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ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第31話 ― 頭山満のアジア主義

孝明天皇は崩御を装って堀川御所に。睦仁親王もまた、大室寅之祐とすり替わって堀川御所に。大室寅之祐は表の明治天皇(政体天皇)、睦仁親王が初代裏天皇(國體天皇)に。
 これは元々は落合莞爾氏が主張された説であり、その説が辻褄が合っていて事実として間違いないと見て、この明治編を進めてきました。
 堀川御所に移住した後の孝明天皇、そして睦仁親王の情報は当然ながらほぼ皆無です。ただし、その後の情報は皆無ながらも、孝明天皇については堀川御所移住前の情報はあります。しかし、睦仁親王については堀川御所移住前から情報は少なく、その後は情報が皆無なので、睦仁親王がどのような考えや思いをもって周辺に当たっていたかは分かりません。
 それでも推測は可能です。睦仁親王の皇子が堀川辰吉郎です。この堀川辰吉郎に仕えながら保護・育成したのが玄洋社であり、頭山満とされます。睦仁親王が自分と思いの異なる者に自身の皇子を託すはずがないので、玄洋社およびその総帥とされる頭山満の思想と行動を見れば、裏天皇の睦仁親王の考え・思い、そして睦仁親王と日本政府、および表天皇側との関係も垣間見えてきそうです。
 頭山満は、彼のウィキペディア記事を見れば「アジア主義者の巨頭」「日本に亡命したアジア各地の民族主義者・独立運動家への援助を積極的に行った」とあります。 頭山のアジア主義とは以下のようなものだったと思えます。
欧米支配から脱却したアジア共栄圏の構築がその目的。そのために日本は積極的に海外進出し、その中で日本は国際的地位を高め、英国から独立
この頭山のアジア主義は同時に睦仁親王の考えでもあったように思えます。
 ただし頭山は目的達成のために日本の海外での積極的武力行使、日本政府に対しても過激な行動に出てもいて、ここまでもが睦仁親王の考えに沿っていたかは不明です。睦仁親王が英国支配に屈辱を覚え、日本政府および表天皇と緊張した関係にあったのは確かだとは感じますが…。
(seiryuu)

注)以下、文中の赤字・太字はシャンティ・フーラによるものです。

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ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第31話 ― 頭山満のアジア主義

表裏明治天皇の大嘗祭執行 〜150年間の秘事


落合莞爾氏は『ワンワールドと明治日本』281~282頁に次のように記しています。

明治13(1880)年、京都皇統の住む堀川御所で将来の國體天皇となる男児が出生します。御父は、政体天皇の地位を長州藩奇兵隊士大室寅之祐に譲って堀川御所に入った皇太子睦仁親王で、当年29歳、御祖父は慶応2(1866)年の偽装崩御以来、睦仁親王とともに堀川御所に棲む孝明先帝で、ときに50歳です。

睦仁親王と大室寅之祐は明治4(1871)年11月17日に東京皇城の吹上御苑において揃って大嘗祭を執行されておられますので、ともに天皇と呼ばれて何ら差し支えない立場です。つまり「明治天皇は二人いた」のですが、大室寅之祐が表の明治天皇として表に出て、睦仁親王は「ウラの明治天皇」となったので、いわば國體明治天皇となったのです。

(中略)

明治20(1887)年に7歳になった睦仁親王の皇子は、堀川御所で豊子(のちの松下トヨノ)が生まれたのを機に博多に移り、(中略)...辰吉郎が福岡へ移されたのは、黒田藩の政治結社玄洋社の実質社主の杉山茂丸と社長の頭山満から武士的素養と気風を学び、小学校に通って下情に通じるためです。

ここには幾つもの重要なことが記されていますが、その一つで目を引くのが、表の明治天皇(政体天皇)となった大室寅之祐と初代裏天皇(國體明治天皇)となった睦仁親王が、同刻同じ場所(東京皇城吹上御苑)にて揃って大嘗祭を執行したという部分でしょう。

初代裏天皇となった睦仁親王
(25歳当時の明治天皇と紹介された写真)
Wikimedia Commons [Public Domain]

二人が同時に大嘗祭を執行、これは天皇践祚の儀式ですから記されている内容は非常に重要です。それと共に大嘗祭はあまりにも重要で、これに関して虚偽を記されるような性格のものではないので事実と見るしか無いでしょう。

ただし、こうなるとかなり多くの皇室関係者などは、二人の大嘗祭同時執行の事実を承知していたはずです。その上で、その事実を関係者は現在まで厳重に秘匿してきたことになります。150年間の秘事です。

さて、次いで気になるのが、ここでは堀川辰吉郎の生年が1880年となっていることです。堀川辰吉郎は自称では1884年生まれとのことでした。天皇そして八咫烏(サンカもですが)には戸籍が無いとのことで、このように生年がハッキリしないようなことになるのかも知れません。ただ堀川辰吉郎の生年は1880〜1884年の間と見て間違いないでしょう。

この時期は、世界的には1881年にアレクサンドル2世が暗殺され、ポグロムの嵐が吹き、共産革命運動を含めたシオニズムの世界潮流が生じ、日本では1882年に日本銀行が設立されています。世界と日本の歴史の分岐点になる時点で堀川辰吉郎が誕生したとも言えるでしょう。

Wikimedia_Commons [Public Domain]
Wikimedia_Commons [Public Domain]
Wikimedia_Commons [Public Domain]

その堀川辰吉郎が7歳の時に京都から福岡博多に移されたと落合氏はしています。それは辰吉郎が玄洋社の杉山茂丸と頭山満から「武士的素養と気風を学び、小学校に通って下情に通じるため」とのことです。玄洋社が辰吉郎を保護・育成していく役割を担ったということになるでしょう。

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ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第30話 ― 日露戦争の影の立役者

 自ら望んで「護国の鬼」となったある人物がいます。その人物の名前は明石元二郎ウィキペディア記事によると台湾総督に就任し、台湾軍の初代司令官も兼務し、周囲からは次の総理大臣を期待される中の1919年10月、志し半ばで郷里の福岡で55歳で死去したのが明石元二郎です。
 彼は死に際し「余の死体はこのまま台湾に埋葬せよ。いまだ実行の方針を確立せずして、中途に斃れるは千載の恨事なり。余は死して護国の鬼となり、台民の鎮護たらざるべからず」と遺言したとのこと。
 この遺言に従い、彼の遺骸は福岡から台湾に移され埋葬されたとあります。激烈な生涯を遂げたであろう明石元二郎は別のことで有名でもあります。日露戦争における諜報工作で、明石元二郎の諜報戦によって日露戦争で日本は勝利を得たともされるのです。日露戦争の影の立役者です。
 日清戦争が終結したのは1895年、日露戦争が開戦したのは1904年です。この間僅かで10年も経っていません。日本とロシア、その国力には大きな開きがあり、普通に見れば日本にとって日露戦争は無謀な戦争といえるでしょう。日露戦争で日本が有利に戦局を進められると見ていた国家はほぼ皆無だったのです。その中、意外にも日本は善戦をします。
 ただし、開戦の翌年には日本の戦闘体力はつきようとしていました。その状況下で、ロシアが日本に有利な講和に応じざるを得なかったのはロシアの国内事情からです。革命運動の激化による国内不安がそれで、これを喚起させたのが明石元二郎とされるのです。
 もともと日露戦争を強く誘導したのはロスチャイルドです。ロスチャイルドの帝政ロシア打倒作戦の一端が日露戦争だったのです。それと日本国内にも日露戦争を強く推し進める勢力がありました。それが福岡を本拠とする玄洋社です。明石元二郎も玄洋社の社員だったのです。
 玄洋社は八咫烏の政治組織です。自ら望んで「護国の鬼」となった明石元二郎は八咫烏の一人だったのでしょう。
(seiryuu)

注)以下、文中の赤字・太字はシャンティ・フーラによるものです。

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ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第30話 ― 日露戦争の影の立役者

日露戦争の帰趨を決めたロシア国内事情 〜戦闘では敗北していた日本


明石元二郎
Wikimedia Commons [Public Domain]

明石元二郎1904年に始まった日露戦争における日本側の最重要人物が彼でしょう。明石元二郎の諜報戦の働きによって日露戦争で日本の勝利が導かれた、ともされているのです。

日露戦争は、一応は日本が勝利したことになっています。しかし少なくとも、それはいろんな意味で「苦い勝利」と言わなければならないでしょう。

一例を上げます。戦死者数です。「人間自然科学研究所」のデータによると日露戦争の戦死者は日本側は11万5600人、ロシア側は4万2600人となっています。意外なことに日本はロシアの3倍近い戦死者をだしているのです。

戦死者の数を比較し戦闘という観点に絞って見るならば、敗者は明らかに日本側です。日本側は自国兵士を消耗品として扱った大苦戦のすえにようやくロシアとの講和に持ち込んだのです。前回リンク資料とした藤原彰氏著『天皇の軍隊と日中戦争』では次にある通りです。

兵士の生命を尊重せず、生命を守る配慮に極端に欠けていたのが日本軍隊の特徴であった。(中略)...日露戦争の場合は兵士を肉弾として戦い、膨大な犠牲を出した。火力装備の劣る日本軍は、白兵突撃に頼るばかりで、ロシア軍の砲弾の集中と、機関銃の斉射になぎ倒された。(中略)...旅順だけでなく、遼陽や奉天の会戦でも、日本軍は肉弾突撃をくりかえし、莫大な犠牲を払ってようやく勝利を得ている。

大国ロシアを相手の日本の戦争はやはり無理があったのです。

第一軍司令部と観戦武官
Wikimedia Commons [Public Domain]

しかし、日本が苦戦を強いられながらもロシア相手に有利な講和条約にこぎつけられた、これはロシア国内の革命運動による国内不安からだったのです。近・現代編の第6話に次のように記した通りです。

1904年には日露戦争が勃発します。風刺画に描かれていますが日本にとっては、国力がまるで違うロシアが相手で、尻込みするのを英国と米国にけしかけられた戦争といえるでしょう。日本は開戦近くまで戦費の調達すらままならなかったのです。ところが予想外にも開戦から日本は連勝を続けます。しかし翌年には日本の体力は尽きてきていました。

そのような1905年、ロシア国内では1月のガポン神父率いるデモ隊への軍の発砲にて多数の死傷者がでた「血の日曜日事件」をきっかけとして、第一次ロシア革命が起こります。「日露戦争当時、ユダヤ人たちは『ロシア政府の敗北』というスローガンを掲げて革命運動を展開」「第一次ロシア革命の嵐がロシア全土を襲った」(イワノフ氏)のです。国内が荒れ不安定化したロシアは、既に体力の尽きた日本と不本意ながらも米国の仲介で9月に講和条約を結びます。


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20/07/13 フルフォード情報英語版: アメリカは如何にしてバビロニア奴隷国家になったのか

 フルフォード氏が夏休みに入りましたので、これから3回分のリポートは最新時事情報ではなく、歴史のおさらいになります。
 昨年は「19/7/29 フルフォード情報英語版:世界将来設計機関の詳細な計画が、300人委員会に提示される」で、戦後日本で成功していた経済システムを見ていきました。また「19/8/5 フルフォード情報英語版:世界政府【創設】の交渉【に加わっている】諸勢力をざっくり見る」では世界の宗教や秘密結社を見ていきました。
 今回は、ハザールマフィアによる日本そしてアメリカ奴隷化計画の解説です。得意になって多くを語り過ぎた偽ユダヤの一人、ハロルド・ウォーレス・ローゼンタールは、今回引用されたインタビュー直後に不審死を遂げています。ということで偽ユダヤなんざ性質が悪いだけで、それほど賢くないのかもしれません。
(Yutika)

注)以下、文中の赤字・太字はシャンティ・フーラによるものです。

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アメリカは如何にしてバビロニア奴隷国家になったのか
投稿者:フルフォード

読者の皆様へのお知らせ:このニュースレターを含め、これから3回分は、筆者が毎年恒例の長期休暇に入るため、事前に書かれたものとなる。本当に重要なことが起こった場合は、最新情報をお届けするつもりだ。


フルフォード氏個人の戦いの出発点


ハザールマフィアとの私の戦いは、日本で始まった。最前線のジャーナリストとして30年のキャリアの中で、首相が次々に殺害され、成功していた経済システムが解体されていくのを見てきた。

私が取材を始めた1985年当時の日本は、一人当たりの所得が世界で最も高く、貧富の差が先進国の中で最も小さかった。これは何十年にもわたって二桁の経済成長を続けてきた結果であり、所謂「日本の奇跡」と呼ばれていた。

今や、日本はハザールマフィアのヘッジファンドとその奴隷どもに支配されている。現在の日本は、OECD諸国の中で貧富の差が米国に次いで2番目に大きく、平均的な日本人は何とか暮らすのがやっとだ。

私がこの国を解放する道へと歩み始めたのは、日本人がされてきたことへの怒りからだった。自分たちを奴隷にした連中へ、貢ぎ物を納めるのは止めるよう説得しようと試みたのだ。

これは個人的な【戦い】だ。私が知り、尊敬していた多くの日本人ジャーナリスト、中央銀行の行員、政治家がこの連中によって殺害されてきたのだから。このことを突き止めたのは、自分らはハザールマフィアの下請けだと告げた日本のヤクザのボスどもからだった。


より大きな視点


アジアの複数の秘密結社が、日本や残りの世界をハザール支配から解放するために手助けするとの合意に至り、我々と話をするべく、【それまで身を】隠していたあらゆる種類の秘密結社のあらゆる種類の人間が出てきた。

とりわけ有力な情報源だったのがマイケル・ヴァン・デ・ミーア博士、またの名をマイケル・メイリングというイギリスの上級諜報員だった。彼は私に幾つかの読書課題を与えてくれた。お蔭で私は、自分が何を相手にしているのかを正確に知ることができた。

ヴァン・デ・ミーアは何十年もハザール勢と戦ってきたが、その代償も大変なものだった。爆弾によって両足を吹き飛ばされたのだ。彼曰く、仕掛けたのはジョージ・ブッシュ・シニアとデイヴィッド・ロックフェラー配下の工作員どもだったそうだ。


彼が教えてくれた情報により、私が日本で直接目の当たりにしていたのは、ゆっくりとした奴隷化のプロセスで、アメリカでは既に完成したのだと気付くに至った。エイブラハム・リンカーン、ジョン・F・ケネディ、マーティン・ルーサー・キングなど大勢を殺したのはこの連中だ。

興味深いのは、大いに期待されたケネディ暗殺に関する公文書が公開されたにもかかわらず、彼の殺害を命じたのは誰だか、これを報じたメディアが一社もなかった点で……

それは、当時のイスラエル首相ダヴィド・ベン=グリオンだった。そしてベン=グリオンに命じていたのはハザールマフィアの連中で、エルサレムから世界を支配するために、人類の90%を殺害し、残りを奴隷にするという奴らの計画の一環としてだった。

ツイートはシャンティ・フーラが挿入

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ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第26話 ― 政府紙幣

 「覆水盆に帰らず」。コロナからの「復興」が盛んに喧伝されています。復興とは以前の状態に戻すこと、しかし時を戻すことは不可能。第一、コロナ前の日本に戻す? 政・官・民・マスコミが完全腐敗し機能不全を起こし、消費増税の大不況でGDPが大きく落ち込んだ日本、既にそうなっていた日本へ復興? 私達は前に向かって進んでいく以外にありません。コロナをくぐり抜けて、まともで豊かな日本を築く方向にです。
 そのための方策はあるか?といえばあります。というか、これ以外にない方策が政府通貨発行権の活用です。
 政府通貨❓ 現在の日本のお金が全て政府通貨だと思いこんでおられる方のほうが大多数に思えます。違います。貨幣、つまり100円玉等のコイン全ては確かに政府通貨です。しかし1000円札など紙幣は全て日本銀行券です。紙幣は政府通貨ではなく、紙幣発行権は実質として政府は日本銀行に奪われているのです。
 根本的には、この政府紙幣発行の権限を取り戻し、活用する以外には現在の日本の窮状脱出の術はないでしょう。山本太郎氏とその周辺はこのことを熟知されているでしょう。
 政府紙幣といえば、米国ではリンカーンのグリーンバックスです。外伝47に記していますが、政府紙幣が発行されると、
「政府は何ら費用を負担することなく資金を供給できることになる。それで負債はきれいさっぱりと完済される。そして商取引を維持するのに必要な金のすべてが確保されるのだ。
そうなれば世界の文明社会の歴史の中で前例がないほど裕福な政府となる」
のです。
 しかし政府紙幣の発行の絶対条件があります。政府への民衆の信用です。それには政府がすべての公的情報を全て透明にオープンに、特に金融経済は完全ガラス張りにするのが絶対条件となります。従って現在のウソと隠蔽しかない政府の退場が、政府紙幣発行への絶対的に必要な道筋になります。
 また、政府紙幣発行の根拠として、実は日本では既に政府紙幣が発行されたことがあるのです。「太政官札(だじょうかんさつ)」といいます。発行した主体者は三岡八郎(由利公正)です。
 彼は画期的な思想を有していて、(政府通貨発行のための)「国富」とは国民の労働力の結集(つまりGDP)であり、経済とは「蓄財」するものではなく「循環」させるものだ、としたのです。
 この思想は映像配信・家族の絆 〜夫婦(90)の中で語られていることと同じなのです。
(seiryuu)

注)以下、文中の赤字・太字はシャンティ・フーラによるものです。

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ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第26話 ― 政府紙幣



三岡八郎(由利公正)という人物 〜坂本龍馬の刎頸の友


「箱コネマン」さんのツイートのプロフィールには次のようにあります。

坂本龍馬は由利公正の明治政府紙幣「太政官札」発行の黒幕として、後に民営会社「日本銀行」の大株主となるロスチャイルド家(兵器会社ジャーディンマセソン商会、グラバー商会を傘下)に暗殺されたなど、史実を暴露するぜ!


坂本龍馬は言わずと知れた維新の最英傑ですが、由利公正を知っている方は少ないと思います。ところが、実は坂本龍馬が暗殺される少し前、坂本龍馬が越前藩(福井)の宿で昼夜を問わずに、今後の日本の行方に関して熱心に会話と議論を交わした相手が三岡八郎、後の由利公正なのです。


ウィキペディアの「坂本龍馬」の記事に次のようにある通りです。

後藤象二郎の依頼で、慶応3(1868)年10月24日に山内容堂の書状を持って越前へ出向き、松平春嶽の上京を促して三岡八郎(由利公正)と会談したあと、11月5日に帰京した。帰京直後に三岡の新政府入りを推薦する後藤象二郎宛ての手紙「越行の記」を記し、さらに11月10日には福井藩士・中根雪江宛てに三岡を出仕させるよう懇願する手紙を記している。

龍馬が暗殺されたのは、この「三岡八郎を新政府の要職に!」という懇願の手紙を出した5日後の11月15日(旧暦)のことです。龍馬の懇願もあり、三岡八郎(由利公正)は参与として、つまり官僚のトップとして明治新政府の財政を担当することになります。龍馬が惚れ込んだ三岡八郎(由利公正)は福井藩の財政を興隆させた文武両道の人物のようです。

江戸後期から末期、ほとんどの藩は財政的に激しい疲弊状態にありました。福井藩も同様です。その中で三岡八郎(由利公正)は藩の財政再建をかけて殖産興業を、より具体的には養蚕興業に取り組みます。その絹糸の貿易を外国と行い収益をあげ、福井藩は財政的には最も裕福な藩となります。

実際に勝海舟が神戸海軍操練所を設立する当たっては、「海舟は塾の資金調達のため龍馬を越前(福井)へ派遣、以前から親交のあった越前福井藩主松平春嶽から5千両を借りることに成功しました。」(日本銀行 高知支店HP)とのことです。

また慶応4(1868)年3月14日、天皇が天地の神々に誓うという形式で宣布された明治新政府の基本方針が五箇条の御誓文ですが、この明治新政府を船出させた五箇条の御誓文の原文が三岡八郎(由利公正)が起案した「議事之体大意(ぎじのていたいい)」五箇条です。


更にこの「議事之体大意」五箇条の基にあったのが龍馬の「船中八策」であり、「議事之体大意」は明治新政府を起動させるため、三岡八郎と坂本龍馬で練られた案だったようでもあります。坂本龍馬と三岡八郎は「刎頸の友」とも表現できる関係だったでしょう。

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ユダヤ問題のポイント ― 特別編(黄金の流出から)4 ― 水戸光圀の事業 ―

 「水戸黄門の全国漫遊記」で高名な水戸光圀こと徳川光圀。ウィキペディアの彼の記事でも、光圀が特異な人間であることは確かに見て取れます。
 記事の光圀の人物像に「肉食が忌避されていたこの時代に、光圀は5代将軍徳川綱吉が制定した生類憐れみの令を無視して牛肉、豚肉、羊肉などを食べていた。」とあり、後世の蘭癖大名を彷彿させます。光圀はノーマルな徳川の人間の枠に全くはまらないタイプでした。
 前回紹介した落合氏の説では、光圀は楠木正儀からの血流の摂津池田氏、天海の差配で水戸徳川の世子に繋がったとしています。この説が事実かどうかは分かりません。しかし事実として光圀が実施した事業は、陰謀計画実現に向けた工作になっています。
 また光圀が楠木正成の子孫だとすれば、彼の行動に納得がいくところも大なのです。光圀で特記すべきは「南朝が正統」と提唱し「大日本史」の編纂を始めたことです。
 江戸時代は代々北朝天皇で、光圀自身が皇室関係者であったのにも関わらずの、「南朝が正統」との光圀の提唱。これが水戸学になっているのです。
 ウィキペディアの記事を読めば、水戸藩は財政難にあったのに「大日本史」そして水戸学に、財政が傾くほどの莫大な資金を投入しているのが分かります。光圀から始まる水戸学が明確な狙いを持っていたのが明白です。
 水戸学のベースは朱子学でありミトラ教でした。天海と同様に光圀の出生がどうかは分かりません。しかしこれも天海と同様に、光圀が陰謀団に所属の中心人物であったことは間違いないでしょう。
(seiryuu)

注)以下、文中の赤字・太字はシャンティ・フーラによるものです。

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ユダヤ問題のポイント ― 特別編(黄金の流出から)4 ― 水戸光圀の事業 ―


光圀の出生は影の事柄 〜光圀は楠木正成の子孫?


水戸光圀
Wikimedia Commons [Public Domain]

さて、ボチボチ出発としようか。今日は黄金の話に戻らなきゃね。

いや、ご隠居その前に…、水戸光圀のこと…。
光圀は楠木正儀から連なる摂津池田氏の出、だったんで?

ふむ、前回の続きだね。
そうだね。寄り道になるが、水戸光圀に触れないわけにもいかないようだね。

へい。ご隠居は、光圀が摂津池田氏ならば色々なことの辻褄があうと語っていやしたが?

そうだね…、うーん、先ずだが、光圀の出生は通史上でもいわく因縁がらみなんだ。

へ? 光圀は確か徳川家康の孫でやしたね。
天下の将軍の孫の誕生が因縁がらみ?

光圀の父は家康の11男の頼房、水戸初代藩主だ。母は久子で、光圀は頼房の三男として誕生している。
ところが、母の久子は頼房の正式な側室でもなかったようで、光圀の兄もそうだったのだが、光圀を身ごもった久子を堕胎させるよう頼房は家臣の三木仁兵衛夫妻に命じる。この主命に反して三木仁兵衛夫妻は自分の邸宅で久子に光圀を産ませている。
詳しくは徳川光圀のウィキペディア記事の幼年時代を見れば分かるよ。

あ、ほんとでやすね。光圀もそうでやすが、兄も堕胎させるよう頼房は命じてやすね。これがホントだとすれば何とも薄情な父親だ。
で、兄も光圀も三木仁兵衛によって救われている。そして三木邸で出生した光圀は幼年期は三木邸で過ごしていやすね。それで光圀は4歳の時に水戸城に入城し、5歳で世子に決定したとありやすね。
ふーむ、しかし…、この話のたてつけなら、何とでも…。

そう、記事に「光圀になぜ堕胎の命が出されたかは不明」とあるが、家臣の邸宅で生まれ育ったと言うならば、光圀は本当に頼房の息子なのか? 確認は?
子供の入れ替えでも何でもできてしまいはするね。

そうでやすね。
これが通史説で、落合氏説は光圀は三木邸で生まれ育ったのではなく、摂津池田氏の子息として生まれ育ち、光圀が4歳の時に水戸城に入城し、5歳の時に世子に決定したとしているんでやすね。

そういうことだね。落合説が事実か否かは分からんが。ただ通史の話もとってつけたような何とも言えない内容ではあるね。
いずれにしても、光圀の出生と幼年期は世間の目と日の当たらない影の事柄だ。

ふーむ、そうでやすね。
何とも言えやせんが、落合説はありうる感はしやすね。そうだと裏で天海が動いていたということに…。
ご隠居、で、落合説が事実ならば色々と辻褄が合うという、その内容は?

その前に落合説は、光圀は摂津池田氏で楠木正儀の子孫としているが、編集者さんが指摘されたように、摂津池田氏は正儀の兄の正行からの流れではないかな。
まぁいずれにしても楠木正成の子孫ということになる。

落合史観による水戸光圀の系図

楠木正成の子孫…、あっそうか、湊川神社だ。
明治早々に、神戸に楠木正成を神として祀る湊川神社が創建されていやすが、本編の第2話で「光圀が南朝の忠臣であった楠木正成を讃えたのが湊川神社創設の伏線」とありやした。
またこの第2話では「『南朝正統』の光圀の提唱が水戸学となり」とも指摘していやすね。

その通り。光圀に対する落合説には2つのポイントがある。
一つは光圀が楠木正成の子孫であること。もう一つが光圀が水戸藩の世子に決定したのは天海の差配によること。つまり、光圀は最初から天海の陰謀グループに所属していた、ということさ。
整理すると、

光圀は楠木正成の子孫
光圀は陰謀団に所属

これが落合説から見える光圀像の2つのポイントとなる。

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