アーカイブ: ユダヤ問題

ユダヤ問題のポイント(日本 昭和編) ― 第4話 ― ヒトラー政権誕生

こういった言明をしたのがリンカーンでした。

 事実、殆どの人々にとってお金は、自分がそれに仕える主人です。決して人々はお金の主人ではありません。有り体にはお金の奴隷にさせられています。
 この構図は一般庶民だけではなく、上級政治家や王や皇帝であってさえもほぼ当てはまります。ネイサン・ロスチャイルドが「英国の玉座にある傀儡などどうでもよい。」とうそぶいたとおりです。この意味では、名称は王や皇帝であっても真の意味の王や皇帝ではないのです。
 日本の現首相など典型的です。彼の東北新社などを巡る一連の問題と騒動を見ても、「何と節操と倫理観を欠くのか…」と呆れると同時に「何ともセコくいじましい」とも感じます。彼が“寄付等の名称で受け取った金銭”の額は、庶民からすれば高額です。それでも“世界に影響を”などの観点からすればほんとに「セコくいじましい」のです。日本首相もつくづく“お金の奴隷”だと感じます。大きな観点や思想や理念など皆無で、お金と周囲の利害関係だけに振り回されながら、自分の利益だけ追求しているな、と。
 日本首相などとは「月とスッポン」以上にかけ離れていて、比較の仕様もないのがヒトラーでした。彼に関する側近の記録本を読み、ヒトラーが大天才であったことをつくづく感じました。お金に対しても、彼はお金を自在に操ることができた真の意味の皇帝でもありました。
(seiryuu)
————————————————————————
ユダヤ問題のポイント(日本 昭和編) ― 第4話 ― ヒトラー政権誕生


地上世界の出来事の背後には霊的世界が 〜待望されていたヒトラーの登場


1933年1月末、アドルフ・ヒトラーがドイツ首相に就任。この年の続く3月の選挙でナチスは勝利し、3月末には、新国会で全権委任法を可決させました。こうやってヒトラー独裁の道が怒涛のごとく展開していきます。これで第2次世界大戦へのお膳立てが整ったとも言えるでしょう。

全権委任法成立後に演説を行うヒトラー
Wikimedia_Commons [CC-BY-SA]


さて、ここで改めて「未来戦争計画書」と呼ばれるアルバート・パイクが1871年8月15日付けでジュゼッペ・マッチーニに送ったとされる書簡の内容を見直してみましょう。

書簡を受けたジュゼッペ・マッチーニはイタリアの革命家・政治家で、ブラック・ロッジの地上組織である表のイルミナティの機関であるバーバリアン・イルミナティの二代目首長(バーバリアン・イルミナティの初代首長は創始者であるアダム・ヴァイスハウプト)です。

アダム・ヴァイスハウプト
Wikimedia Commons [Public Domain]
ジュゼッペ・マッチーニ
Wikimedia Commons [Public Domain]
アルバート・パイク
Wikimedia Commons [Public Domain]

書簡を送ったアルバート・パイクは米国南北戦争南部連合の将軍で「黒い教皇」と呼ばれた人物で、バーバリアン・イルミナティの三代目首長です。以下が「未来戦争計画書」と呼ばれる書簡の内容です。

第一次世界大戦は、ツァーリズムのロシアを破壊し、広大な地をイルミナティのエージェントの直接の管理下に置くために仕組まれることになる。そして、ロシアはイルミナティの目的を世界に促進させるための“お化け役”として利用されるだろう。
第二次世界大戦は、『ドイツの国家主義者』と『政治的シオニスト』(パレスチナ地方にユダヤ人国家を建設しようとする人々)の間の圧倒的な意見の相違の操作の上に実現されることになる。その結果、ロシアの影響領域の拡張と、パレスチナに『イスラエル国家』の建設がなされるべきである。
第三次世界大戦は、シオニストとアラブ人とのあいだに、イルミナティ・エージェントが引き起こす、意見の相違によって起こるべきである。世界的な紛争の拡大が計画されている……
キリストの教会と無神論の破壊の後、ルシファーの宇宙的顕示により、真の光が迎えられる……
ヘブライの館2より)

この書簡の日付は1871年8月で、第1次世界大戦の勃発が1914年8月ですから、第1次世界大戦の勃発の40年以上前になります。ヒトラーのドイツ首相就任では60年以上前となります。

地上世界の現場での第2次世界大戦の内容のあらましが合意に至ったのが、1921年の「国家間条約」となるでしょう。1921年の「国家間条約」の本当の内容は既に見てきた通り2019/12/16の竹下さんの記事で明らかにされています。

1921年、イギリスの首相ロイド・ジョージらと会う皇太子裕仁親王
Wikimedia Commons [Public Domain]

実際の第2次世界大戦勃発は1939年のドイツのポーランド侵入によって始まりますが、その内容のあらましは、地上世界の現場でも既に決まっていたことになります。

さらに霊的世界の現場では、第2次世界大戦は地上世界よりずっと以前から計画されており、それが物質化・現実化されるように地上世界の人物たちに働きかけられていたということになります。

霊的世界での計画が、地上世界では延長されたり内容が変更する場合も多くあるにしても、地上世界での大戦争や大事件の大元は霊的世界の反映であるわけです。これは第2次世界大戦にも当てはまるということです。

ヒトラーは第2次世界大戦勃発のために待望されていた人物と言えるでしょう。

» 続きはこちらから

ユダヤ問題のポイント(日本 昭和編) ― 第3話 ― 仕組まれた世界大恐慌

 現場があります。それぞれの現場があります。例えば銀行業務の場合、窓口の担当といった現場が、部課長クラスの現場が、支店長クラスの現場が、頭取クラスの現場が、銀行の所有者の現場が、といった具合です。
 窓口業務の現場担当では、上の部課長クラスの現場の業務内容は分かりません。ましてやその上のクラスの現場の業務内容は知る由もないです。これがピラミッド構造の中身です。
 そしてこの構造では、上のクラスの現場では下のクラスの現場の業務内容は一応把握していてコントロールすることになっています。ただし、最上部が下のクラスの現場をきちんと把握してコントロールできているか?といえばそうでもなく、様々な混乱が生じているのが現実でもあるでしょう。
 この地上世界に生じてきた様々な戦争や革命や大事件の背後には、天界のクーデターと連なるハルマゲドン計画があったことを見てきました。天界や霊界の現場が地上世界に現出していたわけです。
 上のクラスとしては天界や霊界、そして宇宙人グループたちがあったわけですが、この地上世界でハルマゲドン計画の進捗を担う役割を果たしてきたのがロスチャイルドを筆頭にする国際銀行家と言えるでしょう。その意味で、ロスチャイルド家とはハルマゲドン計画を現実物質化する“首”の部分と言えるかも知れません。首がなければ頭も胴体も機能しないので非常に重要な部分を担っていたといえるでしょう。
 そのロスチャイルドたちが自分たちの権勢、力を密かに増大させつつ、第2次世界大戦へ導いていくべく勃発させたのが世界大恐慌です。昭和期の初期、意図的に起こされた大恐慌の嵐が世界中を覆い尽くしました。
(seiryuu)
————————————————————————
ユダヤ問題のポイント(日本 昭和編) ― 第3話 ― 仕組まれた世界大恐慌

1929年ニューヨーク、株式の大暴落 〜大活況から大不況へ


昭和期が幕を開け、大日本帝国、関東軍による満洲の植民地化が着々と進んでいる中、地上世界は全般としては大災厄の波に飲まれていっていました。世界大恐慌の大波です。世界大恐慌は『世界史の窓』の冒頭部分では次のように記されています。

1929年10月にアメリカ合衆国の戦間期で始まり、1933年にかけて世界に広がった経済不況(恐慌)のこと。発端はアメリカ合衆国のウォール街にあるニューヨーク株式取引所で1929年10月24日(後に「暗黒の木曜日」といわれる)に株式が大暴落、以後長期にわたり、かつアメリカだけでなく世界中に不況が拡がった。1930年代に入っても景気は回復せず、企業倒産、銀行の閉鎖、経済不況が一挙に深刻になって、1300万人(4人に1人)の失業者がでた。恐慌はおよそ1936年頃まで続いた。またこの恐慌が世界に波及し、ヨーロッパ各国から日本などアジア諸国にも影響を受け、資本主義各国は恐慌からの脱出策を模索する中で対立を深め、第二次世界大戦がもたらされることとなった。

世界恐慌時の各国の1人あたり国民所得
Author:Will O'Neil [CC BY-SA]

1929年の米国ウォール街にあるニューヨーク株式取引所での株式の大暴落に端を発した嵐、それが欧州、そして世界中を覆う大不況の世界大恐慌となった。無論この大恐慌の嵐は日本にも甚大な影響を与えています。そして、この大恐慌が第2次世界大戦の導火線となったとしているのです。

記事の「アメリカ合衆国の戦間期」とは、第1次世界大戦が終結した1918年から第2次世界大戦が始まる1939年の期間のことを基本的には指します。この間わずか20年程度です。

世界史の窓』では米国がこの期間に、「特に1920年代に世界一位の経済大国として発展」「アメリカ経済は大量生産・大量消費の経済社会を出現させ、同じく20年代は永遠の繁栄といわれる」状態になったとしています。

狂騒の20年代と呼ばれた時代のニューヨーク〔1926年〕
Wikimedia Commons [Public Domain]

この大景況・繁栄の最中から一挙に1929年の株式大暴落から奈落の底に転落していったのです。

この米国から端を発した世界大恐慌が第2次世界大戦を導いたわけですが、この大恐慌はもちろんのこと、突発的・偶発的・自然発生で起き上がったわけでは全くありません。意図的に計画の上で世界大恐慌は起こされたのです。

その主な目的は無論のこと第2次世界大戦を勃発させるためです。ただし、大恐慌から世界戦争に至るにはその順序があります。竹下さんがどこで語られていましたが、

大恐慌のさなかにはどこの国も戦争を起こすことはありません。その力がないからです。戦争が起こされるのは大不況が一旦落ち着き景気が好転しかけた時、この時に他国の富を収奪するため戦争が起こされる。

これが順序のようで、事実こう動くのです。

» 続きはこちらから

ユダヤ問題のポイント(日本 昭和編) ― 第2話 ― 満洲国設立へ

日本は今もなお「満洲」の呪縛に囚われたままであるように私には見えるのです。
 その著書『満洲暴走 隠された構造』のプロローグの中でこう語られているのが安冨歩氏です。この呪縛とは日本に植え込まれた「植民地根性」であり、「立場主義」であるとの見解です。
 またこの呪縛とは、満洲を植民地化、つまり都合で支配したことを意識化せず眼をつむっているうちに自分が「被植民地化」している事実、支配されてしまった不自然な状態にあることに気づかず、その被植民地の状態で与えられた「立場」のみを重視し、本来の自分とは遠く隔絶した状態に縛られている事実、こういう言い方もできるでしょうか。

 安冨歩氏はこの著書の中で語ります。
この植民地化された魂は、日本を、特に支配的な地位にいる政治家・官僚・大企業の経営陣などなどを、覆い尽くしています。
 現在の日本、まさにこの安冨歩氏の指摘どおりです。現在開かれている国会中継を視聴すれば、「植民地化された魂」が、そして支配された立場からその立場を死守しようとする「立場主義」が、続々と延々と登場しているのに気づくでしょう。
 話の論点をすり替えて誤魔化して事実を隠蔽しようとし、事実が表に現れていないうちは平気でウソを通し、事実が表に出てきてもなお誤魔化し隠蔽しようとする…。
 彼らが必死で守ろうとしているのはいかに大きな既得権益があるかは知りませんが、支配される中で与えられた小さな部所であり、立場に過ぎません。
 そして、そうやって彼らが本来の自身の生命を削りながら奴隷根性で立場を死守しようとする行為は、法治国家や民主主義を破壊していく暴走でもあるわけです。
 こういった現在の日本の姿は満洲支配呪縛の継続でもあったようです。

追記:石原莞爾のドイツ留学の年号(正しくは1922年)とそれに続く一文を訂正させていただきました。
(seiryuu)
————————————————————————
ユダヤ問題のポイント(日本 昭和編) ― 第2話 ― 満洲国設立へ

満洲支配への背景


満洲、その地域についてはウィキペディア記事では以下のようにしています。

おおむね北辺はスタノヴォイ山脈、南辺は長城、西辺は大興安嶺、東辺は鴨緑江・図們江 (豆満江) の内側を想定している。しかしながら、マンチュリアの範囲は歴史的変化に伴い、その範囲は伸縮していた。

日本で満洲と呼ばれる地域は、満洲国の建国時の地域全体を意識することが多く、おおよそ、中華人民共和国の「東北部」と呼ばれる、現在の遼寧省、吉林省、黒竜江省の3省と、内モンゴル自治区の東部を範囲とする。

満洲(マンチュリア)の範囲
Wikimedia_Commons [Public Domain]

日本から言えば、いわば満洲とは満洲と蒙古、つまり「満蒙」とういうことになります。この地域に流れる中心河川がアムール川です。このアムール川(黒竜江)にちなんで玄洋社(=白龍会)の内田良平が中心となって黒龍会を組織したのが思い出されます。

要するに、八咫烏並びにその政治組織である五龍会は、早くからアムール川(黒竜江)の流域地域を掌握していくことを見越して行動していたということでしょう。

また、明治天皇(大室寅之祐)の曾孫を自認・自称する張勝植氏が主張する“高句麗”は、地域としてはその範囲は更に大きく拡大しますがこの満洲、満蒙の地のことも指しています。

張勝植氏のその著書のP32~33にて“高句麗”は中国(清国)を含み、ユーラシア大陸の大半、南はコーカサス山脈から北はウラル山脈、その一帯より東側は全て“高句麗”の版図だとしています。

また、蒙古のチンギス・カンも高句麗家そのもので、その象徴が八咫烏だと語っています。

チンギス・カン時代のモンゴル帝国最大版図
Wikimedia_Commons [Public Domain]

張勝植氏が奉じていて、明治天皇(大室寅之祐)も奉じていたとされる「教旨」とは、神ではなくハイアラーキーの計画書でした。また一方、八咫烏の背後にはハイアラーキー、銀河連合、星の教団がありました。

要は、日本が朝鮮半島から満蒙の地を併合していくのはハイアラーキーや銀河連合の計画であり、八咫烏にしても明治天皇(大室寅之祐)もその司令に順じていたということになるでしょう。

さてこの満洲ですが、安冨歩氏は満洲地域には、その経済社会形態が他の中国の各地域のそれとは大きく異なった特徴があると指摘されています。

安冨歩氏は『満洲暴走 隠された構造』の中で満洲の経済社会構造の研究をされた石田興平教授と米国の地理学者・人類学者・歴史学者G.W.スキナーが、第2次世界大戦直後に四川省で行ったフィールドワークに基づいて提唱した「定期市ネットワーク」を比較します。

そのことによって満洲と華北などの他地域での中国地域の経済社会形態の相違と満洲の特殊性を明かしています。


» 続きはこちらから

ユダヤ問題のポイント(日本 昭和編) ― 第1話 ― 闇から始まった昭和期

 テレビで流れてくる映像では、くたびれた背広をまとったちょび髭の老人、ぼやっとしたような風情で、他者とのやり取りでは「あっ、そう」と短く答え、決して自分の意志ではなく、周囲の求めに応じて物事に対処してきたと思わされる人物、その人が昭和天皇でした。現実のドロドロの人間関係とは全く隔離した、清浄な温室育ちで野心のかけらもないというイメージです。
 しかし本来の昭和天皇の実像は、テレビ映像でイメージ付けされた像とは異なっていたことが分かってきています。非常に鋭い知性の持ち主で、几帳面かつ神経質、そして野心家、これが本来の昭和天皇の実像に近いでしょう。
 昭和天皇の上位には堀川辰吉郎があったのは間違いないところで、彼は世界天皇となるべく動いていたことが見て取れます。
 しかし、昭和天皇もやはり大きな野心を有していた模様です。朝鮮半島に引き続いて満洲・蒙古を併合し、世界に君臨する大日本帝国の統治者としての天皇を昭和天皇は見越していたようです。内閣や軍部からあげられてくる計画や素案に、単にメクラバンを押して「おまかせ」にしていたわけでは決してないのです。
 背後には堀川辰吉郎がいてその代役としてですが、日本と英国、米国は裏で手を結ぶことになる第2次世界大戦の内容に合意する「1921年国家間条約」を調印したのは当時の裕仁親王です。極秘事項を所持している昭和天皇が、内閣や軍部に種々の指示を出すなど強い影響を与えていたのです。
(seiryuu)
————————————————————————
ユダヤ問題のポイント(日本 昭和編) ― 第1話 ― 闇から始まった昭和期

歪な形で始まった昭和期 〜暴力テロを闇に葬る意味と影響


1926年12月25日、大正期は終焉し昭和期が始まりましたが、それは大正天皇の崩御によるものではありませんでした。このあたりについては「歴史の襞の中から」シリーズで見てきたところですが、改めまして。

ガーター騎士団の正装をした大正天皇
Wikimedia_Commons [Public Domain]

時期としては1922年以降でしょう、大正天皇が行方不明となります。徳川慶喜たちの拉致・軟禁によるものでしたが、宮中では大正天皇が行方不明となり、その対応に苦慮していたと思えます。

ところがその大正天皇の消息が明らかになります。大正天皇の拉致・軟禁を実行した側である徳川慶喜の下にいた瀧山一族が不満を抱き、昭和天皇宛に脅迫?の手紙を届けたのです。

これで宮中は状況を把握し、大正天皇が帰城することはなく大丈夫との判断を下し、大正期を終焉させ、昭和期を始動させたと考えられます。決して正式な形での大正期の終焉と昭和期の始まりではなく、非常にいびつな形での昭和期のスタートだったのです。これが昭和に常に黒い影を落とさせていたように感じます。

大正天皇が崩御したのではなく、何らかのアクシデントによって行方不明になっていたことぐらいは、宮中のものの全員は無論のこと、政府高官や宮内庁職員などは皆知っていたでしょう。

大正期はわずか15年足らずでしたが、大正天皇排除の動きは早くから始まっていました。1921年の裕仁親王の欧州外遊、そして摂政着任など、その大正天皇排除の動きの末の現れです。

1921年、イギリスの首相ロイド・ジョージらと会う皇太子裕仁親王
Wikimedia Commons [Public Domain]

もうこのあたりで既に大正天皇の社会的生命はほぼ失われていたのです。宮中の人間、政府高官、宮内庁の職員、これらの者の中には大正天皇排除に積極的なもの、消極的なもの、排除に反対だがやむを得なくついていったもの、様々だったでしょう。

しかし、事実を知るものは全員が大正天皇排除の共犯者にさせられたことになります。共犯者である以上は、いよいよ沈黙が強いられます。この大きな問題は、都合次第では正式に即位した天皇でさえも首をすげ替えられる力を有するものが存在していたということです。

そして現に、天皇の身近に天皇に暴力を加えられる装置が備えられていたことです。天皇に危害を加えられるのは、天皇の身近なものなのです。

実際には、大正天皇の排除や暗殺命令には昭和天皇その人が関与していたと見るのが自然です。そしてその関与はある部分は成功です。しかしその大正天皇に向けた刃は諸刃の刃です。いつ逆にその刃が昭和天皇に向けられるかも分からないのです。そして実際に昭和天皇の香淳皇后、そして皇太子候補数人にその刃が向いたようです。

裕仁親王と妃良子女王及び照宮成子内親王(1925年)
Wikimedia_Commons [Public Domain]

更にこれが問題なのは、暴力テロの首謀者や実行部隊が何らの咎めを受けず、闇の事件として葬られていることです。こうなってしまった以上、天皇は可能性としては暴力テロの標的になってしまいます。

昭和天皇は外見とは裏腹に野心的な人物のようです。しかし反面こうなると、天皇もどこまで自分の意志で動けるのか?誰かの代弁者のお飾りにならないか?ということが当然ながら問われてきます。

» 続きはこちらから

ユダヤ問題のポイント(日本 大正編) ― 第14話 ― 大正期の終焉

 外的世界だけでなく、個々人の内的世界を含めたこの私達の世界を通徹する根本法がヤマ・ニヤマ(禁戒・勧戒)と教えられています。そして、ヤマ・ニヤマの最も基礎部分となる法が非暴力です。今後築いていく私達の社会も、その基礎には非暴力が置かれなければいけません。これまで私達の社会は逆だったのです。暴力に支配される社会だったのです。
 人間の行為は身口意の三業の3つに分けられます。暴力という行為も身体による暴力、言葉(言論)による暴力、精神(思想統制など)による暴力という3種になります。また、個人による暴力と集団による暴力もあります。暴力とは法と秩序から逸脱した力の行使と言えるでしょう。同じ力の行使でも、それが法と秩序に基づくならばそれは暴力とは呼びません。
 1700年代後半からその展開を始めた世界革命(ヴァイシャ革命)は暴力革命でした。暴力によって生み出された社会体制は、やはり暴力をその基底に置くことになります。
 明治維新も世界革命の一環であり、間違いなく暴力革命でした。現に当時は京都を中心した暴力テロの嵐でした。暴力によって生み出された明治、そして引き継がれた大正期も暴力に振り回される社会だったと言えたでしょう。自分たちにとって意に沿わない都合の悪い人物や組織は、暴力でもって排除する行為が横行していたのです。
 この暴力テロの実行部隊の代表が、杉山茂丸が社主で頭山満が率いた玄洋社=白龍会だといって間違いないでしょう。別の言い方をすると裏社会を仕切っていたのが彼らだということです。伊藤博文の暗殺の背後には玄洋社=白龍会がいたことはこれまでに見てきた通りです。
 大陸に進出し、力による支配を計画していた八咫烏の目論見に反対していたのが伊藤博文でした。また、大隈重信が命を狙われて爆弾を投げつけられ脚を失っていますが、このテロ実行犯は玄洋社社員だったことは明らかにされています。ちなみに大隈重信は大正天皇の実父のようです。
 大正期を終焉させたもの、それはやはり暴力テロだった模様です。大正天皇ご本人が暴力テロを受けてしまったことで、大正期が終わったのが事実のようです。警備が厳しいはずの天皇がテロに遭遇、外部者がテロを成功できるでしょうか? 誰がそのテロ計画や実行に携わったかはおおよその見当はつくでしょう。
(seiryuu)
————————————————————————
ユダヤ問題のポイント(日本 大正編) ― 第14話 ― 大正期の終焉


大正天皇はポンコツ人間だったのか? 〜内部情報漏洩の意味


大正天皇が葬られた当時の多摩陵
Wikimedia Commons [Public Domain]

日本の大正期、それは唐突な印象で終了します。1926年12月25日に享年47歳にて大正天皇が崩御、これにて大正の終わりとされているのです。

その頃中国では張作霖が12月に北京で大元帥に就任し、中華民国の主権者であることを宣言していました。一般に大正天皇は元々病弱であった上に、脳病も発症していたとされます。そのため1921年には裕仁親王が、3月から9月の欧州外遊から帰国後には大正天皇の摂政についたとされます。

大正天皇のウィキペディア記事によれば、裕仁親王が欧州訪問に出発の頃には大正天皇は、著しく心身が不安定な状態にあった上に、しばしば記憶喪失状態に陥る状態であったとし、同年の10月には大正天皇の病状が深刻であり、事実上公務を行うことができなくなっている旨の発表がなされたとしています。

そして11月に、大正天皇に側近などが摂政設置について報告と了解を求めようとしたが、 «大正天皇は「アーアー」というだけで意思疎通できない状態であった。» としています。ところが11月25日に正式に皇太子裕仁親王が摂政に就任した際には大正天皇は抵抗の姿勢も見せ、 «また、12月には侍従に対し「己れは別に身体が悪くないだろー」と何度も話しかけたりしていた。» と記しています。

これらの記述を読むと 大正天皇は心身、そして脳も壊れたどうしようもないポンコツ人物ということになりそうです。

しかし少し違和感を覚えます。大正天皇に関して脳病のことまでも含めて、一般にも大正天皇の病状が深刻であると知られるような情報が流れていたようなのですが、なぜそのような情報が?

帝国憲法上は天皇は「神聖にして侵すべからず」の現人神のはずなのに、まだ40代になってほどない大正天皇の病状は脳病を含めて深刻だと一般人にも知られたらならば、天皇家の威信を大きく傷をつけることにならないか?

天皇を中心とした国家像にゆらぎが生じてしまうのではないか?

安定した国家運営を考えるならば、むしろ逆に病状が本当に深刻であるならば徹底してその情報は漏らさないようにするのでは?と思えるのです。

つまり、むしろ天皇家の威信を傷つけてでも宮内庁からして大正天皇を排除しようとしていたのでは?と思えるのです。

大正天皇はいわば“つなぎ天皇でした。明治編で見たように明治天皇は1910年台初めに朝鮮半島に移住し、その代理の表天皇として即位したのが大正天皇でした。そしてどう見ても大正天皇は周囲からも“無下な扱い”を受けているのですが、それは彼の出生に原因があったのでしょう。

2015/11/11の竹下さんの記事で、大正天皇は明治天皇(大室寅之祐)の側室の柳原愛子と大隈重信との子であったことが明かされています。要は大正天皇は血統としては全く北朝も南朝も関わりなく、天皇家の血筋を引いていないのです。

明治天皇・大正天皇・昭和天皇の系図
参考:時事ブログ 2015/11/1111/1311/15
Wikimedia Commons [Public Domain]
Wikimedia Commons [Public Domain]
Wikimedia Commons [Public Domain]
Wikimedia Commons [Public Domain]
Wikimedia Commons [Public Domain]
Wikimedia Commons [Public Domain]
Wikimedia Commons [Public Domain]
Wikimedia Commons [Public Domain]

» 続きはこちらから
1 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 62