満洲皇族と八咫烏の関わり 〜「嵯峨浩」の出自
満洲国とは関東軍の傀儡国とも言えるのですが、それでもやはり、その国家元首は当然ながら重要です。清朝は満洲族が創建した国家でした。その
清朝最後の皇帝が愛新覚羅溥儀であり、
その溥儀が満洲国の元首として選定されたのです。
満洲帝国軍大元帥服で皇帝に即位する溥儀
さて、満洲皇族たちの代々の居城が言うまでもなく紫禁城でした。清朝崩壊後もしばらくは満洲皇族たちは紫禁城にありました。この紫禁城に裏天皇・堀川辰吉郎の居住場所があったことは、
大正編 第11話で見たとおりです。
落合莞爾氏によれば
溥儀の摂政を勤め、清朝末期の満洲皇族の中心だったのが醇親王、この醇親王のはからいによって、満洲皇族との対応を担当した堀川辰吉郎が紫禁城内に居住場所を構えることになったようです。
この事実にたてば、満洲国設立にあたり清朝最後の皇帝溥儀が満洲国元首になったこと、これに堀川辰吉郎・八咫烏が関わっていないはずなどないのは全く明白です。
そして満洲皇族では、
溥儀の弟の愛新覚羅溥傑も八咫烏絡みであるのが見て取れて興味深いです。愛新覚羅溥傑本人そのものよりも、その妻の出自に目を引かれるのです。
溥傑の妻が「
嵯峨浩」です。自伝『流転の王妃』を著した女性で、侯爵嵯峨家(公家華族)の長女とウィキペディアの
「嵯峨浩」記事にあります。
ただし、嵯峨浩は嵯峨家の娘ではありますが、
この記事の系図をみれば分るように、
嵯峨浩は同時に中山忠光の忘れ形見の中山南加の孫娘でもあることが分かります。
中山家、嵯峨家、満洲皇族の系図
中山忠光とはいかなる人物であったか?
倒幕、そして明治維新を導いた中核組織が、八咫烏の政治組織として結成された「天忠党」でした。
この天忠党の下部組織に「天誅組」があり天誅組の主将が中山忠光だったのです。
幕末期、中山忠光は天忠党総督・中山忠伊(光格天皇の皇子)の采配の元に決起挙兵、「大和天誅組の変」を起こします。しかし敗走し、長州に逃れ潜伏。ところが、そこで中山忠光は斬殺され、非業の死を遂げたのでした。
中山忠光は、五龍会の中心・黄龍会の初代総裁でもある中山忠能の息子でもあります。忠光は長州の地にて非業の死を遂げますが忘れ形見、中山南加を遺していたのでした。
この中山忠光の遺児である中山南加の孫娘が嵯峨浩だったのです。
八咫烏の政治組織の重要人物で、かつ非業の死を遂げた人物の血流を引く女性が、愛新覚羅溥傑の妻となっているのです。
八咫烏は本来政治活動を行わず、それで八咫烏の政治組織として江戸期に結成されたのが「天忠党」でした。同様に五龍会も八咫烏の政治組織であり、
五龍会とは「天忠党」の後継組織とも見なせます。
中華民国初代大統領の孫文も五龍会、とりわけ黄龍会の中山家とは深い関わりがありましたが、満洲皇族たちとも五龍会が深く絡んでいたのは明白でしょう。
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白い毛物ちゃん
出てきたら羊さん?
たすけられたのに
慌てて
ぴょんぴょんどーん
あー