蘭癖と天忠党の関係 〜蘭学者の起こり
外国勢力を招き入れ「英領日本」を導いた人物群の一角に「蘭癖」と称された人々がいたことを
前回見ました。蘭学者や九州の外様大名などで、外国勢力と彼らは繋がっていました。
その「蘭癖」の代表が「
薩摩の島津重豪。重豪の子である奥平昌高・
黒田長溥や、曾孫の
島津斉彬」とのことでした。
島津重豪とその 曾孫の島津斉彬は共にその娘を将軍家に嫁がせて権勢を振るったのですが、
天忠党図には
「諸国同士」の同盟者として島津斉彬の名が上がっています。
蘭癖大名の筆頭・島津重豪
島津斉彬
天忠党は八咫烏の倒幕と親政を目的に結成された政治組織であり、天忠党こそが明治維新の中核組織であったことは既に
度々見てきました。
外国勢力を招き入れ「英領日本」を導いた「蘭癖」の一群と、天忠党は協働していたということでしょう。
天忠党図の下部には
天忠党の仲間、もしくは
下部組織として薩摩以外にも筑後久留米藩、肥後藩、筑前黒田藩、豊後岡藩、以上の九州の藩名が上がっています。この中、
特に注目すべきは筑前黒田藩でしょう。
筑前黒田藩(福岡藩)はバテレン大名の黒田孝高(官兵衛・如水)の息子で同じく
バテレン大名の黒田長政から始まっています。ウィキペディアの「福岡藩」には次のようにあります。
「10代・斉清は、江戸時代後期、蘭癖大名として世に知られ、肥前長崎の黒田家屋敷に何度も往来して見聞を広げている。」
「11代・長溥は、薩摩藩・島津氏からの養継嗣。正室は斉清息女、純姫。父や養父と同じく蘭癖大名であった。」
黒田藩(福岡藩)黒田長溥
蘭癖島津重豪の子である黒田長溥とは、筑前黒田藩(福岡藩)の11代藩主であったわけです。
バテレン大名から始まり、蘭癖大名が治めていたのが筑前黒田藩で、長い期間にかけて外国勢力と繋がっていたと見るのは自然でしょう。
また 筑前黒田藩の7代と9代は「御三卿・一橋徳川家からの婿養子」ともあります。
筑前黒田藩が注目なのはバテレン大名、蘭癖、島津氏と繋がっていたこともありますが、後の玄洋社に繋がっていくからでもあります。
秘密結社八咫烏の政治組織天忠党と蘭癖がどうやら深く関わっていた様子なのですが、一方この蘭癖に関して前回に挿入されていた
「本物黒酒」さんのツイートには次のようにありました。
「蘭学者はもともと、出島に四足を供給する穢多で、その解体と肉加工に従事する間に蘭語や徳語や英語を覚え、通訳・翻訳家・蘭医になった人々。特に鉱脈に詳しい山窩が英米に喜ばれ、外患誘致した」
この内容によると、
蘭癖の中でも蘭学者は被差別部落民の穢多から元々は出来上がり、その中でも鉱脈に詳しい山窩が重要な役どころになっていたとの見解です。
サンカとして紹介された人々の暮らし
毎日新聞社「毎日グラフ(1954年3月31日号)」より
山窩といえば前回記事で
昨年12月26日の竹下さんの記事から「日本のサンカと呼ばれる勢力が日本のゴールドを海外に流出させて、それが『アメリカ独立、フランス革命、ナポレオン戦争、そして、永世中立国スイスの誕生』に繋がった」とあるよう、
サンカが外国勢力と深く繋がり、協働する勢力であったことを見ました。
果たして
秘密結社八咫烏と蘭癖、被差別部落民、サンカがどのような関係にあったのか?が気になります。
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