落合莞爾氏は『
ワンワールドと明治日本』281~282頁に次のように記しています。
明治13(1880)年、京都皇統の住む堀川御所で将来の國體天皇となる男児が出生します。御父は、政体天皇の地位を長州藩奇兵隊士大室寅之祐に譲って堀川御所に入った皇太子睦仁親王で、当年29歳、御祖父は慶応2(1866)年の偽装崩御以来、睦仁親王とともに堀川御所に棲む孝明先帝で、ときに50歳です。
睦仁親王と大室寅之祐は明治4(1871)年11月17日に東京皇城の吹上御苑において揃って大嘗祭を執行されておられますので、ともに天皇と呼ばれて何ら差し支えない立場です。つまり「明治天皇は二人いた」のですが、大室寅之祐が表の明治天皇として表に出て、睦仁親王は「ウラの明治天皇」となったので、いわば國體明治天皇となったのです。
(中略)
明治20(1887)年に7歳になった睦仁親王の皇子は、堀川御所で豊子(のちの松下トヨノ)が生まれたのを機に博多に移り、(中略)...辰吉郎が福岡へ移されたのは、黒田藩の政治結社玄洋社の実質社主の杉山茂丸と社長の頭山満から武士的素養と気風を学び、小学校に通って下情に通じるためです。
ここには幾つもの重要なことが記されていますが、その一つで
目を引くのが、表の明治天皇(政体天皇)となった大室寅之祐と初代裏天皇(國體明治天皇)となった睦仁親王が、同刻同じ場所(東京皇城吹上御苑)
にて揃って大嘗祭を執行したという部分でしょう。
初代裏天皇となった睦仁親王
(25歳当時の明治天皇と紹介された写真)
二人が同時に大嘗祭を執行、これは天皇
践祚の儀式ですから記されている内容は非常に重要です。それと共に
大嘗祭はあまりにも重要で、これに関して虚偽を記されるような性格のものではないので事実と見るしか無いでしょう。
ただし、こうなるとかなり多くの皇室関係者などは、
二人の大嘗祭同時執行の事実を承知していたはずです。その上で、その事実を
関係者は現在まで厳重に秘匿してきたことになります。150年間の秘事です。
さて、次いで気になるのが、ここでは堀川辰吉郎の生年が1880年となっていることです。堀川辰吉郎は自称では1884年生まれとのことでした。天皇そして八咫烏(サンカもですが)には戸籍が無いとのことで、このように生年がハッキリしないようなことになるのかも知れません。ただ
堀川辰吉郎の生年は1880〜1884年の間と見て間違いないでしょう。
この時期は、世界的には1881年にアレクサンドル2世が暗殺され、ポグロムの嵐が吹き、共産革命運動を含めたシオニズムの世界潮流が生じ、日本では1882年に日本銀行が設立されています。
世界と日本の歴史の分岐点になる時点で堀川辰吉郎が誕生したとも言えるでしょう。
その
堀川辰吉郎が7歳の時に京都から福岡博多に移されたと落合氏はしています。それは辰吉郎が玄洋社の杉山茂丸と頭山満から「武士的素養と気風を学び、小学校に通って下情に通じるため」とのことです。
玄洋社が辰吉郎を保護・育成していく役割を担ったということになるでしょう。
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