第1次オイルショックへの対応
1973(昭和48年)10月、突如日本をも襲った第1次オイルショック、これに対応したのが当時の田中角栄政権でした。公的というか、表に出ている情報での第1次オイルショックの原因は、アラブ産油国が、第4次中東戦争を機に石油公示価格の引き上げを宣言し、更に中東戦争でのアラブ側の支援のため、親イスラエル政策を採る諸国に対する石油輸出の制限を発表したことによるとされます。これに対する田中政権の対応は以下のようだったとされます。
73年12月25日、日本は禁輸国リストから外されたとの報告が入ります。日本にとって中東の石油は生命線ですので、禁輸国リストから外されたことはなんとか日本の命脈を保てたということになるでしょう。ただ一方で、この時の中東の石油に対する田中外交にもキッシンジャーは難癖をつけたようです。
「『その油、米国が回してくれるのか』(田中角栄のふろしき)小長秘書官の証言(20) 」という題の日本経済新聞の2018/4/30の記事で、1973年11月15日に中東からの帰路で日本に立ち寄ったキッシンジャーと田中角栄首相のやり取りが以下のようにあります。田中角栄首相の秘書官の小長氏の証言からは、田中角栄首相の日本を守ろうとする強い覚悟が見て取れます。
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戦後日本で初めて公的に中国との関係改善に成功したのが田中角栄政権で、日中共同声明を調印したのは1972(昭和47)年9月でした。田中角栄首相は独自外交の米国圧力からの「自主路線」も展開しました。田中角栄首相は裏天皇グループではなかったと思いますが、明らかに米国からの自主独立派でした。現在日本は残存するネオコン勢力に引き回されて、共産中国との戦争が危ぶまれる状態です。戦後の日中関係改善の原点をもう一度見直すべきではあるでしょう。
2014年05月23日の(株)日立総合計画研究所の白井社長コラム第5回が印象に残りました。ここでは、日中国交正常化とは多くの先人の命がけの苦労と努力の結果実現したものであり、その当事者である周恩来首相、田中首相、大平外相たちを「井戸を掘った」人々と表現されています。日中平和友好条約について死の床にあった周恩来首相が、「中国と日本がどのように末永く仲良く国交関係を保っていけるか、この点を規定した条約でなければならない」と語ったとも。
私達も日中双方の「井戸を掘った」人々に思いを馳せることが大切なのでしょう。