竹下雅敏氏からの情報です。
注)以下、文中の赤字・太字はシャンティ・フーラによるものです。
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岡田鴨神社
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下鴨神社
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山城国風土記逸文では、神武東征の先導役として葛城に至り、そこから山代川(木津川)を下り、葛野河(桂川)と賀茂河の合流点に至り、さらに賀茂河をさかのぼり、この地に落ち着いたとあります。
しかし、ホツマツタヱでは神武東征の遥かに以前から、賀茂建角身命は河合神社の辺りに既に住んでいるのです。しかも、娘の玉依姫が白羽の矢(丹塗矢)の伝承で子供を身ごもる前に亡くなっているわけで、上記のような伝承が偽りであることは明らかです。
仮にこの伝承に何らかの意味を見出すとすれば、賀茂建角身命ではなくて、神武天皇を吉野から大和へと導いたレビ族の長老・ヤタガラスの翁およびその末裔が、上記のようなルートを通って、現在の下鴨神社の辺りに住み着くようになったというのなら、意味がよくわかります。
要するに、ホツマの神である賀茂建角身命と、イスラエルの末裔であるヤタガラスの翁(河合神社では八咫烏命として祀られている)を、同一視あるいは混同したために起こる混乱なのです。