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ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第23話 ― 渡来集団のサンカ

 私達にとって、教えられるなどして最初に植え付けられたイメージの影響力は、その後を決定づけるほど甚大です。最初に植え付けられたイメージがくびき・呪縛となって、そこから離れて自由になることは困難となるのです。
 私達一般人が植え付けられたサンカのイメージとは、“定住せず自然と一体になって山を川を移住する漂泊の民”で、どうもこの漂泊の民が縄文人の原日本人だというものでしょう。質素簡素に清貧生活を送る精神性の高い人々のイメージもあります。そして確かにこのような戸籍を持たず漂泊の生活を送る人々は存在したでしょう。
 しかし気をつける点があります。サンカと称された漂泊の生活を送る人々は、自ら自身を「サンカだ」と名乗ったのでしょうか? そうではないでしょう。
 彼ら漂泊の民をサンカと名付け、多くのサンカの物語を創作し、一般的なサンカのイメージを構築させたのが作家の三角寛氏でした。サンカの物語は他にも多くありますが、そのベースとなっているのが三角氏のサンカ物語でしょう。
 ただし、サンカの一般的なイメージの埋め込みは三角氏一人によるものではなく、三角氏のバックがいたというのです。そのバックこそがサンカ勢力だと落合莞爾氏は語ります。
(seiryuu)

注)以下、文中の赤字・太字はシャンティ・フーラによるものです。

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ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第23話 ― 渡来集団のサンカ

落合氏のサンカ分類 〜サンカの主力はタカス族?


國體忍者となったタカス族とアヤタチ』214頁で落合莞爾氏は「(京都皇統からの)伝聞の順に従い」と前置きし、「厳密に分類したわけでなく重なっているものもある」として詳しい考察は今後の課題と断りながらも、サンカを以下のように分類しています。

上田サンカ … 丹波亀岡の上田氏で渡来イスラエル支族から選ばれたアヤタチと自称する。
❷朝鮮サンカ … 古墳時代に朝鮮半島から渡来したツングースを主力とする族種をサンクァと呼ぶ。
❸小目名サンカ … 林業に携わる「ヤマゴ」で東南アジア山岳民を比喩的にサンクァと呼ぶ。
地サンカ … 稲作地帯で農業補助作業を行う「箕作」を意図的に山窩と呼んだ
❺山渡りサンカ … ステップ・ロードやシルク・ロードを経由して羅津(らじん)から渡来したタカス族を主力とする民族。
❻海渡りサンカ … 南島を経由して薩摩に渡来したタカス族。
タカス古代エジプトのミイラ職人の末裔で外科医、桶屋、臓器製薬業者


以上を見ると❺❻❼ともタカス、もしくはタカスを主力とする集団になりますが、続いて落合氏は次のように記しています。

私見ではこのの「タカス」がサンクァ概念の中心と考える。

古代エジプトのミイラ職人から発祥したタカスが、古くから全世界に拡散したのは、言うまでもなく広範な科学知識と精密な技術を体得していたからである。

古墳時代に日本に渡来したタカスが、大和朝廷のために基本設計をしたのが巨大古墳で、その築造に当たったのが『土師氏集団』である。また現場の土木作業員として働いたのは朝鮮半島の東岸から渡来したいわゆる“新羅人”である。

タカス族が古代エジプトのミイラ職人の発祥で、古墳時代に日本に渡来してきて、巨大古墳の基本設計をしたとの主張です。

また同書では、古墳の築造に当たった「土師氏集団」は小目名サンカ、土木作業員の“新羅人”は朝鮮サンカに当たるとしています。更には同書の225〜226頁に「造り酒屋にサンクァが多い」「上原勇作ら薩摩武士までも山窩と呼んでいた」ともあります。


これらの分析は今回は置いておきますが、ただ全体としてこの落合氏の説ならば、サンカとはもとを糺せば外国からの渡来集団がそのほとんどとなります。更には市街に定住していた数多くのサンカもいたことにもなります。

このサンカの見方は、“定住せず自然と一体になって山を川を移住する漂泊の民”との一般的なサンカのイメージとはかけ離れています。

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ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第22話 ― 「異界」との境界

「穢れ(けがれ)とは、忌まわしく思われる不浄な状態。死・疫病・性交などによって生じ、共同体に異常をもたらすと信じられ避けられる」
(ウィキペディア「穢れ」)

 この一文で共同体、つまり里の民は「穢れ」を忌み、里の外れに放逐しようとしてきたのが窺えます。
 里の民とは江戸時代でいうならば士農工商制度のうちにある民です。「里」の外は「異界」になりますが、その結界というか境界があります。川がその境界になる場合も多くあり、その場合は、川の内側は里で川向うは異界となっていたでしょう。
 そしてその境界に生活する人々もいました。「河原者」などと呼ばれていました。河原は昔は多くは葬送の場所で、遺体を棄てる場所でもあったのです。
 河原の住人は里から必然的に出てくる「汚れ」を処理する役割を担ったりしていました。死牛馬の処理や屠畜などのはその代表的なものです。それで「穢多」という蔑称がでてきたようです。また「河原者」には旅芸人なども含まれ、「河原乞食」と呼ばれていました。
 一方、里の民に対して異界の民がいました。その最たる存在が異国人です。謎の山窩(サンカ)もそうでしょう。境界の住人が異界の民と繋がった窓口的な役割を果たした様子でもあります。
(seiryuu)

注)以下、文中の赤字・太字はシャンティ・フーラによるものです。

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ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第22話 ― 「異界」との境界

蘭癖と天忠党の関係 〜蘭学者の起こり


外国勢力を招き入れ「英領日本」を導いた人物群の一角に「蘭癖」と称された人々がいたことを前回見ました。蘭学者や九州の外様大名などで、外国勢力と彼らは繋がっていました。その「蘭癖」の代表が薩摩の島津重豪。重豪の子である奥平昌高・黒田長溥や、曾孫の島津斉彬」とのことでした。

島津重豪とその 曾孫の島津斉彬は共にその娘を将軍家に嫁がせて権勢を振るったのですが、天忠党には「諸国同士」の同盟者として島津斉彬の名が上がっています。

蘭癖大名の筆頭・島津重豪
Wikimedia Commons [Public Domain]
島津斉彬
Wikimedia Commons [Public Domain]

天忠党は八咫烏の倒幕と親政を目的に結成された政治組織であり、天忠党こそが明治維新の中核組織であったことは既に度々見てきました外国勢力を招き入れ「英領日本」を導いた「蘭癖」の一群と、天忠党は協働していたということでしょう。

天忠党図の下部には天忠党の仲間、もしくは下部組織として薩摩以外にも筑後久留米藩、肥後藩、筑前黒田藩、豊後岡藩、以上の九州の藩名が上がっています。この中、特に注目すべきは筑前黒田藩でしょう。

筑前黒田藩(福岡藩)はバテレン大名の黒田孝高(官兵衛・如水)の息子で同じくバテレン大名の黒田長政から始まっています。ウィキペディアの「福岡藩」には次のようにあります。

「10代・斉清は、江戸時代後期、蘭癖大名として世に知られ、肥前長崎の黒田家屋敷に何度も往来して見聞を広げている。」

11代・長溥は、薩摩藩・島津氏からの養継嗣。正室は斉清息女、純姫。父や養父と同じく蘭癖大名であった。」

黒田藩(福岡藩)黒田長溥
Wikimedia Commons [Public Domain]

蘭癖島津重豪の子である黒田長溥とは、筑前黒田藩(福岡藩)の11代藩主であったわけです。バテレン大名から始まり、蘭癖大名が治めていたのが筑前黒田藩で、長い期間にかけて外国勢力と繋がっていたと見るのは自然でしょう。

また 筑前黒田藩の7代と9代は「御三卿・一橋徳川家からの婿養子」ともあります。 筑前黒田藩が注目なのはバテレン大名、蘭癖、島津氏と繋がっていたこともありますが、後の玄洋社に繋がっていくからでもあります。

秘密結社八咫烏の政治組織天忠党と蘭癖がどうやら深く関わっていた様子なのですが、一方この蘭癖に関して前回に挿入されていた「本物黒酒」さんのツイートには次のようにありました。

「蘭学者はもともと、出島に四足を供給する穢多で、その解体と肉加工に従事する間に蘭語や徳語や英語を覚え、通訳・翻訳家・蘭医になった人々。特に鉱脈に詳しい山窩が英米に喜ばれ、外患誘致した」

この内容によると、蘭癖の中でも蘭学者は被差別部落民の穢多から元々は出来上がり、その中でも鉱脈に詳しい山窩が重要な役どころになっていたとの見解です。

サンカとして紹介された人々の暮らし
毎日新聞社「毎日グラフ(1954年3月31日号)」より
Wikimedia Commons [Public Domain]

山窩といえば前回記事で昨年12月26日の竹下さんの記事から「日本のサンカと呼ばれる勢力が日本のゴールドを海外に流出させて、それが『アメリカ独立、フランス革命、ナポレオン戦争、そして、永世中立国スイスの誕生』に繋がった」とあるよう、サンカが外国勢力と深く繋がり、協働する勢力であったことを見ました。

果たして秘密結社八咫烏と蘭癖、被差別部落民、サンカがどのような関係にあったのか?が気になります。

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ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第21話 ― 蘭癖

 イギリス東インド会社を中心とする外国勢力がインドと中国を征服・蹂躙後、引き続き日本を侵略の標的としたのは自然なことです。
 明治維新とは英領日本の完成でもありました。こう見ると日本は受け身で外国勢力からの侵略を受けた側に見えます。無論その側面も強くはあります。
 しかし一方的に日本全体が侵略されたわけではありません。日本の中に積極的に外国勢力を引き入れて日本支配に導きながら、自分たちの支配力・権力・権勢を高めるのに務めてきた人物群があります。
 昨年12月26日の竹下さんの記事には、日本のサンカと呼ばれる勢力が日本のゴールドを海外に流出させて、それが「アメリカ独立、フランス革命、ナポレオン戦争、そして、永世中立国スイスの誕生」に繋がったとありました。
 これだと江戸時代の早い段階で日本の中で外国勢力と深く繋がり、協働する勢力があったことになりますが、幕末には外国勢力と繋がる日本の人物群の動きは顕著になっています。
 この人物群の最有名人が福沢諭吉です。万札の彼です。「天は人の上に人をつくらず…」の平等主義とされる彼が、外国勢力を日本に引きれ入れた一人です。
 先の12月26日記事のリンク先のるいネットには「福沢諭吉は、『賤業婦人の海外に出稼ぎするを公然許可すべき』という指示を天皇に与えました。」とあります。日本の婦女子を外国に売り渡させたのが諭吉というわけです。
 竹下さんはどこかで「紙幣に載せられる人物たちにまともな人間はいない」と語られていました、これはやはりどうも本当のようです。
(seiryuu)

注)以下、文中の赤字・太字はシャンティ・フーラによるものです。

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ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第21話 ― 蘭癖

オランダの実態 〜消滅していた国家


「2020年元旦をもってオランダは正式な国名ではなくなる。ネザーランドが正式国名となる」。このニュースが今年の1月に飛び交いました。2019年12月29日のYahoo!ニュースでは以下の解説がありました。

「オランダには、ネザーランド(Netherlands)とホーランド(Holland)という二つの呼び名がある。しかしホーランドは、ネザーランドとは異なり、それはまるでスペインを“マドリード”と呼ぶようなものであり、首都アムステルダムを含むある一定の地域しか含まないことになる。ネザーランド(Netherlands)は、オランダ12州の総称であるのに対して、ホーランド(Holland)は、アムステルダムを含む2州の地域の呼び名でしかない。」

ホーランド、つまり日本語表記ではオランダとは、アムステルダムあたりの地域名でしかないということです。

日本では、鎖国した江戸時代を含めてずっとオランダという国と貿易を今日まで続けてきたことになっています。しかし実際は、日本の貿易相手はオランダという国家ではなくオランダ東インド会社だったのです。


事実として江戸時代のある時期には、ナポレオンに征服されてオランダと呼ばれていた国家はなくなっていました。日本はオランダ人と貿易をしていたわけではないのです。元々がオランダ東インド会社は世界初の株式会社であり、多国籍企業です。オランダ東インド会社の本拠地がアムステルダムでありここが本社、日本のオランダ商館とはオランダ東インド会社の日本支社という関係になります。

アムステルダムとは、フェニキアを本拠としていたカナン族の黒い貴族たちが地中海から世界支配を目論み、本拠を移してきた地です。彼らはアムステルダムから更にイギリス乗っ取りの攻勢をかけた歴史があります。

オランダ東インド会社の本拠地がアムステルダムにあることを考慮すれば、オランダ東インド会社とはカナン族、つまりブラック・ロッジがその主体となった組織であったと見るのが自然でしょう。

Author:MaCRoEco [CC BY-SA]

日本編 前触れ2で見たように、江戸時代以前の日本侵略の外国勢力の主力はイエズス会でした。その侵略は密かにかなりやばい段階まで進んでいました。それに豊臣秀吉に続き、徳川家康も強い危機感のもとイエズス会を日本から放逐し、”鎖国”と称される体制を築きました。

イエズス会はブラック・ロッジに属していました。ところが、日本はブラック・ロッジからの縁を切ったように見えてそうでは無かったのです。江戸時代も貿易を続けてきたオランダ東インド会社は、ブラック・ロッジが主力となる株式会社の多国籍企業だったはずなのです。

明治維新にホワイト・ロッジ及びホワイト・ロッジ闇組織の関与があったのは既に見てきました。しかし基本的な路線としては、外国勢力にとっての日本とはブラック・ロッジの“シマ”だったと見るのが自然でしょう。それで維新後の日本をデザインしたのがイエズス会の別働隊のカルヴァン派のグイド・フルベッキということになるのでしょう。


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ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第20話 ― 明治天皇のすり替え

 明治天皇のすり替えは、表の政体天皇と裏の国体天皇に分ける体制作りとセットになっています。この表裏の天皇制度が明治維新の隠された肝心部分となるでしょう。
 ハイアラーキーのハルマゲドン計画がありました。その計画は、天界レベルでは天照政権を転覆し、ハイアラーキーが全宇宙を支配するものでした。明治維新はそこに至っていくための重要ステップだったと見ています。
 地上世界においては、地球の霊的統治の中心は日本であり、日本の北朝天皇には天照大神の血統が父系を通して受け継がれています。ところがユダヤ系の南朝天皇を正統として、天照大神の血統を引く北朝天皇を排することは、天界での天照政権の転覆と連動することになるでしょう。
 地上では南朝皇統は元々ダヴィデ王の血統を引いているとし、そこに洗礼者ヨハネの「王家の血流」、更にカエサルの血流も合流しているとし、「世界統一天皇」を打ち立てるのが最終目標であったのではないかと思えるのです。
 明治維新とは「英領日本」の成立でもありました。しかし、英国女王では日本の国体は担えないので国体天皇は裏に配し、それと同時に表には大室政体天皇をたて、表裏の天皇制度を明治維新で作ったと見受けられます。そしていくいくは南朝皇統が正統であるとして、表裏に分かれた天皇制度を一つに統一する計画だったよう思えます。
(seiryuu)

注)以下、文中の赤字・太字はシャンティ・フーラによるものです。

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ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第20話 ― 明治天皇のすり替え

「小御所会議」での出来事 〜裏に回った睦仁親王


ウィキペディアの「東京奠都(てんと)」に次のようにあります。

「天皇は同年(執筆者註:新暦1868年)10月13日に江戸城へ到着、江戸城はその日のうちに東幸の皇居と定められ東京城と改称された。続いて同年10月17日には、天皇が皇国一体・東西同視のもと内外の政を自ら裁決することを宣言する詔(万機親裁の宣言)を発した。」

この天皇はいうまでもなく、睦仁親王からすり替わって明治天皇となった大室寅之祐でしょう。この後、一旦大室明治天皇は京都に戻りますが、翌年3月28日に東京城に入りこれを「皇城」と呼び皇居とします。以来今日まで江戸改め東京が首都となっています。

明治天皇の東京行幸
Wikimedia Commons [Public Domain]

明治天皇が東京に遷都したのは、京都には睦仁親王の顔を知るものが多数存在しており、大室寅之祐が明治天皇として京都に在るのはまずかったからでしょう。それではいつ明治天皇のすり替えが行われたか?

新暦1867年1月、孝明天皇は薨去と称して本圀寺に移ります。それによって一旦は睦仁親王が明治天皇として践祚したでしょう。その後、睦仁明治天皇が大室明治天皇とすり替わったのは、小御所会議の「王政復古の大号令」時と思われます。ウィキペディアの「小御所会議」の中に次のようにあります。

 新暦1868年1月3日未明に「公卿たちが退廷した後、待機していた薩摩藩・芸州藩・尾張藩など5藩の軍が御所9門を固め、摂政二条斉敬をはじめ要人の御所への立ち入りを禁止した後、明治天皇臨御の下、御所内学問所において王政復古の大号令が発せられた。新政権の樹立と天皇親政をうたい、摂政・関白・将軍職の廃止、新たに総裁、議定、参与の三職を置くなどの方針が発表された。」

同記事によると、旧体制における最後の朝議となる摂政二条斉敬が主催した1月2日の朝議で、長州の毛利氏の復権、三条実美ら5人の公卿の赦免、および岩倉具視ら謹慎処分解除が決定されます。朝議が終わり公家衆が退出した後、翌3日未明、御所を兵で固める中、岩倉具視らが主体となって「小御所会議」進め王政復古の大号令を発し、 摂政・関白・将軍職を廃止しているのです。

編集者註:明治天皇(奥)・山内豊信(中央左)と岩倉具視(右)・大久保利通(右下背)

つまり御所を兵で固めた中での「小御所会議」による摂政・関白の廃止であり、御所内の人員の総入れ替えが行われたように取れるのです。

ここで睦仁親王と大室寅之祐が入れ替わり、大室寅之祐が明治天皇になり、睦仁親王は本圀寺に移って裏に回ったのではないか?と考えています。これで表の天皇つまり政体天皇を大室寅之祐、裏の国体天皇を孝明天皇そして睦仁親王が担っていく体制が作られたと見えます。

明治天皇のすり替え、そして表の政体天皇と裏の国体天皇の表裏体制、これには薩長などの討幕派とされる要人や三条実美や岩倉具視などの公家だけではなく、公武合体の佐幕派とされる人々も関わったていたでしょう。

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ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第19話 ― 血流の混ぜ合わせ

 2019年7月4日の竹下さんの記事に取り上げられていた、Annさんこと伴野優子さんの集団ストーカーによる壮絶な被害、その記事の中にÈriさんのツイートの次の文言がありました。伴野優子さんの被害の理由です。

「その理由は、彼女の出自にあるそうです。彼女は満州王朝の正当な後継者である明治天皇の子孫・張勝植氏、さらには清王朝、大伴氏、ハプスブルグ家、ロマノフ王朝...などの血を受け継いでいるとのこと。張勝植氏の子孫だということは、金の継承者でもあるということです。」

 伴野優子さんは、明治天皇になった大室寅之祐こと張基元の血族(子孫?)のようです。それで彼女は、自分は張勝植氏同様に「清王朝、大伴氏、ハプスブルグ家、ロマノフ王朝...などの血を受け継いでいる」とÈriさんに伝えていた模様です。
 張勝植氏などは、自らは天皇の血統の上にハプスブルク家などの「王家の血流」が合流しているとしているのです。
 同様に、結論としては正統な南朝皇統とハプスブルク家などの「王家の血流」が繋がっていると提唱しているのが落合莞爾氏です。そしてその落合莞爾氏のバックにあって、その情報源となっているのが「さる筋からの仄聞」と表現されます京都皇統です。
 日本皇統に「王家の血流」が合流しているとする彼らを動かすものがあります。張勝植氏の表現では「教旨」です。
(seiryuu)

注)以下、文中の赤字・太字はシャンティ・フーラによるものです。

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ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第19話 ― 血流の混ぜ合わせ

大室寅之祐の母がハプスブルク家? 〜スエは大谷家か?


張勝植氏の『朝鮮名は張基元 朝鮮半島から[万人幸福の世界作り]を目指した明治天皇によると明治天皇の大室寅之祐、朝鮮名は張基元は張勝植氏の家系の4代目とのこと。

その家系の初代と2代目は欧州に渡り「教旨」に従い、ハプスブルク家を支援し、皇帝フェルディナント1世の隠し子の娘を保護その後2代目は3代目の正烈と保護した隠し子とその母親一家を伴って渡米し、アメリカ独立運動に携わったとあります。

そして「朝鮮名は張基元 朝鮮半島から[万人幸福の世界作り]を目指した明治天皇」の28、9頁に次のようにあります。

「2代目が保護してアメリカに亡命したフェルディナント1世の隠し子の娘が3代目の正烈と結婚し、生まれた息子が基元、つまり、長州・田布施の大室寅之祐であり、本当の明治天皇です。だから大室寅之祐は金髪気味なのです。」

張勝植氏の主張に基づいた家系図
編集者註:オーストリア皇帝フェルディナント1世(1793 - 1875年)は、ボストン茶会事件(1773年)のときにはまだ生まれていませんでした。
Wikimedia Commons [Public Domain]
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この本では「正統な南朝の天皇家に、カール6世のハプスブルク家の直系の血が入って、明治天皇が生まれたのです。」(29頁)と主張しています。

しかしここらの記述はぐちゃぐちゃのデタラメです。この本では2代目は皇帝フェルディナント1世の隠し子の娘を保護して渡米し、ボストン茶会事件を主導したように記しています。

しかしフェルディナント1世は1793年生まれとこの本では記しており、ボストン茶会事件の1773年には、隠し子の父さえ誕生もしていないことになります。

本当に大室寅之祐の父が3代目の張正烈で、母がフェルディナント1世の隠し子の娘と主張するならば、2代目と3代目が渡米し、アメリカ独立運動に携わったのは誤りになるでしょう。大室寅之祐が誕生したのは1850年、ボストン茶会事件の1773年から77年も経っています。

前回見たように大室寅之祐の実の父が地家(李・岸)作蔵、母が谷口(大谷)スエと見るほうがずっと説得力はあります。

前回の家系図に従えば地家(李・岸)作蔵が3代目の張正烈で、谷口(大谷)スエがフェルディナント1世の隠し子の娘とはなりますが、どうなのでしょうか?


いずれにしても気になるのが大室寅之祐の実の母であろう谷口(大谷)スエです。前回見たように、スエは父の谷口(大谷)昭顕と共に西円寺に入寺しているとあります。そしてネットでは、谷口(大谷)昭顕は本願寺の大谷家の血族であるような情報もあります。そうだとすればフェルディナント1世の隠し子の娘が大谷家に隠されたのか?ともなります。

また、スエが隠し子の娘ではなく本当に大谷家の血族ならば、その実子の大室寅之祐に皇統の血はいくらかは入っている公算が高いです。ウィキペディアの「大谷家」には次の記述があります。

「もともと公家の日野有範の子息である親鸞と、日野広綱(覚恵の父)の血統を引く東西両大谷家当主は、代々有力公家の猶子になる慣習があり、また、代々公家と通婚を続けており母系によっても公家化が進んでいった。このような経緯から明治維新後、両大谷家は華族に列し、ともに伯爵を授けられた。」

更に、記事では続いて大谷家の「近代以降の大谷家と皇室、華族(公家)間の通婚の例」も記されてあります。最初がいつかは不明ですが大谷家には皇統の血が入ってはいるのです。

ただし、スエが本当に大谷家の血族だったかどうかも判然としません。大室寅之祐の血統には情報が錯綜していて判断に苦しむのです。

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