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独逸の伯林で見た、聞いた、感じた社会問題、教育問題 ~第53楽章 喜怒哀楽に振り回されない・・

あけましておめでとうございます。今年もよき年でありますように。
2020年うるう年ですね。世界には500万人くらいの2月29日生まれがいるそうです。

ドイツのベルリンの大晦日から新年のカウンドダウンは、毎年花火で大変な騒ぎになりますが、今年も爆竹や爆弾のような音で大変でした。

第53楽章は、喜怒哀楽に振り回されない・・です。
(ユリシス)
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犬も恐怖を感じる、爆竹花火によるカウントダウン


ドイツのベルリンでは、大晦日近日だけしか花火を許可されていませんので、多くの方がこのときとばかりに花火を買い求めます。爆竹の音、さらに、ズドーンという重低音の音(ドイツ語でボラーという爆弾のような花火ですが・・)にとてもびっくりします。特に犬は恐怖を感じるらしく、亡くなってしまった犬もいたようです。小さな子供さんがいるご家庭にはおすすめができないベルリンのカウントダウンです。我が家は4回目のベルリンの大晦日になりますが、ベルリンの地区によっても違いがあるものの、ベルリンの中央寄りに引っ越したことで、以前の郊外方面よりは花火打ち上げの凄まじさがより感じられました。

このようにベルリンの子供達は、このときとばかりに爆竹花火を楽しそうに購入してしまいます。


そして、カウントダウン近くになると、このような状況です。上に投げるのではなく、横に投げるので危ないことになってしまいます。


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れいわ新選組の木村議員、舩後議員の活動を振り返る 〜「ふたりとも1期か2期経験した議員くらいの仕事をすでにされている。」

 れいわ新選組の山本太郎氏が、2020年に向けての活動を語るとともに、2019年を振り返るインタビューを受けていました。2019年夏の参院選では、山本太郎氏は99万票を獲得した「史上最高得票数の落選議員」となりましたが、れいわ新選組は2人の重度障害者を国会に送り込みました。
 当初「重度障害者に何ができる」と叩かれながら、お二人は国会で目に見える実績を上げておられました。
まず、お二人の議員は登院する前から、国会をバリアフリーに大きく動かしました。またお二人の議員活動の足かせになっている重度訪問介護サービスに対して付された「厚生労働省の告示523号」という制限に目を向けることができました。この人権を無視した告示があるために人間として当たり前の通勤や通学など多くの活動が不可能にさせられています。
 木村議員の委員会での様々な質問から、知られていなかった障害者の方々の日々の苦難が明らかになっています。中でも、多目的トイレや新幹線のバリアフリー化についてはすぐに改善に向けて動き始めました。
 舩後議員は、障害を理由に「定員内不合格」になってしまった子どもさんの話を聞き、早速に文教科学委員会で取り上げられたそうです。2019年の舩後議員の活動は「自身が選ぶベスト質疑」のハイライト動画がありますが、わずか2分足らずの動画を見て、唸ってしまいました。こんな強烈な質問はなかなか無い。さらに、この質問の奥には、大学受験が効率よく規格化された学生を選別するものであることが透けて見えるのです。本当に子ども達一人一人を大切にする教育を考える時、この舩後議員の質問は重要だと気づかされます。
(まのじ)

注)以下、文中の赤字・太字はシャンティ・フーラによるものです。

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配信元)


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引用元)
週プレNEWS
(前略)
── 舩後(ふなご)靖彦議員、木村英子議員は「重度障害者に何ができる」とバッシングされながらも、国会の委員会質問で確実に実績を上げています

山本 どれくらい活躍できるかについては想定もしていませんでした。ですが、ふたりは初登院する前からバリアフリー化という形で国会を動かしています。通勤や仕事中に使えない「重度訪問介護」の制度について議論が始まったのも、ふたりの当選があってこそです。

それだけじゃない。木村議員は国土交通委員会に所属していますが、委員会質問ですでにふたつの実績を上げました。ひとつは、障害者用トイレについて。もうひとつは新幹線のバリアフリー化について。これに対して赤羽一嘉(あかば・かずよし)国交相はすぐに見直す方向で省内に指示し、JR各社を集めた検討会も設置するそうです。木村議員の質問によって、現実に物事が動いている。

舩後議員の対応も早い。私は全国を回って聞いた声を両議員に届けているんですが、沖縄に行った際、知的障害の子供を持つご両親が「定員内不合格」について話してくれました

障害があるという理由で、定員に余裕があるのに高校が受け入れてくれないという訴えです。本人は学びたいのにそれが叶(かな)えられない。この声を伝えると、舩後議員は自身が所属する文教科学委員会で、早速その件を質問してくれました。ふたりとも、1期か2期経験した議員くらいの仕事をすでにされている
(以下略)


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誰もが感動する中村哲氏の偉業 ~「後悔しない人生」において、「結婚こそが、人生のほぼ全てを決定してしまう」

竹下雅敏氏からの情報です。
 中村哲氏の偉業は、誰もが感動するものだと思うのですが、氏の生涯を羨ましく思う人も居るのではないでしょうか。昨日の記事で、“「年をとると時間が早く過ぎる」本当の理由は、人々が惰性で生きているから”だとコメントしたのですが、死の直前に誰もが口にする「後悔のことば」は、“もっと自分らしく生きたかった”というものらしい。
 私は、「宇宙で最も幸せな人間だ」と本当に思っているので、人生に後悔はありません。もっとも「宇宙で最も幸せな人間」は、ものすごくたくさんいるわけですが…。私の妻も、当時無職で、預貯金ゼロどころか奨学金の返済という借金まで抱えていた私と結婚して、困難な人生を歩んできたことを全く後悔していないです。
 そうした私達夫婦から、「後悔しない人生」について何かアドバイスが出来るとしたら、それは、「結婚こそが、人生のほぼ全てを決定してしまう」ということです。私が妻と最初に出会った時に、“この人と結婚できれば、自分は幸せになれる”と思いました。そして彼女と結婚できないなら、一生独身でいるつもりでした。なぜ、そこまで思えたのかというと、私たちが夫婦になることは、決まっていることだと確信していたからです。そして、確信通りに私たちは3年後に出会い、二人とも即座に結婚を決めました。
 私たちの人生は万事この調子で、後悔するも何も、“これ以外の人生はあり得なかった”という生き方を貫いています。なぜなら、私達は人生で一番大切なものは、“まずは夫婦で、次に家族だ”と確信しているからです。この信念が揺らいだことは一度もありません。
 もしも皆さんが私たちと同じように、“小世界で心温まる絆”こそが、幸せな人生の全ての全てだと悟れば、あとは全てを神にゆだねると良いでしょう。「夫婦の愛」は、「神への全託」に優ります。
(竹下雅敏)

注)以下、文中の赤字・太字はシャンティ・フーラによるものです。

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信じて生きる山の民〈中村哲医師絶筆〉
―アフガニスタンは何を啓示するのか
PMS(平和医療団・日本)総院長/ペシャワール会現地代表 中村哲
出典)
(前略)
最初に通されたのは村のゲストハウスで、各家長約200名が集まって我々を歓待した。
(中略)
「専門家の諸君にお任せします。諸君の誠実を信じます。お迎えできたことだけで、村はうれしいのです。」
 
終末的世相の中
こんな言葉はめったに聞けない。彼らは神と人を信じることでしか、この厳しい世界を生きられないのだ。かつて一般的であった倫理観の神髄を懐かしく聞き、対照的な都市部の民心の変化を思い浮かべていた。
――約十八年前(01年)の軍事介入とその後の近代化は、結末が明らかになり始めている。
(中略)
巨大都市カブールでは、上流層の間で東京やロンドンとさして変わらぬファッションが流行する。見たこともない交通ラッシュ、霞のように街路を覆う排ガス。(中略)… 泡立つカブール河の汚濁はもはや河とは言えず、両岸はプラスチックごみが堆積する。

国土をかえりみぬ無責任な主張、華やかな消費生活への憧れ、終わりのない内戦、襲いかかる温暖化による干ばつ――終末的な世相の中で、アフガニスタンは何を啓示するのか。

見捨てられた小世界で心温まる絆を見出す意味を問い、近代化のさらに彼方を見つめる。

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「年をとると時間が早く過ぎる」本当の理由は、人々が惰性で生きているから!〜 “あと3年しか生きられない”と本気で思って生きると、時間は子供の時のようにゆっくりと進みはじめる!

竹下雅敏氏からの情報です。
 「人の眼球は,視線が止まった状態である固視と,視線を移動させるサッカードと呼ばれる短時間(20~80ms程度)で高速(100~500度/秒程度)の眼球運動を繰り返しながら,視覚情報を取り入れている」のですが、固視の状態においても,実は眼は細かく動いていて、このような眼球運動を「固視微動」と呼ぶそうです。
 面白いことに、“視覚像が消えないのは,この固視微動のおかげ”で、網膜上で静止した像を作り出すと、視覚像がすぐに見えなくなるのだそうです。ひょっとしたら、サマーディに熟達し変性意識状態にすぐに入れる人は、眼球を一点に固定し、「固視微動」を起こさないようにすることが出来るのかも知れません。
 学生の時に山口県で、泊まり込みのアルバイトをしたことがあるのですが、仕事が終わって喫茶店に入り、コーヒーを飲んでいた時のことです。コーヒーカップを左手に持ち、右手をカップの下に添えた姿勢で目をつぶっていました。疲れていたのでしょう。小さな光の点が見え、しばらく眺めていました。光の点をずっと見つめていて意識ははっきりとしていたのですが、気付いて我に返ると、まわりの世界が完全に消えていたことが分かりました。
 喫茶店にある時計を見て驚きました。2~3分ほど“光の点”を見ていたつもりだったのですが、50分も経っていたのです。しかも、コーヒーカップを両手に抱えたままの姿勢で、身動き一つしなかったのです。店の客は、私だけだったのですが、どうやらこの奇怪な状況を、店の2人の女性に見られていたらしい。なにか、化け物を見るような2人の視線をいまだに思い出します。
 眼球が完全に固定されると、本人の中では時間が止まります。本人は数分のつもりでも、実際は何時間も何年も経っていたということが起こるわけです。先の私の喫茶店での50分間は、現実世界から遊離し、この間の記憶は、“光の点”以外に何もありません。現実世界の体験と記憶が少なくなると、「時間が早く過ぎる」といえるのかも知れません。
 なので、“全身を耳にする”ように生きると、時間はゆっくりと進みます。一言で言うと、「年をとると時間が早く過ぎる」本当の理由は、人々が惰性で生きているからなのです。“あと3年しか生きられない”と、本気で思って生きてください。時間は子供の時のように、ゆっくりと進みはじめます。
(竹下雅敏)

注)以下、文中の赤字・太字はシャンティ・フーラによるものです。

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「年をとると時間が早く過ぎる」本当の理由が遂に判明! 米大学教授の新仮説に衝撃…鍵は“サッカード運動”!
引用元)
(前略)

米デューク大学の技術エンジニアであるエイドリアン・ベジャン氏が、加齢とともに時間が“加速”する現象について一つの興味深い仮説を提唱したという。
 ベジャン氏は、時間の加速現象は「若い頃の方が映像を素早く捉え、それを記憶する能力が高い」ために生じると考える。
「若い頃、日々が長く感じられるのは、若い脳は1日のうちにより多くのイメージを受け取っているからです」(ベジャン氏)

(中略)

通常の大人はサッカードと呼ばれる眼球運動を1秒間に3〜5回、200〜300ミリ秒の間隔で行う(固視)。この固視が長くなると映像が不鮮明になり、10秒以内に知覚は消滅してしまう。すると記憶には残らない。

(中略)

幼児では固視の間隔が短く、サッカード運動がより頻繁に起こる。そのため、より多くのイメージを捉えることが可能となる。一方で、加齢とともにサッカード運動の頻度は落ちていくため、同じ時間で捉えられるイメージの量が減ってしまうというわけだ。

(以下略)

西田幾多郎氏のいう「絶対無」とは、「真の自己」=「絶対存在(神)」のこと ~さらにこれらを越えたより高度な三昧

竹下雅敏氏からの情報です。
 一見して支離滅裂な西田幾多郎の文章なのですが、実はそんなに難しい事を言っているわけではありません。「絶対無」=「真の自己」なのです。わかりにくいのは、「真の自己」が「自己」の一部で、究極の存在であること。なので、「絶対存在(神)」=「真の自己」=「絶対無」ということ。
 これでわかる人は、かなりの哲学者です。なので、もう少し説明します。インドの哲人クリシュナムルティは、“あなたは世界だ”といいました。ヨーガ行者が深い瞑想で体験する世界は、内側に向かうほど「自己」が反映したものになります。“想い”と“現れる世界”が一致して来るのです。中には、「宇宙即我」の神秘体験をする行者も居ます。
 しかし、ヨーガの三昧の体系では、例え「宇宙即我」を体験しても、それは究極のサマーディである「無種子三昧」ではありません。サマーディで体験する世界において、あなたの敬愛する神が現れたとします。その世界が、私たちの3.0次元と同様に、背景がありその中に神が見えるなら、それは「有伺定」です。
 さらに高度な「無伺定」は、背景が無く、まるで真っ暗な宇宙空間の中に、影の全くない神の姿が見えます。しかし、例え神の姿だとしても何か対象が見えている限り、それは究極のサマーディではありません。
 「無種子三昧」とは、いかなる対象もみえず、まるで真っ暗な宇宙空間の中で、身体もないのに目を見開いているような体験です。「無種子三昧」によって行者は、ついに「ジーヴァ(個我)」に合一し、「人」から「神」へと昇進します。
 残念ながら、地球上の宗教はここまでの段階しかありません。さらに、「アートマン(真我)」との合一。そして、「プルシャ(神我)」との合一、さらにこれらを越えたより高度な三昧があります。
(竹下雅敏)

注)以下、文中の赤字・太字はシャンティ・フーラによるものです。

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西田幾多郎(にしだ きたろう)の無、最終回、絶対矛盾的自己同一 (No.662 10/03/04)
引用元)
(前略)
絶対無について西田は次のように書いている。
 
「絶対無の自覚といへば、絶対に無なるものが如何にして自覚するかなどといはれるかも知らぬが、私の絶対無といふのは単に何物もないといふ意味ではない。我々の自覚といふのは自己が自己に於いて見るといふことである。しかも自己として何物かが見られるかぎり、それは真の自己ではない、自己自身が見られなくなる時、即ち無にして自己自身を限定すると考へられる時、真の自己を見るのである。即ち真に自覚するのである。かかる意味に於いて絶対に無にして自己自身を限定するのを絶対無の自覚といふのである。そこに我々は真の自己を見るのである。」(西田幾多郎全集第六巻、「私の絶対無の自覚的限定といふもの」6-117)
(中略)
道元の禅はもちろん、自己が自己を見ることで、真の自己(道元の場合は仏)を見ることを目指す。しかし、そのとき、「真の仏を見たい」という思いをも捨て去った全くの無心にならないと、それは見えてこないものであった。自分が座禅していることさえ思わない無心、それと同じことを西田は考えているのだ。
(中略)
私の絶対矛盾の自己同一といふのは、宗教家の所謂神に相当すると言ってよい。絶対矛盾の自己同一の世界に於いて私と汝が相対するのである。神はその像の如くに我々を造ったといふが、神を媒介として私が私であり汝が汝である。」 (以下略)