高度経済成長の時代へ
岸政権の崩壊に伴い、日本の英米からの自主独立の動きは表立っては消失しました。1960年、岸政権と交代・成立したのが池田勇人首相の池田政権です。
第1次池田内閣(1960年7月)
『戦後史の正体』p198
では、池田勇人は河野一郎、後の首相となる三木武夫とともに岸政権つぶしに動いていたとの見解を示し、p219では、
池田政権誕生は米国の意向を踏まえたものだったと指摘されています。自民党内の「米従・打倒岸」グループとなるのでしょう。
日米安保・行政協定(地位協定)の検討を棚上げにした池田政権が掲げたのが、日本人の「所得倍増計画」でした。そして、それは現実に実現していくのです。既に1950年代半ばから経済成長の波にのっていた
日本経済は、60年代に本格的な高度経済成長の時代を迎えていくのです。日本は米国からの独立を模索する時代から「経済的豊かさ」の時代へと移行していったのです。
ウィキペディアの「1960年代の日本」記事の「
経済」には、以下にあるとおりです。
1964年(昭和39年)の東京オリンピック開催に向けて国を挙げて進められた大規模なインフラ整備などによる『オリンピック景気』や1965年(昭和40年)11月から1970年(昭和45年)7月にかけて57か月間続いた『いざなぎ景気』と呼ばれる戦後最長(当時)の好景気により、日本経済が飛躍的に成長を遂げる「高度経済成長」の最盛期となった。
孫崎享氏は、この時代の日本を支えたのがエドウィン・O・ライシャワー駐日アメリカ大使だったと『戦後史の正体』の中で語っています。
安保闘争で危機におちいった日米関係は、池田首相とライシャワー大使のもとで黄金期をむかえます。ライシャワーは日本人の言葉に誠実に耳をかたむけようとした米国大使でした(p222)
ライシャワー大使の「イコール・パートナーシップ」にはふたつの意味がありました。ひとつは米国に対して「占領軍のメンタリティをとりのぞくこと」を求めるという意味でした。
(中略)
もうひとつは、日本人に対して「イコール・パートナーシップという気概をもて」という激励の意味です。
(中略)
ライシャワーの特徴は、「自分がもし日本人の立場だったら米国にどう要求するか」と考え、それが公平であれば、大使として実現のためにつとめたということではないかと思います。
(p226)
といった具合です。
孫崎氏のライシャワー駐日大使が米国・米駐留軍に「占領軍のメンタリティをとりのぞくこと」を求めたという記載は、米駐日大使の日本での役割を思えば驚きです。
エドウィン・O・ライシャワー
そして実際に、ライシャワー大使の写真を眺めてみれば、彼が相当にまともな人物であったように感じ取れます。高圧的で命令支配する米駐日大使ではなく、日本人の声に誠実に耳を傾ける米駐日大使であったという孫崎氏のライシャワー大使への評価は、これはこれで実際にそうであったように思えます。
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ところが2022年、この決議に異変がありました。賛成した国は105カ国、反対した国は52カ国、棄権が15カ国で、情けないことに日本も反対に回りました。ナチスを容認する日本。「公の場でナチス式敬礼をするだけで刑事罰」のドイツまで反対しています。ロシアのザハロワ報道官によると、米国代表団は決議案を採択する会議の前に、同盟国に対して「民主主義を行なっていた」ようです。おとなしく反対票を投じる同盟国を確認し、記録している様子が残っています。
ロシア外務省はこの倒錯した状況に対して異論の余地の無い声明を出しています。1945年、ヒトラーに対抗しナチズムに勝利した国々によって国際連合ができ、ニュルンベルグ裁判では「悪の勢力の代表は誰かという問題に決着をつけた」。にもかかわらず「我々は再び共通の歴史を否定する試みを見ている。人種差別や外国人排斥の言動は増加し、移民や難民、“異質”を排除するよう求める声が上がり、反イスラム、反キリスト教、反アフリカ、反ユダヤ主義の発現は常態化し、一部の国ではナチズムと戦った死者の記念碑に対する攻撃がかつてない程広がっている」。これは表現の自由などではない、ナチスと戦ってきた人々への冒涜であり、犯罪行為だと。「我々の決議は対立ではなく対話と協力の促進が目的である。この文書の承認は国連創設者達への責務だけでなく、彼らが“戦争の恐怖から永遠に解放される”事を目指した未来の世代に対する、我々の義務なのである」。このような歴史と正義感から語られる言葉を日本も紡ぐことができるか?