命共産主義、イスラエル建国のそれぞれが、世界統一政府樹立に向けた実験だったと記しました。この実験によって無数の悲惨な犠牲者が生まれました。しかしその凄惨な犠牲者たちであってさえも、死後までは支配管理の檻の中に閉じ込められはしなかったでしょう。

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ところが日本は違っていたのです。明治以降の日本も世界統一政府樹立に向けた実験国家であった点は同じでしょうが、日本の場合は悲惨な犠牲者を出しただけでなく、その死さえも管理・利用したのです。

日清戦争の日本兵(1895年)
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ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第28話 ― 日銀創設時の世界

 複雑な部分があって未だに整理しきれてはいないのですが、日本の支配層で分からないところがありました。
 明治維新の中核組織が八咫烏の政治組織天忠党です。明治維新には外国勢力が大きく絡んでいますが、これは八咫烏が外国勢力を招き入れたとの視点も成立します。そして八咫烏が維新の実行部隊として、長州の田布施勢を活用したとも言えるでしょう。
 しかし明治維新後の廃仏毀釈で、本来の八咫烏の力が大きく削がれています。また八咫烏の中心の血族となる秦氏と田布施勢は仇敵の間柄でもあったようです。一口に八咫烏と言ってもひと括りには出来ないのです。
 本来は、八咫烏は「藤原氏の朝堂独占」を阻止するために結成された秘密結社です。ところがいつの間にか八咫烏に藤原の血脈が入り込み、大勢力になってもいます。
 明治維新は、天界レベルではそれまで地上権力を掌握していた八幡系から、武甕槌命(タケミカヅチノミコト)を中心にした春日系に権力の座が移動しています。武甕槌と繋がっていたのが、ハイアラーキではホワイト・ロッジ闇組織であり、「光の銀河連邦」です。日本では武甕槌は藤原氏を守護しています。ここではこれらの勢力を[裏南朝系]と表現してきました。
 八咫烏の中にも[南朝系]と[裏南朝系]が混在しており、概ねではありますが、明治維新で力を獲得したのは[裏南朝系]で、八咫烏の[南朝系]が追い込まれたように思えます。
 また、明治で日本銀行が設立され、それによってロスチャイルドの日本金融支配が成立するのですが、ロスチャイルド家が繋がっていたのは、武甕槌以下の[裏南朝系]であったように見受けられます。アレクサンドル2世暗殺から起き上がってくる世界潮流と、日本の動きもやはりどうやら連動していたのです。
(seiryuu)
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ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第28話 ― 日銀創設時の世界


世界潮流が起き上がる 〜その背後での支配層の争い


1881年、世界の歴史はまた大きく動き出しました。この年の3月、執拗な暗殺攻撃を受けていたロシア皇帝アレクサンドル2世が遂に暗殺されてしまいました。

事前から周到に仕組まれていたことではあったのですが、暗殺グループに(ハザール)ユダヤ人女性がいたことから、現在のウクライナ地方を中心にポグロムの嵐がロシアに吹き荒れていきます。

このアレクサンドル2世暗殺とそれに端を発したポグロムが世界に激甚な影響を、もっと言えば巨大な世界潮流を発生させたのです。このユダヤ問題のポイントの出だし、近・現代編の5話に記した潮流です。即ち、

①ハザール・ユダヤ人の米国(特にニューヨーク)への大量移民からの米国の「乗っ取り」
②ロシア国内革命運動激化からのロシアの「乗っ取り」
③ハザールユダヤ人移民初期シオニズムからのパレスチナでのイスラエル建国

以上の世界潮流でした。

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この世界潮流の背後にあって、周到にこの準備を進めていたのがロスチャイルド家、これには1815年のウイーン会議からのロシア皇帝への確執があったことは、その後縷々見てきた通りです。

ただし、この皇帝暗殺を機に起こされた世界潮流は、単にロスチャイルドの私怨に留まらず、真の広義のシオニズム運動であり、ハルマゲドン計画の一環になっていたのです。つまりロスチャイルド家の動きの更に背後にはホワイト・ロッジ、ブラック・ロッジの存在があったのです。

この1881年は、7月に米国のガーフィールド大統領も暗殺されています。『悪魔に愛された女』によればこの大統領暗殺は粛清でした。ブラック・ロッジ、フリーメイソンに所属していたガーフィールドは組織から粛清されたとなっています。

ジェームズ・ガーフィールド
(第20代アメリカ合衆国大統領)
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さらにこのガーフィールドの粛清の前には、組織の大幹部であった「ロスチャイルド氏」も、所属していたブラック・ロッジの組織から粛清されたことがこの本では記されてあります。

1773年に世界革命秘密会合を主催したロスチャイルド初代マイヤー・アムシェルは、ブラック・ロッジに所属しその支援を受けていて、表のイルミナティに分類されます。

しかしこの1881年頃には既にロスチャイルドの本家の方は、ホワイト・ロッジ闇組織、つまり裏のイルミナティに移っていたような気がします。粛清されたロスチャイルド氏はスパイとしてブラック・ロッジ、フリーメイソンに残留していたことが発覚して、組織から粛清されたように思えます。もしくはアレクサンドル2世の暗殺も関係があったかも知れません。

死の床のアレクサンドル2世
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世界の支配者層は先ずほぼ例外なく何らかの秘密結社に所属しています。アレクサンドル2世はブラック・ロッジに所属していて、そのアレクサンドル2世がロスチャイルド家の命令で暗殺されたので、その報復としてブラック・ロッジ組織に所属していた「ロスチャイルド氏」が粛清された可能性もあるように思えます。

ともあれ、ホワイト・ロッジとブラック・ロッジの対立、そしてホワイト・ロッジ内、ブラック・ロッジ内の対立と言った支配層グループの中での対立があったことがうかがわれます。

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