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ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第33話 ― 伊藤博文暗殺の伏線
杉山茂丸の出自 〜符合してくる事柄
杉山茂丸は、ウィキペディアの記事によると「戦国大名・龍造寺隆信の末裔」と記されています。ところが落合莞爾氏は杉山茂丸について、確かに「杉山家の家系は龍造寺氏の男系」としながらも更に次のようにも記述しています。
茂丸の実父が黒田藩主黒田長溥であることは、7歳時に長溥にお目通りして茂丸の名を頂いた話しで十分判ります。したがって茂丸の実の祖父は黒田長溥の実父の薩摩藩主島津重豪なのです。(『ワンワールドと明治日本』p286)
落合氏の説によると杉山茂丸は黒田藩主の息子であり、更に血統的には薩摩島津氏の流れとなります。蘭癖大名で有名だったのが薩摩藩主島津重豪とその息子の黒田藩主黒田長溥であり、杉山茂丸はこの血族だということになります。そして留意点があって、それは薩摩島津氏は秦氏であることです。
落合氏の説に基づく杉山茂丸の系図
@Ty4300Ty @zgmfx10afreedo4 @kemomimiprpr
— ♚ 白雪@神風ボカロṔ ♚ (@shirayukikujyou) January 16, 2015
島津氏は、秦氏の子孫・惟宗氏の流れを汲む惟宗基言の子の惟宗広言が、主筋である藤原摂関家筆頭の近衛家の日向国島津荘の荘官(下司)として九州に下り勢力を拡大。
島津は秦氏です(・8・)wwww
この杉山茂丸に対する落合氏の見解は事実と思えます。なぜならば落合氏の説に基づくならば幾つもの事柄が「ああ、なるほど、それで」と符合してくるからです。見ていきましょう。
②ウィキペディアの「玄洋社」記事には次の記述があります。
玄洋社の社員で日露戦争の影の立役者であった明石元二郎は修猷館(しゅうゆうかん)の出身でした。
また里見甫(さとみ はじめ、1896年1月22日 - 1965年3月21日)という非常に重要な人物がいました。彼は現在の電通の前身である満州国通信社の社長兼主筆を勤め、更にアヘン貿易の里見機関の主でアヘン王と称された人物です。この里見甫も玄洋社の関係者で修猷館を卒業しています。
このように元々黒田藩の藩校であった修猷館が「多くの玄洋社の運動家を輩出」し、玄洋社と非常に縁が深かったのも、玄洋社の社主杉山茂丸が黒田藩主の息子ならば「ああ、なるほど、それで」となります。
多くの玄洋社の運動家を輩出した福岡藩の藩校である修猷館
玄洋社の社員で日露戦争の影の立役者であった明石元二郎は修猷館(しゅうゆうかん)の出身でした。
また里見甫(さとみ はじめ、1896年1月22日 - 1965年3月21日)という非常に重要な人物がいました。彼は現在の電通の前身である満州国通信社の社長兼主筆を勤め、更にアヘン貿易の里見機関の主でアヘン王と称された人物です。この里見甫も玄洋社の関係者で修猷館を卒業しています。
電通㈱は戦前の満州で開業した工作機関。創業者はアベの祖父である岸信介と二人三脚で中国侵略を推進した #里見甫。別名アヘン王。無論、戦後は岸ともどもA級戦犯として捕まったがCIAスパイになる事で助命された外道。嘘だと思う奴は機密指定解除されたアメリカ公文書を読め!https://t.co/PHEaPhGfMY pic.twitter.com/OXVZZSjaA9
— ジミー&ビリー@自民(棄民)党を擁護するバイト野郎とバトル中 (@JIMMYandBILLY) December 5, 2019
このように元々黒田藩の藩校であった修猷館が「多くの玄洋社の運動家を輩出」し、玄洋社と非常に縁が深かったのも、玄洋社の社主杉山茂丸が黒田藩主の息子ならば「ああ、なるほど、それで」となります。
Wikimedia Commons [Public Domain]
編集者註:六芒星についてはこちらを参照。
③前回、杉山茂丸と伊藤博文が非常に奇妙で深い因縁にあったことを見ました。杉山茂丸が伊藤博文を暗殺しようとしたのが縁の始まりで、杉山は日露関係などを巡り伊藤博文を謀殺しようとしていた模様でした。
こういった背景には何があったのか? 杉山茂丸が血統としては島津氏つまり秦氏の血流だと知れば「ああ、なるほど、それで」の部分もでてきます。
こういった背景には何があったのか? 杉山茂丸が血統としては島津氏つまり秦氏の血流だと知れば「ああ、なるほど、それで」の部分もでてきます。
八咫烏は秦氏を中心とする秘密結社です。その八咫烏は明治維新の際には長州の田布施一族と確かに手を組みました。それで薩長を主力とした勢力が成立し明治維新は成功しました。
その後ですが、明治政府は長州田布施出身の大室寅之祐を明治天皇として戴いており、薩長勢力の中でも明治政府の中で実権を握っていったのは伊藤博文を中心にした田布施一族であったといえるでしょう。
さて、明治維新で手を握った秦氏と田布施一族でしたが、しかし元々は秦氏と田布施一族は仇敵の関係にあったはずなのです。杉山茂丸は秦氏の血流であり、伊藤博文は田布施一族であって、秦氏と田布施一族が仇敵の関係にあったことを踏まえれば、伊藤博文に対する杉山茂丸の行動がある程度は理解できるのです。
1858年の日英修好通商条約以降の日本における2つの支配構造
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杉山茂丸と伊藤博文の海外に対する方針姿勢は相容れないものでした。「日本の(武力行使を含めた)積極的海外進出」を主張していた玄洋社の韓国への主張は「日韓合邦」(日韓併合ではない)でしたが、これにしても元来の伊藤博文の姿勢とは相容れないものでした。
そして対ロシアの方針は玄洋社と伊藤のそれは全く相容れないものでした。日露開戦を強く訴えていた玄洋社、それに対して伊藤はロシアとの戦争回避の協商路線を模索していたのです。
更にあります。今回はその詳細を見る余裕はありませんが、日露戦争後の満州に対する方針は、玄洋社の杉山茂丸とその盟友である陸軍の児玉源太郎たちと、伊藤のそれとはこれも完全に相容れないものだったのです。
日本は日露戦争後のポーツマス講和によって満鉄の権利を得ました。杉山たちはこの満鉄を満州の「植民地経営を具体化」に利用する方針で設立、この姿勢を憂慮した伊藤はこれを真っ向から反対したのでした。
伊藤博文暗殺は韓国併合に繋がりましたが、それだけではなく満州国設立にも繋がっています。更には伊藤暗殺は日米開戦の遠因との指摘もあるのです。