内田良平と李容九の「日韓合邦」運動 〜韓国併合で憤死した李容九
1909年10月26日、韓国前統監伊藤博文が暗殺されるや、日本は「前統監の暗殺を機に、朝鮮の抗日運動を抑えることを口実に」(世界史の窓「
安重根/伊藤博文暗殺事件」)その翌年1910年8月29日、韓国併合条約を締結し韓国を併合し、植民地としました。この
日韓併合の重要人物として“いの一番”に揚げられるのが内田良平です。
黒龍会主幹 内田良平(右側)
編集者註:写真左の人物は大本教主輔 出口王仁三郎、中央は玄洋社の総帥 頭山満。
内田良平については、「明治34年(
1901)
黒竜会を創立、大陸進出を唱えた。
韓国併合の黒幕として活躍、のちに満蒙(まんもう)独立運動を推進。」 (
デジタル大辞泉)とある通りです。
先に八咫烏直属の五龍会の黒龍会と混同されることの多い内田良平が創設した黒龍会について。
黒龍会を英語で「ブラックドラゴン」と表記されるのには内田良平は不満があったようです。『歴史が眠る多磨霊園』の
「内田良平」記事では黒龍会は「黒龍江を前に、雲を呼び風を望む高大な志をこめて命名した」とありますよう、黒竜江省のアムール川が黒龍会命名の基にあります。
黒竜江省とロシアとの国境を流れる
アムール川(黒竜江)
さて、
内田良平は杉山茂丸の口利きによって1906年に伊藤博文が韓国統監として渡韓の際に韓国統監府嘱託となり、伊藤博文に随行します。
その
韓国内での内田良平の活動は、「明治40年(
1907年)
には、『
一進会』
会長の李容九と日韓の合邦運動を盟約し、その顧問となった」(ウィキペディア「
内田良平」)とある通りです。ただし内田良平の韓国との関わりはその以前からもあったのです。
『歴史が眠る多磨霊園』の
「内田良平」記事で「
1894(M27)朝鮮半島で政府打倒に立ち上がった
東学党支援のため、玄洋社から朝鮮に派遣された。そこで『
天佑侠』を組織、革命戦線に加わる。」とある具合にです。
再渡韓した
内田良平と「一進会」会長の李容九が共に進めていた日韓の合邦運動ですが、これは日本と韓国が対等平等の立場で合邦して、一つの大帝国とするというものです。
編集者註:ツイートに添付されていた資料画像は、口語訳の箇所を
拡大表示で確認しやすいように、シャンティ・フーラが差し替えました。
この資料は、
アジア歴史資料センターで公開されているもので、国立公文書館、外務省外交史料館、防衛省防衛研究所から提供を受けた歴史資料(近現代における日本とアジア近隣諸国等との関係に関わる日本の歴史的な文書)ということです。
この日韓合邦運動が大きな働きとなったのが、
1909年12月、「
内田などが李容九とともに『一進会会長李容九および百万会員』の名で『
韓日合邦建議書(韓日合邦を要求する声明書)』
を、韓国皇帝純宗、曾禰荒助韓国統監、首相李完用に提出した」(ウィキペディア「
内田良平」)ことです。
編集者註;このツイート主は、
一進会とは日本人が「操縦」していた団体であり、
一進会の声明文は、実際は内田良平らが日本国内で作成し、発表直前に韓国に持ち込んだ自演である、と主張しています。(
ekesete1のブログ)
この「韓日合邦建議書」は「我が国の皇帝陛下と日本天皇陛下に懇願し、朝鮮人も日本人と同じ一等国民の待遇を享受して、政府と社会を発展させようではないか」との文言で閉められており、日本が韓国併合を正当化する文書として利用されることになるのです。
つまり日韓併合は、「自発的に朝鮮を併合してくれと申し出たのを、日本はそれを受けたものであって侵略でも強制でもなかったとする証拠として利用された」(歴史が眠る多磨霊園「
内田良平」)わけです。
そして
実際に行われたのは日韓対等の日韓合邦ではなく併合であったため次の結果になっています。
李容九は「売国奴」と呼ばれ1912年に憤死、「内田は日韓併合後の政府の対韓政策には批判的で、後に『同光会』を結成して韓国内政の独立を主張している。」(ウィキペディア「
内田良平」)
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