注)以下、文中の赤字・太字はシャンティ・フーラによるものです。
Martin博士は(中略)... 12年間でこれまでに2500人以上にコンタクトを取ってきたという。
(中略)
「悟りというと宗教家に限定されるイメージだが、一般的な人の間にも悟っている人が山のようにいることが分かった」と同博士は語っている(中略)... その中から50人を選別し、一人当たり6時間から12時間のインタビューを行い、計量心理学的手法、身体的計測や実験を繰り返した。その結果、「悟っている」人々の間には一定の共通点があることが分かったという。
(中略)
PNSE(悟り、覚醒)とは、具体的にはどういう意識の状態なのだろうか。(中略)... PNSEに到達した人の最も共通した体験は、自我の感覚の変化だという。(中略)... PNSEの段階によって自我の感覚は異なるようで、初期の段階では自我は拡張し、あらゆるものに繋がっている感覚だそうだ。一方でPNSEの最終段階になると、自我という感覚は完全に消滅するという。その途中の段階では、自我は残っており、ときどきその自我に引き戻されるらしい。
(中略)
ほとんどの人が、思考が大幅に減少したと答えている。(中略)... この場合の「思考」とは、自分自身に関する雑念のことで、通常の人生を送る上で必要な思考による問題解決能力が減少したわけではない。(中略)... 感情も思考と同様にPNSEに入ると減少し、PNSEの段階が進めば進むほど減少していくという。
(中略)
PNSEに入ると、雑念が減少していくので、過去を思い出したり、未来を思い悩んだりしなくなり、その結果、今、目の前にある事象に集中するようになる。(中略)... 認知に関するもう一つの大きな変化は、外部刺激に対する心の反応の変化だ。(中略)... PNSEの段階が進めば進むほど、外部刺激に対する反応を自分でコントロールできるようになるという。そして最終段階になれば(中略)... 外部刺激にただ気づくという反応になるらしい。
(中略)
Martin博士は次に、通常意識の人が何をすればPNSEに入ることができるのかを調べた。その結果、「一般的に思われているほどPNSEに入るのは難しくない。自分に合ったアクティビティさえ見つけることができれば、多くの人がPNSEに入れる」という結論になったという。「PNSEに入ることよりも、入ったあとで、新しい意識と自分の人生の折り合いをつけることの方が、よほど大変だ」と同博士は指摘する。
(中略)
常に欠乏した意識から、常に幸福に満たされた意識へ。人類は今、大きな変化の扉の前に立っているのかもしれない。
(以下略)
記事に書かれているように、“一般的な人の間にも悟っている人が山のようにいる”のです。また、“一般的に思われているほど悟りを得るのは難しくない”のです。現在は、宇宙、および天の川銀河のセントラルサンのヒメミコ様から、常に光が降り注がれている状態なので、近い将来、多くの人が悟りを得ることになると思っています。
以前の記事で説明したように、「私」=意識・心・身体なのですが、インドの哲学には、3つの従属要素(グナ)という概念があるのです。サットヴァ(純質)、ラジャス(激質)、タマス(暗質)と言います。サットヴァは軽快で、照らす性質を持っています。ラジャスは刺激的で活動的であり、苦の本質です。タマスは、抑制的で鈍重な性質を持っています。
「私」=意識・心・身体は、この順に、サットヴァ・ラジャス・タマスになっているのがわかると思います。人間が他の動物と違うのは、心が働き過ぎており、心を刺激するものが多過ぎるという点です。心は思考、感情ですが、特に思考が多過ぎるのです。考え過ぎる人ほど苦しみます。
「私」=意識・心・身体の中で、ほとんどの人は、「私」を心と身体だと勘違いしています。一番重要な意識(気づき)を無視しているのです。
「悟り」を得るのに、瞑想は大変有効な手段です。瞑想の本質は、心と身体の活動状態を減らすことです。そうすることで、“快”を本質とする意識(気づき)の割合を増やしているのです。なので、ことさら静かに座って座禅を組む必要はありません。日常生活の中で、ただ自分の心と身体に気づいていれば良いのです。日常生活そのものを瞑想的にすべきなのです。そうすることで、苦しみの原因である心の働きを低下させることができます。
子供の頃は、ゆっくりと時間が流れていたと感じる人は多いでしょう。なぜでしょうか。子供は、“今”を生きています。しかし、考えるようになって、将来を思い描くようになり、その思い描いた将来のために努力するようになった時、 「自我」が生まれます。心の中に、“理想の自分”という「自我」が生まれたのです。
もっと良い猫になろうと努力している猫を見たことがあるでしょうか。自分の努力が足りない、だから俺はダメなんだ、と嘆いている猫を見たことがあるでしょうか。この意味で、猫は「自我」を持っていないのです。
記事では、悟りの最終段階になると「自我という感覚は完全に消滅する」と書かれていますが、これは努力して変わらなければならない「理想の自己像」を持っていないことを意味します。すなわち、悟りを得た人は“あるがまま”の自分に安らっているのです。簡単に言うと、猫のように生きているわけです。
「自我」の消滅というのはこうした意味であって、自他を区別する概念が無くなったという意味ではありません。